古藤「自然農10年」(6)

中村哲医師が歩んだ道は「自然農」の道

春にはチョウが群れ飛び、命溢れる自然農(撮影・西松宏)

 女は広島県といっても岡山県、鳥取県境に近い谷間の貧しい村から、男は四国・松山近郊の蜜柑山から、時代に流され、村を追われるようにして石炭荷役で活気づく関門、洞海湾にたどり着いた。最下層の人間が生きるには力仕事しかない。夫婦となった2人は懸命に働いた。誠実に筋を通す生き方が次第に信望を集めて、1906 (明治39)年、若松港で石炭積み出しの荷役作業に労務を提供する人入れ家業の一家「玉井組」を構えた。

 男は27歳の玉井金五郎、寄り添う妻は4歳下のマン。この2人が、2019年12月4日、アフガンの農業用水路工事に向かう道で暗殺された中村哲医師の祖父母である。

 明治末から昭和初めにかけての若松は、吉田磯吉親分に歯向かえば命の危険もある暴力が支配する街だった。磯吉は石炭を運ぶ川船の一船頭から衆院議員まで上り詰めたひとかどの人物と金五郎は敬意を払ったが、その身内の子分たちは、意に添わぬものを匕首と刀で襲い、劇場に放火することもいとわなかった。

 その磯吉親分と心ならずも対立することになった金五郎は、日本刀を振るう徒党に襲われ5日間、死線をさまよう目にもあったが、医師も驚嘆する強靭な生命力で蘇り、石炭荷役で生計を立てる労働者の貧しい生活を守り通した。死線をさまよう夫の命を救おうと毎朝お百度を踏んだマンのお腹にいた長男、勝則が後年、小説「糞尿譚」で芥川賞をとり、中国戦線の従軍記「麦と兵隊」などでベストセラー作家となる火野葦平である。哲医師にとっては母の兄、伯父にあたる。

 葦平は戦後、金五郎夫婦の波乱の生涯をすべて実名でたどった小説「花と龍」を読売新聞に連載した。「火野葦平選集」第5巻に収録された際の後書に、「正しい者は最後には勝つ」が口癖だった父親は、富や権力におもねらない素朴な正義感を抱いて一生を終わった、と書いている。

 彼は父親を生涯大事にし、その人間性を引き継いだ。小説「花と龍」の中には、金五郎の人柄に引き寄せられ暴力世界の中で誠実に生きた哲医師の父親、中村勉もやはり実名で登場する。

 中村勉は第1回普通選挙を迎えた若松市議会へ玉井派の候補として政友会から立った。民政党代議士である磯吉に従う吉田陣営は供応、恐喝の激しい選挙戦で17人の民政党候補を全員当選させる一方、玉井派は金五郎らが滑り込みで議席を守るのが精いっぱい。勉の落選は「有能の士を落としてしもうた。惨敗じゃ」と金五郎を深く嘆かせた。

 勉は金五郎の3女秀子と結婚。長女に続いて長男として1946年に生まれたのが哲医師である。金五郎は世話好きで子煩悩な好々爺として最晩年を生きたというから、孫の哲を膝であやすこともあっただろう。

 後年、医師となった哲は、ただ人の病を診察しその病に対して必要な治療を施すという普通の医者ではなかった。病を持つに至った人の命を見つめ、どうしたらその命を元気に生かすことができるのかを考えた。砂漠化し農業を失っていくアフガン農民にとって、病気の治療だけでは気休めの効果でしかなかったからだ。

 井戸を掘り、用水路を掘りめぐらして、収穫を手にできる暮らしがあってこそ初めて人々の命を治すことができる。万人に賞賛される功績も、彼にしてみればごく単純にして当然の行動だったのろう。そこには、祖父母が起こした「玉井組」の貧しい人々の命と暮らしを守りたいという精神が、地下水のように流れているように思える。

 富める者、強いものが権力につながり、貧しいもの弱いものに理不尽を強いる現実。その不合理への怒りを内に秘めて人の道を踏み外さないように生きる。それは自然農が目指す生き方でもある。

 自然農の提唱者、川口由一は独学で漢方を学び自分や家族の病と闘い、自らの命を大事にするように全ての命を大切にする「命」至上主義者でもある。誠実な医療から農業を救う道に進んだ中村哲、農業をひたすら見つめて人の命を救う漢方にたどり着いた川口由一。2人は、人として正道を歩もうとする同じ情熱を原点として重なっているように見える。

 次回はその川口由一の自然農とは何か、どのように漢方治療に歩んだのかをたどってみたい(敬称略)。

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