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荷宮  荷宮和子と申します。よろしくお願いします。『声に出して読めないネット掲示板』を書くきっかけとなったのが、去年夏に同じ中公新書ラクレから出した『若者はなぜ怒らなくなったのか』という本です。
 いま41歳の私は、「団塊の世代」と「団塊ジュニア」の間の「団塊くびれ世代」に属します。婦人向けのアパレルや雑貨を扱う会社で働いていたころから、顧客としての団塊ジュニアに注目していましたが、そのあと物書きになって、何となく世の中がきな臭くなっているのに「どうってことない」みたいな雰囲気があるのはなぜかなと思ったときに、その時点で成人していた団塊ジュニアの数が多く、その人たちが「それでいいんじゃない」と思っているから、こんなことになったんじゃないかなと感じたんです。そのことを書いたのが、一冊目の本です。
    この本を出したころに、広島の平和記念公園で折鶴を、就職がうまくいかなかった学生が燃やすという事件があり、インターネットを通じて、「燃やした鶴をみんなで折って、広島に送りましょう」という運動が起きたわけです。いろんな所であったけれど、2ちゃんねるを通じてというのが目新しいと思いました。これまで2ちゃんねるっていうのは、ここにいる学生さんより上の世代、団塊ジュニアぐらいの、いまだったら30前後かな、そういう、それも男の人が中心に、パソコンをおもちゃとして使える人たちが中心にやっているメディアだったと思うんです。
 折鶴は、ちょうど夏休みの時期だったこともあり、どの世代の人も、男も女も、どんな仕事の人も興味を持つような出来事というか、イベントだった。「鶴を折って、送りましょう」ということに関心を持つ人がすごく多かったんです。ネットで盛り上がっても、そんなに行動を起こさなかった人たちがたくさん集まって、「いっしょにやりましょう」という人もいれば、「大勢でやるのはよくない」とか、「そんなのは、左翼の陰謀だ」とか、よくも悪くも、盛り上がっていたんですね。
 ほんとに1週間ぐらいであっという間に盛り上がって、その鶴を終戦記念日に平和記念公園に収めて、あっという間に終わるわけです。打ち上げ花火のような派手な盛り上がりと終結を見て、こんなにいろんな人が一斉に匿名掲示板で盛り上がるイベントは、最初で最後だろうなと思ったんです。
 「きな臭い世の中になっちゃったのはどうしてなのか」ということを、最初の一冊では世代論として論じ、今度の『声に出して読めないネット掲示板』ではメディア論として論じました。たまたま今日発売になった『なぜフェミニストは没落したのか』では、女性論として論じています。私は、サブカルチャーと呼ばれている、自分では「女、子どもを相手にした文化」と言っている少女マンガや宝塚歌劇、小説とか映画をモチーフに、いろんな媒体で記事を書いています。
 なぜネット掲示板を通して社会を論じようと思ったかというと、2ちゃんねるに限らず、ネット掲示板が流行るというのは、団塊ジュニアあたりがボリュームになったからだろうと思ったからなんです。
 私が就職した時点では、パソコンはまだオフィスに普及していなかった。システム系の部署に配属された人がやることだった。私が会社勤めをやめた後、オフィスにはパソコンがあって当たり前という状況になりました。団塊ジュニアの人にとっては、就職したらパソコンで仕事をするのが当たり前になり、とくに男の子だったらおもしろくもあったでしょうから、わざわざ自分のお金を使って、家で遊ぶためにもパソコンを使う人たちも出てきたと思うんですね。
 ここへ来ている人たちは、自分がパソコンをいじろうと思った時には、お金と状況さえあれば、使えるものだったかもしれないです。私の場合は、物書きになってコラムを書いていたんですけど、「インターネットって何? というコラムを書いてほしいんですけど」、「ああ、インターネット、そういえば『マックライフ』の編集室にあるって聞いたから、ちょっとやりにいこう」とか言って、わざわざマックライフに「すみません、インターネットやらせてください」ってお伺いに行かなきゃコラムが書けない時代でした。まだ10年経ってないと思うんですが、そんなものだったんですね。
 そのうち、「うちの会社は、つなぎっぱなしだ」「すご〜い」とか、そういう時代があって、いまではつなぐのは当たり前の時代になって、だからこそ、「鶴が焼けちゃいました」と言ったら、「じゃ、私たちで折りませんか」、「そうだ、そうだ」なんてことができる世の中に、ようやく去年段階でなった。
 そういうことをとりあえず活字にしておきたいと思いました。結局、ネットも現実の人間関係の反映でしかない。ネットではぜんぜん違うなんてことはありえないです。現実だったら言えないことを、ネットなら匿名で言えるから、現実よりも本音が強くなってるというのがネットの状況ですよね。じゃあ、そのちょっと強くなった本音っていうのは何なのか、というのを考えてみようと思ったわけです。「そんなのぜんぜん違う」とか、「そういう人もいるけど、おれは絶対違う」という方もいると思いますけど、私から見たらそう見えるということですね。

「決まっちゃったことはしょうがない」

 団塊ジュニアおよびそれに続く若い人たちはまず、「決まっちゃったことはしょうがない」で済ましてしまう部分があると思うんです。
 何かをしろと言われたら、やりたくなくなるのが若者だと思っていたし、この歳になっても私、そうなんですけど、いまの子は「しろ」って言われたら、「言われたんだから、しょうがないじゃん」とか、決まっていることはしょうがないから、「しろ」と言われたら「やります」っていう部分があるんですね。すごくびっくりしちゃったんですけど。それを何度も確認しましたが、「そんなことない」って言う人よりも、「そうですね、僕たちそうなんです」と言う人たちの方が多い。
 なかには意見を出す人もいますけど、そういう人がいたら、「もう決まっているのに、逆らったりして大人気ないな」と、19やそこらの子が言うわけですね。高校生の子とかが「大人気ないな」と言って、そういう人を笑うんですね。それもびっくりなんですけど、でも多いみたいで、「ああ、いまの子はそうなんだ」って思ったのが、一つです。
 次は、「みんなと同じのはいやだけど、みんなと違うのはもっといや」というのが、私より下の世代にあると思うんです。コーチっていうバックが流行っているじゃないですか。宝塚歌劇が好きなんで、行くと女の人がたいていコーチを持っている。何でみんなコーチなのって思って。そこそこの値段で、ヴィトンとかシャネルに比べたら安いけれど、たしかにブランド物だし、いろいろデザインもあるし……。ブランド物がほしい人たちにとって買いやすいんだと思いますけど、あんなに流行っていたら、私たちの世代だったら、「コーチはいいわ。ぜったいだれか持ってるもん」と言うけど、いまは「同じのはいやだけど、違うの持つのはもっといやだから」って、若い子がみんなコーチを持ってるんですね。映画にせよ、CDにせよ、本にしても、売れているものをみんな買うんですね。それが不思議だと思ったんですけど、若い編集者の人に聞いても「うん、だから僕みたいにランキング外の映画を見る人なんか、あいつ変わっているよって言われちゃいますよ」と言うんで、そうなんだと思いました。
 もう一つ、私たちは雇用機会均等法もない時代だったので、がんばろうとしたら、それを邪魔しようとする人がいて当たり前だった。それでも負けずにいる人間を「そのままじゃだめだ。こうしなさい」と引っぱってくれる人がいて、そんな叱咤激励を肝に銘じて生きてたから、いまこうしていられるんです。私も「荷宮さんみたいな仕事したいんです」と言われるような年ごろになって、ちょっと若い人に、自分がいままで言われたように言うと、「荷宮さんは、私のことが嫌いなんですね」って泣いちゃって(笑)。何で、そうなるのかな。私は上司でも部下でもないんだから、もういいやと思ってほっといちゃったんですけど。回りを見ても「いまの若い子はすぐ泣くし、逆恨みされるけれど、毎日会社で顔を合わせているから、言わないわけにはいかないし……」と言う人がいて、「ああ、そうなんだ、大変だな」と思うことがありました。
 私たちはかんばらなきゃいい結果は出せないと思っていたから、がんばったんですね。いまの子っていうのは、がんばっていい結果を出すよりも、がんばらずにいい結果を出す方がかっこいいと思っていますね。それは人それぞれ、がんばらずにいい結果が出るんだったら、出してくださいっていうとこなんですけど、そういう人、出せないんですよね。ちょっとがんばろうとする人がいたら、「また勘違いしちゃって、そんながんばってまでいい結果出してどうするの」というのが、いまの若い子みたいなんで。「ふ〜ん、そうですか」と思いながら、見ることがありました。

強きを助け、弱きをくじく

 面識のある人間には優しいけど、面識のない人間には無関心というのもあると思うんです。だれかが電車の中で困っていても助けないとか。評論家の人たちが、「いまの子は家族とか友だちとか自分の身内と外を区別するんで、身内にはすごく優しいけれど、そうじゃない人のことは見えていない。ほんとは親しくなれば優しいんだよ」と擁護している人がけっこういると思うんです。
 私は、面識がない人に冷たくしたってしっぺ返しみたいなのがないから、知らない顔をしてるんだと思うんですよ。面識のある人が困っているのに知らん顔したら、「なんだ、あいつ」ってことになると思うんです。そういうしっぺ返しが怖いから、自分一人が後で損するみたいな心配があるときは優しくするけど、そういう心配がないときには優しくしない。人の足元を見て、損得勘定の計算がすごい速いっていうか、だから自分の身内とそれに通じる人には優しいけど、面識のない人間には無関心な人が増えているんだと思います。
 自分が知らない他者に対して無知であるがゆえに、傲慢さ、潔癖さ、無神経さを披瀝して恥じない部分もあると思います。インターネットや2ちゃんねるがメディアで話題になったのは、イラクで3人が人質になったとき人質の家族をバッシングしたり、拉致被害者家族が小泉首相を非難したときに、首相じゃなくて被害者家族のことを「何様のつもりだ」とバッシングしたり、政府見解に反対した人に「世の中のことがわかっていない」とバッシングしたり、そういう人が多かったと思うんです。
 イデオロギーや主義主張があって叩いているというより、国の命令で人殺しをさせられに行く人の気持ちはわからないし、自分が人質になって殺されそうになったことがないから、殺されそうになった人とその家族がどんな気持ちだかわからない。そして、「わからなくたってしょうがない、知らないんだもん」と言ってしまう。
私は、若者が無知なのは恥ずかしいことだし、無知であるがゆえに沸き起こる感情は素直に吐露してはいけない、無知であることを自覚した上で人に接しないといけないと思っていたんだけど、いまの若者は、無知ゆえに間違った行動をしたとしても「だって、知らないんだからしょうがない」で済ましちゃう気がするんですね。
 2ちゃんねるにはいろんな差別が多い。いま流行ってるのは、低脳、低学歴、朝鮮、精神異常者、ブス、頭悪そう、白痴 ゴミ、ババア、そういうのがありますね。最近ではクソニートとか。
 私は神戸の出身ですから、「部落」とか、「朝鮮」とか言ったら、それはほんとうに差別だと知ってる。差別されている人も見ているから、そういうことはいけないと信念を持って言えるし、そうして生きてきたんですけど、いまの子は知らないんですよね。そういうことをぜんぜん知らないまま、パソコン使える歳になり、パソコンの中で人を差別するのは楽しそうだなと知って、「じゃあ、僕もやってみよう」とやっちゃってる。実際に現実の人間に面と向ってひどいことを言ってるわけじゃないから、それこそ罪の意識も感じてない。
 『オペラ座の怪人』という映画の試写を見て、舞台より今度の映画の方がすごくいいと思いましたが、あれは19世紀末のフランスの障害者に対する差別の現実を風刺したお伽話ですね。でも日本であんな人がいたら、やっぱり同じように差別すると思うんですね。そういう人を馬鹿にしてるというより、そういう人を見たことがないからで、すごい無知。「こんな人はじめて」、「きゃー、気持ち悪い」、「わあ、怖い」とか。
 小学校のころ、1学期は特殊学級がなくて、そういう人と同じ教室で机を並べていたのに、2学期になったら特殊学級ができて、「この人たちは別です」と、いきなり別の教室に連れて行かれちゃったんですね。私たちは「えっ!」っていう感じで、いままでいっしょだったのが、急に「この人たちは区別しなきゃだめです」ということを学校から言われてびっくりした経験があるんですけど。びっくりした部分、「そういう区別ってどうよ」と思うきっかけはできました。
 でも、いまの子は知らないわけでしょう。最初から障害者学級、特殊学級に行って当たり前。『オペラ座の怪人』みたいなルックスの人に出会ったら、「わあー」とか言って終わり。「知らないんだからしょうがないじゃん」、「別に悪気はなかったんだから」で、済ましちゃう。それがいやだなあと思うんです。
 いまの若い人は「強きを助け、弱きをくじく」っていうのを価値観にしてるんじゃないかと思います。ジャーナリストの斎藤貴男さんは、『安心のファシズム』(岩波新書)という本で、いまの世の中は自分よりも強い立場の人が勝ち組になる。たとえば親もおじいちゃんも総理大臣だとか、官房長官だかという人だけが出世できるような国。そういうふうに生まれなかった人は負け組になりつつある。そういう中で、お互いに自分より弱い立場の人を作り出そうとしているんだ、ということを論じていらっしゃいます。
 私はいまの若者、あるいは(「勝ち組」と呼ばれている人たちよりも)弱い立場の人たちが、自分たちを見下している人たちに歯向かうのではなく、自分たちよりも更に弱い立場にある人たちを見下すのは、自分をそういう立場に追いやった人に逆らうと、いっそうひどい目に遭うことがわかっているから、じゃないと思うんです。いまのマジョリティは、そこまで論理的に物を考えられるほど賢くないと思うんですね。つまり、自分はあまりいい思いをしていない、「なんかやだな」、「ムシャクシャしてるな」っていうときに、「自分より弱い人を見下したら気持ちいいな」、「石原慎太郎みたいなことを言ったら、自分が偉い人になったみたいな気分になれる」っていうのが本音だと思うんですね。
 石原慎太郎だったら、記者に囲まれて偉そうに言えるけど、普通の人はそういう機会がないから、しかたなくネットに書いて、自分が石原慎太郎みたいに偉くなった気分を味わっているだけじゃないかなって思います。

団塊の世代は子どもに嫌われるのが怖い

 なんでこんなになっちゃたのかなと考えると、団塊の世代は子どもに嫌われるのが怖いから、子どもを叱るのがいやらしいですね。私の世代だと、親は別に子どもに嫌われるのが怖いとか考えてなくて、間違っていると思えば叱るし、それで嫌われるかもしれないけど、「子供に嫌われたらどうしよう」なんてこと、これっぽっちも思わないような大人に囲まれて育ったんですね。
 団塊の世代は、「子どもに嫌われるのは怖いから」、「あんまりきついことを言うのは嫌だから」と言って、子育てをしたらしいんです。そしたらこんな子たちが育ってしまいました。「それは困りましたね」と、私は思うんです。
 男と女ってやっぱり違うと思うんですね。男の子っていうのは、常に他人に勝ちたい、人と比べた上で自分の方が強い、みんなの中で一番だったらすごい幸せ、っていうのがある。女の子は、自分が気持ちよければ、自分が幸せだったら、友だちグループの中で何位であろうとどうでもいいんですね。自分さえよければいい。でもいま女の子は、ちょっと元気がないっていうか、萎縮させられている、男性的な価値観、強者の価値観の方が強いと思うんです。
 たとえば男の子っていうのは、セックスしたときに、「いままでで一番大きいわ」と言われると喜ぶ生き物だと思うんですね。だから雑誌の『アンアン』を見ても、セックスしたときには、「(こんなのはじめて)って言ってあげましょう」みたいな恋愛特集があって、「ええっ」とびっくりなんですけど、「そうしてあげなさい」になっちゃっているんですね。じゃあ、女の人はどうかっていうと、いままでで一番締まりがいいとか言われても、「何を、他の女のこと考えてんねん」とむかつくだけですね。
 いろんな人の恋愛論を読み比べているところなんですけど、秋元康さんなんか、「女の人は、ろくに女と付き合ったこともない男から(君がすべてだ)」と言われるよりも、もてる男に(君が一番だ)と言われる方が喜ぶものである」と書いてある。あれはうそですから、真に受けないでください(笑)。そんなことしたら、むかつくだけですから。
 秋元さんと柴門ふみさんの対談を読んだら、秋元さんは、「男っていうのは、最初にセックスをしてホテルから出る時に、女の子から腕を絡められると、(ヤバイ!)と思って嫌な気分がするもんだ」と書いてあって、柴門さんは、「女の子っていうのは、最初にセックスをしてホテルから出る時に、男の人から肩を抱かれるとうれしいもんだ」って書いてあるんです。だったら、「だから男の子はホテルから出る時に、女の子の肩を抱いてあげましょう」と書けばいいと思うんですけど、いまの世の中は、「だから女の子はホテルを出る時に、男の子の腕を絡めるのはやめましょう」って、弱者が萎縮するような、そういう卑屈に生きるようなことばかり。
 女であれ、障害者であれ、派遣社員であれ、弱い立場の人に、「そういうふうに生きなさい」、「それがうまく世の中を生きるコツですよ」みたいなことを、セックスであれ、、自衛隊派遣であれ、すべてそういう価値観でものを見てると思うんです。
 そういうことをしていたら結局、自衛隊を派遣しなきゃしょうがないとか、セクハラされてもしょうがないことになると思うんですね。じゃあ、どうすべきか。たとえば、男の子だったら、「こういう時は腕を絡めてあげましょう」、女の子なら「肩を抱いてくれるような彼と付き合いましょう」ということからはじめていけば、旦那さんに人の悪口言ったり、自衛隊を派遣してもしょうがないやとか、人質になるやつが馬鹿だとか、そういうことばかり言う世の中がちょっとは変わると思うんです。単に弱者だからと被害者ぶっているだけではだめだし、強者だからそれにあぐらをかいていたらぜったいよくないんで、人としてどうするのが望ましいかを考えられる人間になっていただきたいと思います。

矢野  どうもありがとうございました。荷宮さんの話の前提を補足しますと、いまおっしゃたようなことが2ちゃんねるの書き込みの中に顕著に見られるということを彼女はお書きになっているわけで、そういった2ちゃんねるはどういうメディアなのかということを話題にできればいいと思っています。
 2ちゃんねるに殺伐とした書き込みであふれているのは、結局のところ現実社会が殺伐としてるからだ、それは大人の社会の繁栄ではないかということですよね。次にペクさんに、2ちゃんねる的なものと韓国のネット事情の違い、社会の違いなどを話していただきたいと思います。


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