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2017年10月25日

受動喫煙防止条例 法や条例が「家庭」や「内心」に入り込む(2017/10号)

 東京都議会で子どもの受動喫煙を防ぐ条例案の審議が始まったが、規制の網を家庭内まで及ぼそうという動きには異論も出ている。私的空間が公的空間に侵出していると、最近書いたばかりだが、これは逆に、私的空間を公的規制の網の目にかけようとする動きである。

新聞社説に「わが意を得たり」

 先日、三重県在住の友人から「今朝の中日新聞の社説に溜飲が下がる思いがした」とのメールが来た。社説のタイトルは「受動喫煙の防止 家庭への介入は慎重に」。趣旨は「子どもをタバコの害から守る取り組みに異論はないが、家庭内での喫煙の在り方にまで口出しするのは行きすぎではないか」、「こういうことは保護者の良識に委ねたい」というものである。友人はもちろん愛煙家で、メールのタイトルには「わが意を得たり」とあった。

 東京オリンピック開催とも関係するのか、このところ受動喫煙防止の動きが急である。音頭をとる厚労省では、非喫煙者が喫煙者のタバコで受ける謂れなき健康被害を強調して、「我が国の規制措置は他国に比べて遅れている」と法案づくりを進めているが、肝心の与党自民党との間で調整がつかず、なおペンディングとなっている。

 その間隙を縫うように、都議会の都民ファーストの会と公明党が防止条例案を共同で議員提出、9月20日から議論が始まった。これまでの防止法(条例)案が、もっぱら公共施設での規制を対象にしていたのとは違い、都条例案では規制の網を家庭まで広げている。内容としては、家庭では子どもと同じ部屋でタバコを吸わないよう努力することを求め、子どもが同乗する自動車内では喫煙しないことを義務づけている。

 同種の規制が検討されている豊島区条例案では、さらに踏み込んで、車ばかりでなく家庭でも子どもがいる場は禁煙にするという。継続的に受動喫煙を受けていると疑われる子どもを発見した人は、区や保健所、家庭支援センターなどに通報できるという項目も盛り込まれているらしい。

 同社説は「何事によらず、公権力による私的空間への介入は慎重であるべきだ。子どもの受動喫煙をなくすには、保護者を信頼して共に歩んでいく姿勢こそが大切だろう」と締めくくっているが、友人が喜び勇んで(⁉)論説委員室に送ったというファクスには、昨今はすっかり肩身が狭くなった喫煙家の思いがあふれている。さわりの部分を引用しておこう。

 よくぞ言ってくれました!書いてくれました!しかも社説で!まさに溜飲の下がる思い、快哉を叫びたいです。……昨今の厚生労働省主導の禁煙運動は、まさに常軌を逸しています。禁煙ファッショ!そもそもタバコは嗜好品であり、文化でもあるにも拘わらず、それを法律で縛ることに誰も声をあげない。大体やり方が卑劣です。子どもの健康を守るという錦の御旗をかざし、反論できない雰囲気を作る――

家庭に入り込むパターナリズム

 紫煙はどこにでも入り込むから、たしかに規制するのが難しい。だからと言って、社会生活の基本単位であり、しかもプライバシーの最大拠点である家庭を法の網に組み込もうとするのはどうだろうか。夏は裸で過ごしていようと、派手な夫婦喧嘩をしようと、それは個人、その家庭の自由であるべきである。

 功利主義の古典的な考えに「他者被害の原則」、あるいは「愚行権」というのがある。これは社会的に責任を負える成人であれば、他人に迷惑をかけない限り、何でも(たとえ愚かな行為であろうと)する自由があるという考え方である。健康に害があるタバコを吸おうと、そのために肺がんになろうと、それはその人の勝手である。家庭はその自由の最大の拠点であってしかるべきだろう。

 問題は未成年者、要は子どもの保護である。親の喫煙で子どもが被害を受けるのをどう防ぐべきなのか。そこに、不心得な親がいて子どもが犠牲になるから、親に代わって社会システムとしての法で守ろういう考えが出てくるわけだが、このようなパターナリズム(強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益のためだとして、本人の意志に反してでも行動に介入・干渉すること―ウィキペディア)は危険である。

 パターナリズムは、日本では「家父長主義」などと訳されるが、法令案での強者は国や自治体であり、弱者がおそらく父親となっている。個人(子ども)の利益を保護するために、国家が個人(大人)の生活(家庭内での行動)に干渉するわけだが、このような政策が個人の自由・権利を制限することになりがちなのはすでに承知の事実と言っていい。

強気の権力、鈍い一般の反応

 審議はこれからだから早計な判断はすべきでないが、こういう権力の家庭への進出という事態に世間一般の反応はそれほど敏感でないように見えるのはなぜだろうか。

 親による子ども殺し、逆に子による年長の親殺しといった話題が尽きない。パソコンやスマートフォンを通してさまざまな情報が家庭内に入り込み、子どものコミュニケーション環境は親、兄弟、親族、地域と言った現実世界の制約を飛び越えてしまうし、家族の絆も薄れがちである。一方、監視技術の発達で、家庭にいてもプライバシーが暴かれかねない事情もある。

 子どもの前でタバコを吸うのはやめようと言った、ものの是非をきちんと判断できる一人前の大人が少なくなっているというか、社会を成り立たせている個人一人ひとりの「弾力性」がなくなっているように見える。また、たかがタバコの話だからと、いま進みつつある動きから社会の全体像を見通す視点が希薄なようにも思われる。
 
 考えるべきは、こういう社会が健全なのかどうかということであって、家庭が混乱しているから、法の規制を家庭に及ぼそうというのは本末転倒であろう。受動喫煙防止法案をめぐる動きは、強行採決の上に成立した「共謀罪」が、刑法の基本である謙抑性を放棄し、個人の内面をも罰しようとし始めた動きとも関連している。
 
 ちなみに私はいまはタバコを吸わないが、友人のメールは、受動喫煙問題に限らず、昨今、著しく制約されつつある個人の自由に対する危険を訴える「坑道のカナリアの叫び」とも受け取れた。

投稿者: Naoaki Yano | 2017年10月25日 11:54

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