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2015年07月21日

漂う「総メディア社会」④ジャーナリズム・プラットホームの樹立(2015/7)

 前々回でオンライン・ジャーナリズムへの期待とそれが散発的である弱点について述べたが、それらオンライン上の情報と社会を結びつけることこそ既存マスメディアの仕事ではないだろうか。<漂う「総メディア社会」>シリーズの最後に、かねて持論の「ジャーナリズム・プラットホーム」についてやや詳しく述べておこう。

 「ジャーナリズム・プラットホーム」を築き上げられる最有力候補が、既存マスメディア、とくに紙メディアである。一定の資力と志さえあればだれにでも可能ではあるが、紙メディアとしての先行きが決して明るくない新聞社が、資金と人材を投入して挑戦すべき事業だと思う。

シリコンバレーとジャーナリズム

 さまざまな既存メディアがオンライン版を作り、有料で、あるいは無料のまま、さまざまな試行錯誤を続けているが、それらの試みは依然として紙のメディアの延長線上にある。動画を積極的に取り入れたり、広いスペースを生かしたドキュメントを掲載したり、あるいは読者との相互交流を図ったりといった工夫がなされているが、インターネットというメディアの潜在的特性を生かしたもっと斬新な試みを続けないと、生き残ることは難しい。

 もう半年ほど前になるが、米コロンビア大学ジャーナリズムスクールのエミリー・ベル教授が英オックスフォード大学で「シリコンバレーとジャーナリズム」という興味深い講演を行った(1)。

 その骨子は、既存メディアはインターネットを利用したジャーナリズムのためのプラットホームを自ら築き上げることを怠ってきた。シリコンバレーのIT企業が提供するインフラにおんぶにだっこよろしく頼ってきたために、情報提供の主導権をシリコンバレーに奪われてしまった。しかしシリコンバレーはジャーナリズムにほとんど関心がない。これが現下のデジタルジャーナリズムが直面している課題である、というものである。「伝統メディアは自分が何を失ったかを理解できず、シリコンバレーは自らが創出したものが何かをわかっていない」と彼女は言っている。

 まことに我が意を得たり、の感が深い。
 
 私はインターネット元年とも言われる1995年に勤務していた新聞社でインターネット情報誌『DOORS』を創刊したが、当時の経営陣のインターネットへの無理解を骨身にしみて感じてきた。インフラ企業のNTT元幹部を呼んで「これからのメディアはどうなるだろうか」とご拝聴に及んでいたわけだから、インターネットを使ってジャーナリズムをどう実現するかといった発想はまるでなかった。

 私は出版局という小さな部門なら思い切っていろんな実験ができるだろうと考えて『DOORS』を創刊した。インターネット上のメディアは大量の予算や人員を投入して制作する従来の巨艦方式ではなく、いろんな実験を試行錯誤的にどんどんやって、その中で芽が出そうなものを伸ばしていく駆動性が必要だと考えたからである

3Dメディア『DOORS』

 『DOORS』は、本体である紙の雑誌、付録のCD-ROM、インターネット上のホームページの三位一体をめざし「3Dメディア」を標榜したが、零細編集部で取り組むにはあまりに荷が重すぎた(それでも『DOORS』が立ち上げたホームページは大手マスメディアとしては最初のものだった)。残念ながらそのパイロット方式は、巨艦方式をインターネットでも遂行しようとする社の方針に合致せず、新聞社本体が旧メディアの発想そのままのオンライン版を立ち上げたことで、『DOORS』は廃刊の憂き目にあった。
 
 小さいところでやろうと思ったのが間違いだった。ベル教授が言うように、それなりの覚悟と態勢で取り組むべき事業だったのである。

 そこで大事なのは、技術開発力+編集能力+ジャーナリズムの志である。ベル教授は「なぜこういうことが起こったのか。ジャーナリズム企業のどこにもスタンフォード大学の技術系博士号を取った人はいないからである」などと言っているが、IT技術を使ってジャーナリズムは何ができるか、ではなく、ジャーナリズムをIT技術でいかに実現するかという確たる決意がなくては、ことは成功しない。それが「ジャーナリズム・プラットホーム」の真髄である。

 そのためにはジャーナリズムマインドをもったエンジニア、技術のこともわかるジャーナリストの共同作業が不可欠である。しかし、アメリカにおいていまなおかかる現状である。日本の既存メディアにも挑戦するチャンスは残っている。
 
大事なのは編集能力

 ジャーナリズム・プラットホームで必要なのは何よりも編集能力である。オンライン上にはすばらしい論考が無数といっていいほど存在するが、それらは多くの情報の中に埋もれている。すでにふれたように、これらの情報はカスケード化しない(大きな流れになりにくい)。IT企業はそれをアルゴリズムによる検索によって編集しているが、そうではなく、ジャーナリズムの観点から基本的に人力で編集することが大切である(グーグルやヤフーなどの「削除」基準づくりは、この点で興味深い。2参照)。

 たとえば、オンライン上の情報をジャンルごとに取捨選択してまとめ、梗概がわかるサイトをつくる。これには多くの人手を必要とするが、全国に散らばるOB編集者を動員すればいいだろう(クラウド・ソーシング)、得意分野ごとに編集して解説もほどこし、取捨選択は最終的にプラットホームが責任を負う。そのためのプラットホームづくりも含めて、そんなに大変な作業ではないはずである。

 ジャーナリズム・プラットホームのコンテンツに関してはいくつか思いつくことがあるが、これもその一つである。かつてのマスメディアの大きな役割が「社会を束ねる」ことだった経緯からしても、既存マスメディが取り組むべきことではないだろうか。

<注>
(1)http://reutersinstitute.politics.ox.ac.uk/sites/default/files/Speech%20-%20Silicon%20Valley%20%26%20Journalism%20-%20Make%20up%20or%20Break%20up_Emily%20Bell_Reuters%20Memorial%20Lecture%202014.pdf
(2) プレジデント・オンラインの拙稿「ヤフーが検索情報削除の新基準を作った理由」参照(http://president.jp/articles/-/14981)

投稿者: Naoaki Yano | 2015年07月21日 11:19

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