小林「情報産業論」(2)

「情報産業論」とその時代(2)

情報量というものは適当な定義をあたえれば、量的に処理することができないわけではない。じっさい、サイバネティックスあるいはいわゆる情報理論(Information theory)においては、それをおこなっている。その場合、情報とは、いくつかある可能性のなかのひとつを指定することである。すると、最小の情報とは、ふたつの可能性のうちのひとつを指定することである。これがビットとよばれる情報の単位となる。(p.46)

『情報産業論』において、梅棹は情報という言葉の意味を驚くほど広く捉えている。その上で、さまざまな社会的情報事象を縦横無尽に展開する。ぼくが考えておきたいことも、まさにその部分にあって、梅棹が論じた情報事象が現在の社会的情報事象とどう係わるのか、または、当時の時代精神をどう映し出しているのか、といったことが中心になると思う。

しかし、梅棹の議論は、凡俗な人文科学系研究者の浅薄な自然科学議論とは、比較にならないほど正鵠を射た情報概念の上に成り立っている。
※ぼくは、ここでソーカルらがサイエンス・ウォーズで仕掛けた議論を念頭に置いている。

『情報産業論』の世界に沈潜していく前に、梅棹がこの論文を書いた時期が、コンピューターや情報科学の歴史のなかで、どのような位置にあったかを、一瞥しておこう。

冒頭に引用した個所に出てくるノーバート・ウィナーの『サイバネティックス』の第1版が出版されたのが、1948年。邦訳の出版が1957年。(池原止戈夫, 彌永昌吉, 室賀三郎訳『サイバネティックス: 動物と機械における制御と通信』岩波書店 (1957))

梅棹は、おそらく、この池原、彌永訳を通して、サイバネティクスの概念を知ったことだろう。今では、ウィナーが提唱したフィードバックの概念は、ロボット工学を初めとしてありとあらゆる産業分野で欠くことの出来ないものとなっている。当時、目を洗われるような新鮮な概念として識者に受け入れられたサイバネティクスの議論は、今では、われわれの生活全般の中に、具体的な製品や環境として広まっている。サイバネティクスという概念は、時代の推移とともに社会全体を支える基本的な考え方のなかに溶解し、今ではことさら取り上げられることは稀である。しかし、ウィナーのサイバネティクスという概念は時代のあだ花などでは決してなかった。梅棹も、おそらくは、ウィナーがサイバネティクスという言葉で表そうとしたさまざまな事象を、ウィナーと同じ視点で見ていたに相違ない。

ぼく自身が、ぼく自身の情報概念を形成してきた上で、もう一つ、欠くことのできない書物がある。吉田民人の『自己組織性の情報科学』(1990年、新曜社刊)。この本は、発行された年に発表された短い論文「情報・情報処理・自己組織性」と1967年に発表された長い論文「情報科学の構想」とから成っているが、後者には、「エヴォルーショニストのウィナー的自然観」という副題が付されている。この論文も、決して色あせることのない名論文には相違ない。だからこそ、20年以上も経って、一本の書物として発行されることになったのだが、ぼくには、二人の大碩学がウィナーの影を色濃く背負っていることが単なる偶然とは思えない。

・舌を巻くビット概念の理解

先に引用した梅棹のビット概念の理解にも、また、舌を巻かざるを得ない。
手元にある『情報学事典』(2002年、朝倉書房)に西垣通が書いたまさに「情報」の項を見てみよう。

「情報量とは選択肢となるパターン間の差異の数から確率論的に計算されるものであり、2個の確率的に同等のパターンの中から1個を選ぶとき、その不確実性の減少の度合いが1ビットである」(西垣通、『情報学事典』(朝倉書店、2002年、p.437) 

クロード・シャノン(実際には、ワレン・ウィーバーとの共著)が『通信の数学的理論』で、ビット概念を規定したのが、1946年。同じ年には、(多少の異論はあるものの)世界初のコンピューターENIACが稼働している。

一方、シャノンと共に現代の情報科学の礎となったチューリングの「計算可能数とその決定問題への応用」が書かれたのは、つとに1936年。しかし、その後のチューリングは、ナチス・ドイツの難攻不落の暗号機械「エニグマ」の解読チームに組み込まれ、国家秘密への関与故に歴史の表舞台から姿を消し、戦後は不幸にして同性愛に係わるスキャンダルの故か、非業の死を遂げる。チューリングの名誉が公的に回復されるのは、2012年になってからのこと。

『情報産業論』が書かれた1960年代になると――

1960年、DECが世界初のミニコンピュータPDP-1を発売。名機PDP-11を経由して、Sun Microsystemsなどのワークステーションに繋がっていく。
1964年には、IBMが後の各社のメインフレームの原型となるSystem/360を発売。商用分野でのコンピューター利用が本格化する。
時代が下り、Apple Ⅱの発売が1977年。IBM-PC(いわゆるATマシーン)の発売が、1981年、NECのPC8001は、1979年。
1990年代に入り、インターネットが爆発的な普及を開始する。そして、スマートフォンとSNSが跋扈する21世紀の今。

情報をめぐるさまざまな技術は、まだようやく発展の緒についたばかりである。とくに、自動計算機械の開発などの情報処理の技術においては、公平にみて、まだ幼稚きわまる段階にある。それらの技術的手段の発展とともに、情報産業は、これからなお、おどろくべき発展をとげるにちがいない。情報産業は、いわばようやく「産業化」の軌道にのりつつあるところなのである。(p.43)

梅棹は、情報処理の技術においても、その時代の発展段階を、正確に把握していた。

まさに、文明史的な時代認識の膂力をもって、梅棹は、それまで世界中の誰もが考え得なかった〈情報産業〉というカテゴリーを世に問うことになる。

次回から、さっそく『情報産業論』を読み進めていこう。

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