古藤「自然農10年」(18)命と死④

作家三島は、「なぜ死にたまいし」

「命の惜しくない人間がこの世の中にいるとは、ぼくは思いませんね。だけど、男にはそこをふりきって、あえて命を捨てる覚悟も必要なんです」。三島由紀夫が自決の1週間前に語った言葉である。場所は自宅、午後8時から2時間のインタビューに答えた。

 相手は、三島の著作をほぼすべて読む一方で、「戦後」を敵視する三島を批判し続ける文芸評論家の古林尚(ふるばやしたかし)。この夜も、「天皇制賛美や『盾の会』は軍国主義」と歯に衣着せず迫る古林に、三島は戦後観、文学論を笑いながら、心を開いて話した(「三島由紀夫最後の言葉」、初出は「図書新聞」)。

 海軍小学校から早稲田露文科へ進み戦争体験を持つ1年後輩のこの広島県人に三島がことのほか好意を持っていたことは間違いない。自決の計画を胸に秘め、まだ『豊饒の梅』第4巻を書き上げていない夜に、彼はなぜこの対談を受けたのか。マルクス主義、戦後民主主義を信奉するこの生真面目な高校の国語教師に向かって胸襟を開いた言葉は、現在の私たちに向かって遺言するための対談だったとすら思える。

「敗戦で僕も一時は非常に迷いました。でも政治はノンポリというか盲目でしたから一種の逃げ道として芸術至上主義を気どることにしたんです」「そのうちにだんだん、十代に受けた精神的な影響、一番感じやすい時期の感情教育が次第に芽を吹いてきて、いまじゃあ、もう、とにかく押さえようがなくなっちゃたんです」と笑いながら話している。

「ぼくの内面には美、エロティシズム、死というものが一本の線をなしている」「ぼくのやろうとしていることは、人には笑われるかもしれないけれども、正義の運動であって…吉田松陰の生き方ですよ」「芸術は生きて、生きて、生き延びなければ完成も、洗練もしない。もうトシをとっていくということは、苦痛そのもので、体が引き裂かれるように思えるんです。だから、ここらで決意を固めることが、芸術家である生きがいなんだと思うようになったんです」

 19歳にして天皇陛下バンザイという趣旨の遺書を書いたし、それが今も生きていると語って「遺書は何通もかけないから死ぬとき、もう遺書を書く必要はない」「戦後は余生」と語った。「チンドン屋ということになりませんか」と古林が盾の会を批判すると「あなたにはっきり言っておきます。いまにわかります。そうでないということが」と答えた。

 古林が退かず「悪用しようとする連中が心配」と重ねると、三島は「敵は政府、自民党、戦後体制の全部」「連中の手にはぜったい乗りません。いまに見ていてください。ぼくがどういうことをやるか」と大笑いした。古林が感覚のもっと鋭い人なら何か気づいたかもしれないが、彼はこともなげに美学や小説の話題に移った。

 狂おしい真夏の炎天と敗戦を境に、山本常朝の「葉隠」を心のよりどころにして戦後を歩み始めた三島由紀夫。日記風に描いた評論『小説家の休暇』の最後の日付、昭和30年(1955年)8月4日の時点では「混乱の極限的な坩堝の中から日本文化の未来、世界精神の試験的なモデルが作られつつある」とまだまだ期待をよせていた。

 この翌年に最高傑作とされる『金閣寺』の連載が開始され、小説、エッセー、評論、戯曲など超人的な作家活動を繰り広げながらボディービルを始め、剣道にも本格的に打ち込む。ギリシ旅行に出かけた4年前から日光浴を始め、戦前の入隊検査で誤診された青白い体は日焼けした逞しい体に変貌しつつあった。

 バーベルで筋肉を鍛え続けて14年、「盾の会」の軍服に身を固めた三島由紀夫は、昭和45年(1970年)11月25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地に立てこもり、バルコニーから演説する衝撃の決起を起こす。

・縦の会会員とともに市ヶ谷駐屯地へ

 その日、三島、森田必勝(25歳)ら盾の会の一行5人は、東部方面総監部の益田兼利総監を表敬訪問することになっており、正午少し前、市ヶ谷駐屯地の正門をフリーパスで通過した。旧日本軍の大本営陸軍部だった東部方面総監部のバルコニーの下の玄関から総監室へ丁寧に案内された。

 話題が持参の日本刀になり、総監にそれを見てもらうのが行動開始の合図で、計画通り、総監を手拭いでさるぐつわし、ロープで後ろ手に縛った。間もなく自衛官らが異変に気付きバリケードのドアをこじ開け突入してきた。三島は太刀を振るい3人を押し返し、代わって突入してきた幕僚ら7人も乱闘の末、退散させた。剣道5段の三島は深手を負わせない太刀遣いだったという。

 総監の安全を考えて退散した幕僚らは窓を割って三島を説得しようとしたが、三島は「この要求をのめば総監の命はたすける」と、自衛官を集合させて演説させるとの要求書を投げた。

 こうして白手袋、日の丸の白鉢巻をした三島が、バルコニーで演説するあのニュース映像になる。荒唐無稽なクーデターは混乱の中で終わり、三島は益田総監に丁寧に詫びた後、45歳の生涯を閉じる。ヤアと気合を発し両手で短刀を左わき腹に突き立て右一文字に割腹。途中、「まだまだ」と介錯を待たせた後、「よし」と森田の介錯を受けた。

「武士道は死に狂いなり」とする行動哲学の葉隠は、「芸能」をお国を背負って生きる覚悟からほど遠い「何の益(やく)にも立たぬもの」と軽蔑する。その言葉のせいかどうか、三島は有り余る才能と芸術に挑戦する妥協なき精神力、驚くべき執筆量の作品を残しながら、その全てを排せつ物と一蹴するかのように血みどろの終末を選んだ。

・決起へ加速した5年の坂道

 一つはやはり19歳の遺書に遡る。昭和36年(1961年)、「二・二六事件」を題材に短編小説「憂国」を書き、4年後に自ら監督、主演して映画化した。反乱に加わった親友を勅命で討伐する立場になった中尉が悩んだ末に妻と心中する物語だ。三島が演じた中尉の切腹シーンは凄まじく、白無垢を血で染め、死に化粧へ歩む妻の妖艶さが世に衝撃を与えた。

 翌昭和41年、高度成長が本格化する元日、日の丸を飾る家がまばらになった風景を嘆き、この年6月には二・二六事件で銃殺刑になった青年将校と特攻隊の兵士が霊媒師によって語る『英霊の声』を発表。神として兵に死を命じながら天皇はなぜ人間となってしまわれたのかと恨む様を能の表現で描いた。

 8月下旬には奈良・桜井の三輪山で滝に打たれ、その足で学習院時代の国語教師、清水文雄を広島に訪ねる。最初の小説『花ざかりの森』を読んですぐ天才を認めてくれたペンネームの名付け親である。恩師の案内で江田島へ向かい特攻隊員の遺書を読み、恩師に見送られて熊本へと旅を続ける。

 訪ねたのは蓮田善明(はすだぜんめい)の未亡人である。蓮田は、天才の出現を一緒に喜んでくれた清水の親友である。文武両道のこの詩人を三島は深く慕い、常朝に対するように私淑した。しかし、蓮田はマレー半島で終戦を迎えた直後、天皇を愚弄した連隊長を射殺して自決した。昭和18年の出征の間際に「日本のあとのことをおまえに託した」と言い遺した蓮田の言葉が三島の胸中深く刻まれていた。

 昭和42年から翌年にかけては自衛隊へ体験入隊したり、祖国防衛隊として「盾の会」を結成したりした。昭和44年(1969年)2月11日には、佐賀の乱で斬首された江藤新平のひ孫(23歳)が工事現場でひっそり焼身自殺した。建国記念日の国会議事堂前に置かれた遺書には、混沌の世に覚醒を促す「大自然に沿う無心」「神命により不生不滅の生を得む」とあった。三島の胸を揺さぶったと思われる死であった。

 もう一つは、『太陽と鉄』である。バーベルの鍛錬だけでなく、自衛隊の訓練と駈足で体を鍛え続けた。その逞しい肉体が彼の思考、精神にどのような作用を及ぼしたかが、その長いエッセーで著されている。その文章は極めて難解で、自我を家屋とするなら肉体はそれをとりまく果樹園のようなもので「たえざる日光と、鉄の鋤鍬が、私の農耕のもっとも大切な二つの要素になった」と書き始めている。

「書物によっても、知的分析によっても、つかまえようのないこの力の純粋感覚に、私が言葉の真の反対物を見出したのは当然であろう。すなわちそれは徐々に私の思想の核になった」「肉体的勇気とは、死を理解して味わおうとする嗜欲の源」「文武両道とは散る花と散らぬ花を兼ねること…死の原理の最終的な破綻と、生の原理の最終的な破綻とを、一身に擁して自若としていなくてはならぬ」

 夭逝を夢見ていた若き三島に死はまだ浪漫であったが、無縁であった強靭な肉体を持つに至った三島は、つまり生から死へ跳躍する力を備えたということなのだろうか。「あれ(著作の文章)を本当にわかってくれた人は、僕がやることを全部わかってくれると信じます」「僕が死んで50年か100年たつと、ああ、分かったという人がいるかもしれない。それで構わない」と『太陽と鉄』の英訳をしたジョン・ベスター氏に対談で語っている。

 死の1週間前、三島は論敵を相手に楽しそうに会話をしたが、絶対者の秩序を欠く自由主義の弊害、とくにフリー・セックスの世になって、近いうちに一夫一婦制が崩壊するだろうと心配した。『宴のあと』裁判で体験した裁判、司法については「実にマヤカシモノ」と大きな失望を隠さなかった。

 黒船や敗戦がなければ維新や農地改革ができなかったという改革への内発性を持てない国情を憂え、天照大神まで遡る日本の伝統や歌舞伎の行く末を心配し「やっぱりどこも出口がないなァ」と慨嘆した。「そんな意気地のないことでは困りますね」と思わずいった古林が「あれッ、おかしいな。あなたを激励するつもりなんか全然なかったのに…」という言葉をもらして深夜の対談は終わっている。

 コロナウイルスが国の在り方や人の生活の仕方を根底から問い直している今、壮絶な三島の死は、国家とは、人生とは、人の命と死とは、と同じように鋭く問い続ける。三島が愛した「源氏物語」と同じように三島文学とその死は長く命脈を保ち、人々を魅了し続けるだろう。扇を撃ち落とした場面だけで那須与一は千年、生き続けている、と三島が書いたことも合わせて想起させられる(写真は、自然農の初夏、命の一コマ。撮影・西松宏)。

 

 

 

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