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2017年11月23日

神戸製鋼のデータ改竄とモノ作りの現場(2017/11号)

 神戸製鋼の検査データ改竄のニュースをウエブで見ていたら、「自分が正しいと思うことができない。正しいと信じる道をまっすぐに歩めない。(今回の事件は)そんな日本社会の犠牲である」というコメントがあった。「日本社会」は昔からそうだったのか、あるいは最近になってとみに強化されている傾向なのだろうか。

現場の知恵と発言力

 今回の神戸製鋼のデータ改竄は10月8日に同社が記者会見して明るみに出た。最初はアルミや銅製品部門のみが対象とされたが、その後、鉄粉製品、金属材料、さらには主力の鉄鋼製品にまで広がり、製品の納入先は海外も含め500社以上に及ぶという。

 同社の製品は製造メーカなどに納入する材料や部品がほとんどだが、完成品が顧客企業の決めた仕様内に収まっているかどうかを検査する際にデータ改竄が行われた(検査データをいったん手書きした後、それをパソコン入力する際に、仕様に収まるように書き換えたらしい)。製品の品質を最終審査し、場合によっては出荷を止める立場である品質管理の担当者も黙認していたとも、10年以上前からデータ改竄が行われていたのに取締役会が黙認していたとも言われている。これまでに不正が発覚した例もある。

 いろんな事情があるだろう。製品の仕様は各企業が依頼してくるもので基準はまちまちである。自動車会社は、神戸製鋼から納入したアルミ板を使って生産した車に安全上の実害はなかったと発表している。少しぐらい基準から逸脱しても問題ないという意識があったのかもしれない。また検査順守の掛け声もそれほど厳としたものではなく、上意下達の過程で希釈化され、「実害がない範囲なら改竄も許される」、「納期を守るためにはやむを得ない」、「上層部も承知しているはずだ」といった空気が職場に蔓延していた疑いもある。

 これまで生産から納入までの過程が工場ごとの縦割りだったのを、水平的な品質管理体制を敷いて点検したことで、表面化した(ウミが出た)面もあるようだ。不正発覚後の調査に対して、管理職を含む従業員が不正を報告しないよう隠蔽工作したことも明るみに出ている。
 
 日本工業規格(JIS)の基準を満たさないものも見つかり、JIS法令違反の可能性もあるという。

 モノ作りの現場が崩壊の危機に瀕しているようだが、かつての現場には、裁量というか才覚を働かせて結果的にうまくやっていく「現場の力」があった。それなりの知恵と、それに基づく発言力もあったはずである。その伝統的なモノづくりの現場が誇りを持続できなくなり、淀んだ空気がたまっていることこそが問題だろう。

繰り返される企業不祥事

 日産自動車で無資格者が新車検査をしていた例も構造が似ている。こちらは国土交通省の立ち入り検査で9月に問題が発覚したが、その後も一部工場で無資格者による検査が続いていた。同社は10月19日、国内全6工場で生産している国内向け販売車両の出荷停止を決めた。

 会社側の説明によると、工場長や部課長などの管理職から、現場をまとめる係長への指示がうまく伝わらなかったという。守らなかった現場が悪いとも受け取れる説明だが、現場から見れば、有資格者の数が少なく「効率よく仕事をしようとすると無資格者を使いたくなる」事情もあったらしい。

 このところの企業不祥事には、2014年以降だけでも、タカタ(エアバッグ製造ミス)、東洋ゴム工業(免振ゴムの性能データ偽装)、旭化成(杭打ち工事のデータ偽装)、三菱自動車(軽自動車の燃費データ改竄)、スズキ(燃費データの不正測定)などがある。
 
 なぜこのような手抜き作業が次々に発覚するのだろうか。神戸製鋼の今回のデータ改竄は「氷山の一角」で、徹底的に検査すればもっと広がるとも言われているが、神戸製鋼そのものが現在日本のモノ作り企業に蔓延する病根の「氷山の一角」だと考えた方がいいだろう。

「等身大精神」の危機

 私は『サイバーリテラシー概論』(2007年刊行)の中で、当時の東京証券取引所をめぐる、みずほ証券の株誤発注事件にふれて、ちょっとした不注意であっという間に400憶円もの損害を与えてしまう時代にあっては、「会社に与えた損害は自分で弁償する」という責任の取り方はあり得ず、そういう事情がまともな生き方を守るという「等身大の精神」を失わせていると書いた。

 「等身大の精神」というのは、エコロジーの世界で見直されていた「等身大の技術」を援用した造語だが、言いたいことはこうである。ITの飛躍的発達が信じられない規模の犯罪を可能にし、それがまともな生き方を反故にしてしまうために、人びとは頭の中でシャボン玉がポンと割れるような失望を抱く。はっきりとは意識されないが、こういうかすかな失望感が続くと、人びとはまともに生きる熱意を失ってしまいがちである。深くものごとを考えることをやめ、その場その場で流されていく。

 もともと日本人に「長いものには巻かれろ」的な事大主義的傾向が強かったのは確かだが、ここへきて、この傾向に拍車がかかっているように思われる。冒頭に掲げたコメントには、無責任とも無気力とも言える現場に身を置きながら、どこかで「こんなことではダメなんだよなあ」と自問自答しているような、切実でしかも物悲しい響きがある。

 だから、データ取得から検査結果までを自動化すれば問題を解決できるとも思えない。すべてを画一的に管理しようという一見、良さそうな処置が、これまで現場で築き上げられてきた良き伝統を壊す方向で働きがちなのは大いに警戒すべきだろう。

 ふだんからどこかで内部告発が起こるとか、新聞記者がスクープするとかいうことがほとんどないところに、いまの社会の息苦しさがあり、よくないことだがしょうがないと諦めている事情が隠れているのではないだろうか。

投稿者: Naoaki Yano | 2017年11月23日 15:38

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