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2013年12月05日

三鷹・女子高生刺殺事件を考える(2013年11月)

 東京・三鷹市で10月8日、私立高校3年の女生徒(18)が、かつてつきあっていた住所不定、無職の男性(21)に刺されて死んだ。この事件もまた、前回の「不適切画像」アップ事件と同じように、考えさせられることの多い出来事だった。

社会全体のあり方を、改めて考えるとき

 女子高生の母は画家で、彼女は小学生のころ芸能事務所にスカウトされ、女優の卵として活躍していた。男性は日本人の父とフィリピン人の母を持つハーフといわれ、京都でフリーターをしていた。2人が出会ったのはSNSのフェイスブックを通してである。

 普通なら、社会の二極化が叫ばれる昨今ではとくに、ネットを介さなければ、2人の人生が交錯することはなかっただろう。住所も、境遇もかけ離れた2人に出会いのチャンスを与えたフェイスブックは、それ自体としてはすばらしいツールである。

 数年前イタリア旅行をしたときのことだが、旅行代理店の日本人駐在員の妻はイタリア人だった。すばらしい美人だと評判で、出会いのきっかけを聞いたら、インターネットだった。イタリアのローマと日本の地方都市に住む2人はインターネットの掲示板を通して知り合い、ほどなく意気投合して結婚、最初は妻の方が日本に移り住んだが、どうしても馴染めず、「結局、僕の方がイタリアに来た」と、彼は幸せそうに話していた。

 インターネットが国際結婚のチャンスを広げたわけだが、今回のような不幸もまた引き起こす。男性が「大学生だ」と名乗っていたように、インターネットでは自分をどうにでも偽ることができる。その偽りのうえで出逢っても、そこには新たな展開があり、結局2人はしばらく恋人関係にあった。しかも男は2人の秘事をビデオで撮影、女もそれを許していた。別れ話が出て、男はストーカーに変身、彼女の自宅にまで押しかけ、刺し殺した。

 女子高生は警察にも相談していたが、結局、相談から帰った日に惨事に遭っている。男が撮影したビデオをネットにアップしていたために、事件後に彼女のあられもない動画がネット上に氾濫する事態になった。

どうすれば悲劇を防げるか

 彼女はどうすれば、今回の悲劇を免れたのだろうか。前回の「不適切画像」アップ事件でも述べたが、「ネットで知り合った異性には安易に会わない」、「2人だけの秘め事をカメラに撮らせない」といった教訓を若い女性に向かって諭すのは、身近の人のつとめではあるが、便利な道具がすぐそばにある環境で、このような事態が繰り返されるのを拒むのも難しい。
 
 また男性が別れた相手のポルノ写真をネットに「さらす」例(もちろん逆の場合もあるだろう)はけっこう多い。これらの画像は「リベンジ・ポルノ」、その行為を「サイバー・リベンジ」などと呼ばれ、アメリカでは法規制の動きもあるが、立証が難しいなどの難点もある。日本では今年になって、執拗なメール送信を「つきまとい」行為の対象にするなどストーカー規制法が強化されているが、この種の犯罪を法だけで、あるいは警察の捜査だけで防ごうとするのはやはり難しいだろう。
 
 IT社会を健康で豊かで、そして安心なものにしていくための、社会全体のあり方ということを考えざるを得ない地点に来ている。それはサイバー空間が現実世界に及ぼした衝撃をきちんと見極めると同時に、インターネットという道具をうまく使いつつ、現実世界の復権を図ることである。私たちをとりまく共同体が長い間に培ってきた信頼の構造(「社会関係資本=ソーシャル・キャピタル」とも呼ばれる)を取り戻すことでもあろう。

新しい「ソーシャル・キャピタル」

 実際かつての日本は、他国の人びとがうらやむほどのすばらしいソーシャル・キャピタルを育てていた。話はいきなり時代を大きく遡るが、渡辺京二『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)という本に、江戸時代には、いまや日本人すら忘れてしまった美しい「文明」があったことが紹介されている。
 
 幕末から明治にかけて来日した欧米人が残した記録を通して浮かび上がる日本人の特徴は、くったくのない笑いであり、やさしいほほえみであり、無償の親切、分けへだてのない人懐っこさ、などだった。

 本書に登場する代表的な言葉を列挙すると、愛想のいい物腰、清潔、簡素とゆかしさ、保安のよさ(戸締まりなし)、子どもの天国、抑制と礼節、あけっぴろげ、近隣との強い親和――。外国人が耳に心地よい言葉として聞いたのは、オハヨウ、アリガトウ、ゴメンナサイ、ダイジョウブ、オヤスミナサイ、サヨナラなどである。「日本には貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない」、「個人が共同体のために犠牲になる日本で、各人がまったく幸福で満足しているように見えることは、驚くべき事実である」、「金持ちは高ぶらず、貧乏人は卑下しない。……。ほんものの平等精神、われわれはみな同じ人間だと心底から信じる心が、社会の隅々まで浸透している」などと記録した人もいる。
 
 著者は、この国のありし日の文明は「人間の生存をできうる限り気持ちのよいものにしようとする合意とそれにもとづく工夫によって成り立っていた。ひと言でいって、それは情愛の深い社会であった」と述べている。もちろんそこにはヒューマニズムとか普遍主義、合理性といった近代的な発想はない。だから、明治維新を推進した人びとは、古い日本を捨てて(滅ぼして)新しい日本を作ろうとしたわけである。

 著者はまた、「昔の日本人の表情を飾ったあのほほえみは、それを生んだ古い心性とともに、永久に消え去った」と書いているが、いまの日本人の心性からそれらがまったく消えてしまったのかどうかは議論のあるところだろう。グローバル時代のソーシャル・キャピタルを日本単独で「生産」することは不可能だが、いま「逝きし世の面影」をふりかえることは、決して無意味ではないだろう。

投稿者: Naoaki Yano | 2013年12月05日 13:50

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