これが新聞記者だ 反骨のジャーナリスト田中哲也

(『月刊公論』臨時増刊『これでいいのかマスコミ』1993.7.20所収)

 

 もう20年も前になりますが、『月刊公論』の当時の宮野澄編集長のおはからいで、私が駆け出し記者だったころの朝日新聞佐世保支局長、田中哲也氏について書いた原稿です。マスメディアの退潮とジャーナリズムの衰退が言われる昨今、かつてこういう新聞記者もいたという記録として、『月刊公論』誌の了解を得て、アーカイブとして再録させていただきました(算用数字を縦書きスタイルから横書きに替えるなど、一部体裁を変更しています)。

 

【田中哲也(1929~1987)】九州大学経済学部卒、1954年、朝日新聞に入社。西部本社社会部、同整理部、大阪本社社会部、別府通信局などを経て、1968年佐世保支局長、69年西部本社通信部次長、71年宮崎支局長を歴任。73年8月から1年間、朝日新聞労働組合本部委員長。76年から東京本社調査研究室主任研究員。定年嘱託中の87年、直腸癌にて死去。享年58歳。

 

 世界的スクープで名をなした記者ではない。恵まれた環境の中でのびのびと活躍した花形記者でもない。新聞記者としては、むしろ不遇であった。にもかかわらず彼は、朝日新聞社に在籍した反骨のジャーナリストとして、いまなお多くの人に、深い親愛の情と強い憧憬の念をもって記憶されている。

 ごこに『追悼田中哲也』と題する一冊の本がある。

 A5判、400ページの自費出版本で、約百人が追悼文を寄せているが、寄稿者の層の広がりと哀惜の念の深さが、田中哲也という一人の新聞記者、いや人間の魅力をいかんなく示している。私も田中さんの薫陶を受けた一人である。

佐世保と土呂久

 私がはじめて田中さんに会ったのは1968年2月、朝日新聞入社2年目で盛岡支局から佐世保支局に転勤になったときである。田中さんはまだ30代の支局長だった。身長は160センチそこそこと小柄だったが、日焼けした体はたくましく、広い額の下で大きな目がキラリと輝いていた。

 当時はベトナム戦争の真っ只中、1970年の日米安全保障条約改定期を前に保革の対決機運が高まり、各地の大学では学生運動が高揚していた。

 そんな年明け早々の1月、米海軍佐世保基地に原子力空母エンタープライズが寄港、街では寄港に反対する野党、労働団体、学生らのデモと警備に当たっていた機動隊が激しく衝突、市民も巻き込んだ大騒動が展開されていた。私が着任したのはエンタープライズが出港した直後だったが、街にはなお余燼がくすぶっていた。

 田中さんはエンタープライズ取材現地本部の裏方として大忙しの日々を送りながら、自らもヘルメツトをかぶって街に出て、現場を自分の目で見、足で確認していた。

 こんなことを思い出す。

 市内が学生と機動隊の衡突で騒然としていたころ、外人バー街にあるホルモン焼き屋のおやじさんが支局に乗り込んできて、

「朝日の記事は偏っとるばい」

 といったのだそうだ。田中さんは、

「警察の警備は明らかに行き過ぎ。もっと過剰警備を批判しなくてはいかんな」

 と合点したのだそうだが、さにあらず、おやじさんは米空母歓迎一色の外人バー経営者たちの声を収録したテープを持ち込んで、

「これが正しい市民の声たい」

 といった。

 報道陣にまで殴りかかった警察の過剰警情を問題にする田中さんと「三派全学違はけしからん」と息まくおやじさんは、議論しながら奇妙に意気投合し、たまたま居合わせた地元テレビの報道記者の発案もあり、そのホルモン焼き屋を舞台に、佐世保市長、エンタープライズ寄港推進派の自民党市議、寄港反対で基地反対運動にも取り組む市民グループ世話人、労働団体である佐世保地区労の代表などを集めて、かんかんがくがくの安保論議を行うことになった。

 そのドキュメントはすぐれた番組として民放団体の賞を受けたのだが、私はこの経緯の中に、田中さんのジャーナリストとしての反骨、事実に対する探究心、主義主張を離れた人問に対するあくなき好奇心、優しさなどを感じとり、これが新聞記者なのか、と大いに感じいったものだ。

 私が店にはじめて案内されたとき、まだテレビカメラが据えられたままの小さな店の片隅で、無精ひげをはやした着流し姿のおやじさんが昼間から酒を飲み、愛想のいいおかみさんが快活に働いていた。

 おやじさんが「朝日は学生を甘やかしすぎだ」と怒りながらも田中さんに向かって人なつっこく話し、田中さんが「あはは」と笑いながら応ずるやりとりも楽しく、そんな縁で私はホルモン焼き屋近くのあいまい宿2階にあるアパートに住みつくことになった。

 はなやかなネオン。ミニスカートで闘歩する厚化粧の女たち。夜になると、開け放たれた窓やドア越しに「ドントタッチミー」といった女たちの矯声が聞こえ、狭く入り組んだ路地で黒人と白人のけんかが始まり、怒声、SPの警笛、けたたましい足音が響いた。

 駆け出し記者の私は、普通ならおっかなくて入り込めないような歓楽街のど真ん中で寝起きしながら、田中さんの下で新聞記者のあり方を学んでいった。「ジャーナリストは歴史の証人」「演説はいらない。大切なのは事実」などなど、教えられたことは多い。

 田中さんは支局長として在籍した2年近くの間に起こった出来事を『佐世保からの証言』(三省堂新書)という本にまとめているが、そのあとがきにこう書いている

 1968年を中心に佐世保は、原子力艦艇による事件で揺れ動いた。そのなかから、基地に向かってものを申す市民運動が静かに歩きだした。相ついでやってくる学生たちの原子力艦艇に対する抗議行動。それを受け止める大衆のこころもまた動いた。一方では警察権カの意欲的な動向。私の視界のなかで歴史が動く。そのような思いのする日々であった。状況は「70年の選択」に向かってさらにすすんでいる。歴史の実践者であらねばならないと信じている新聞記者として、目前に流動する歴史を評価し記述せねばならないという衝動にかられて、私はこの記録を書きはじめた。

 『佐世保からの証言』はエンタープライズが滞在した7日間の激動から始まり、その年5月の米原子力潜水艦ソードフィッシュの異常放射能事件など、日本を揺るがした1年余の日々を克明に記録したもので、田中さんが世に問うた最初の力作といえるだろう。

 宮崎支局長時代に地元の一教師によって告発された土呂久事件では、支局取材の陣頭指揮に当たり、朝日新聞本紙や地方版に意欲的な出稿を続けながら、ここでも『鉱毒・土呂久事件』(三省堂選書)という記録を残している。

 宮崎県高千穂町にある山間部落、土呂久の住民が長年にわたって亜砒鉱山による鉱毒被害にあっていた事件だが、戦前から営業していた鉱山は惨劇が明るみに出るずっと以前に稼働を停止していたという経過が、間題を複雑にしていた。

 田中さんは、企業が住民の生命や健康を蝕みながらほとんど補償らしいことをせず、すでに操業を終え、住民の被害はなお広がっているというのに、行政当局はマスコミが事件を取り上げるまで何の手も打たなかったばかりか、むしろ事実を隠ぺいすることに汲々としてきたことにこそ「公害という犯罪の今日的意味がある」と捉え、「だからこそ新聞記者の責任は大きい」と、若い支層員たちを励ました。

 同書には反骨のジャーナリスト、田中さんらしいこんなくだりがある。

 公害に第三者的な立場はない。第三者を名乗ることは加害者の側に加担することでしかない―いま振り返ってみると、土呂久鉱毒事件の取材過程のすべてがこの原則の確認だったように思う。そして、その中から得たことは、自分自身のなかに潜在する「加害者」を摘発しない限り、公害の実相を解明することはできない、という教訓であった。産業加害の原罪ともいうべき土呂久鉱毒事件を究明することは、そのまま私自身の原罪を問うことであった。

 田中さんは常に弱者の立場から強者を告発し、地方から中央を撃った。

 今も土呂久事件に取り組む記録作家・川原一之氏は、当時の宮崎支局員である。彼は東京・池袋で行われた田中さんの葬儀に宮崎から駆けつけ、次のような弔辞を読んでいる。

「地方版は官憲の手のはいらぬ解放区である」あの名セリフが、今も耳の底に残っています。その解放区で私たちは育てられました。忘れもしません。

「川原君、土呂久へ行け」

16年前の11月、私は1ぺ-ジの解放区を与えられ、大分との県境近い鉱毒のむらへ登ったのでした。それが新聞記者をやめて土呂久へのめり込むきっかけになったのです。一言のおかげで、私は生涯をかける仕事にめぐりあえる幸せを得ることができました。

任侠三部作と組合委員長

 田中さんに育てられた後輩は多い。というより田中さんの周りにいる人間は、彼の発する「オーラ」を受けて、より輝いて見えた。彼の周りにいると、皆が能力以上のものを発揮するようであった。

 部下をよく飲みに連れて行き、飲めば好んで演歌を唄ったが、周りの人間にも「自分にあった歌を見つけろ。それを持ち歌にしろ」とさかんに勧めたから、歌の下手な人間も一生懸命唄い、彼にほめられ、実際にうまくなった。

 田中さんのおはこは「任侠三部作」であった。

 大利根月夜・流転・妻恋道中

 酔いが回れば、「ヨォッーシ」。にこやかに立ち上がり、「十九世紀ヤクザの唄」

 こう大きく叫んで、腰のベルトに両手をあてがい、膝をやや曲げるようにゆったりと構え、大きな声で絞り出すように、ときに吠えるように唄った。

 あれをごらんと指さすか~た~に

 田中さんの行くところ演歌あり。合いの手に、なかば陶酔したように、なかば照れたように、あるいは自分を鼓舞するように、「ええぞ、田中哲也。これぞ自画自賛」「二番がいいんだ」「圧倒的世論にこたえて」「本当は三番が一番いいんだ」などというこれまたいつもの名セリフが入り、唄うほどに酔うほどに会場は盛り上がり、「哲也、ええぞ」のかけ声も飛んだ。

 田中さんは、権力に背を向け義侠に生きたヤクザに、ジャーナリストとしての自らをだぶらせていたともいえる。「意地で支える夢一つ」というところがあった。男らしく生きると決めて、やせ我慢あるいは自己変革、そうとうに肩肘を張って生き、それを容易に他人に気づかせなかった。

 誰のことも悪く言わなかった。何かしらいいところを見つけ、それをほめた。敵対する人間をもどこかで許すところがあった。だから「哲ちゃん、哲ちゃん」と上司からも部下からも、誰からも好かれた。

 田中さんは45歳、西部本社学芸部次長のとき、朝日新聞労組本部委員長に推された。若いころすでに本部書記長を務めており、社内ポストや年齢からいっても、断っておかしくない状況だったが、彼はそれを受けた。あえて田中さんに白羽の矢を立てた推薦委員長の佐々木清氏は追悼集の中で、話を切り出したとき田中さんは「男児として考えるよ」とのみ答えた、と書いている。「断る理由がない」から、推薦に、「世論」にこたえるという潔さだった。

 定期大会での委員長就任あいさつで、「頼れるものはおのれ自身と腰のドス」と発言して並み居る代議員を驚かせたが、田中さんの筆になる第25期本部執行委員会の発足声明は、格調高い名文でこううたっている。

 われわれは労働者である前に人間でありたい。地平に昇る太陽を共に迎え、苦楽を平等に分かち合う、そういう人間でありたい。 その人問が人間らしく生きることを侵害するものを、われわれは断じて許すことはできない。われわれのたたかいはそこから始まる。

 田中さんの妥協を排する厳しい「生きざま」は、組合委員長として、今度は会社の経営姿勢に向けられ、田中執行部は春闘で15年ぶりというストを打ち、任期後半には石油ショックを契機に強行された印刷職場の合理化に反対する闘争を率い、多くの処分者を出した。

 組合委員長の任期を終えた田中さんはまもなく東京本社調査研究室主任研究員となって西部本社を離れるが、処分を不服とする組合の労働委員会提訴など第三者機関を通じての闘争では自ら証言台に立つなど、以後十年にわたる闘争の精神的、理論的支柱であり続けた。

 その間、田中さんを慕う人の輪は朝日新聞社内外に広がり、「任侠三部作」はいよいよ冴え渡った。

農をめざしつつ癌に倒れる

 常々「取材の一線ならどこにても可」と働く場所にこだわらなかった田中さんにとっても、調査研究室勤務はいささかの淋しさを伴ったはずだが、そんなことはおくびにも出さず、ここでは農業問題に取り組んだ。

 福岡県八女郡の農家の出身で、定年後は農業を継ぐ「潜在後継者」と名乗っていたから、農業はかっこうの研究テーマでもあった。

 その農の原点を求め、「机上で学習すべきではない。言葉の砂漠のようなところへ迷い込んではならない」と自戒しながら、田中さんらしい実証主義で全国の現場を歩き、いくつかのすぐれたレポートを残している。

 追悼集に「農業論」としてまとめられた論考の中で、田中さんは日本の食料自給率の低さを嘆き、「米は日本の風土にもっとも適し、生産力も高い作物であり、その米が日本人の食生活の中心にすえられるのは当然である。日本人はもっと米を大事にしなくてはならない」と、政府の減反政策、いやアメリカ農業戦略に追随する日本の農政そのものを厳しく批判している。

 一方で秋の田、青田、れんげ畑などの光景がいかに日本人の心のふるさとになっているかを語り、疲弊した農業再生の道を共同経営に求めようとした。「新しい農への発願」と題するレポートは、次のように終わっている。

 2年先、村に帰ったら、まず何とか祭を復活し、それを集落再生の手がかりにできないものか。そのような努力を続けてゆくことによって、私たちの集落に最も適合した新しい共同農業を模索することができるのではないか。日暮れてなお道遠し、というほどに難しいことかも知れないが、自らを人間として解放するためにも、やらねばならない。その悲願を確かめながら、水戸を辞したのであった。

 85年、印刷職場の合理化をめぐる闘争で組合と会社の和解が成立、全員の処分が撤回された直後に、田中さんは大腸癌の手術を受けた。これは田中さん最後の壮絶な闘いとなり、「農への発願」もかなわず、翌86年12月、58歳の生涯を閉じた。

 追悼集には、田中さんが朝日労組西部支部のガリ版刷りの機関紙に連載した闘病記も収録されているが、自ら癌にさいなまれながら周囲の人々に温かい目を向けた病棟ルポには、新聞記者としての田中さんの真骨頂を見る思いがする。

癌を切りなお癌と居し一瞬の秋

 こんな句も残している。

 闘病の合間に参加した田中さんを励ます北九州市での集会について、「私は相集う同志の恩寵に合掌しつつ、義と侠気の世界に身を沈めた。これぞ『生きている者』の務めとばかり大声を張り上げて『三部作』を唄い続けた」とも書いている。

 田中さんの生き方は、ドイツの哲人が求めた生き方そのものだったのではないだろうか。

 「わたしが愛するのは、自分の行為に先立って黄金の言葉を投げ、自分の約束よりも、つねにより多くを果たす者だ」(ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った』」氷上英廣訳、岩波文庫版)

(矢野直明『月刊Asahi』編集長)