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2006年07月26日

日経社員のインサイダー取引と「情報倫理」

日本経済新聞社の広告局員による株のインサイダー取引もまた、紙に書かれていた情報がデジタル化された途端にどのような結果をもたらすか、ということに対する無知に起因している。「サイバーリテラシーと情報倫理」の重要性をあらためて痛感せざるを得ない。

これまでなら、株式分割に関する「法定公告」掲載スケジュールは限られた枚数の紙に書かれ、数人の担当者だけが見る状況下で管理されていたはずである。そして担当者には、当然の結果として、仕事に対する「使命感」も「倫理」も備わっていた。そうでなくても、関係者の数が少なく、犯行は容易に突き止められるという現実的な事情が犯罪抑止力として働くこともあっただろう。職場にいながらにして株取引を行うこと自体が不可能だった。

アナログの時代では、情報の形態およびその環境がもつ制約(ある意味では不便さ)が自ずからなる秩序を形成し、行動の歯止めにもなっていた。紙に書かれた「法定公告」掲載スケジュールは、それほど厳重には保管されてなく、たとえ部屋に鍵がかかっていなくても、部外者が立ち入るのははばかられるといった状況が一種の鍵の役割を果たしていたわけである。

情報はデジタル化されると、多くの人に見られるものになるし、コピーも容易になる。その情報を管理するためのアクセス制御が、日本経済新聞社ではきわめて杜撰だったらしい。同じような仕事をする人たちが共用パスワードを利用し、しかもパスワードは変更されておらず、担当をすでに外れた人間もアクセスできたという。新聞報道によれば、アクセス可能な人は100人程度だったとか。

今回逮捕された社員自身、法定公告の担当ではなかった。当然、当人のモラルは低いだろうし、多人数の中では犯行が見つかる可能性が低いという事情が、会社のパソコンを使って「ゲーム感覚」で株取引をする犯罪に結びついた(社内での監視はくぐり抜けたが、証券取引等監視委員会のチェックに引っかかった)。

この「軽さ」の、重い意味について考えるべきである。

もちろんコンピュータの広告管理システムの改善は不可欠である。しかし、システムを直せばいいというだけの問題でもない。みずほ証券社員の株誤発注事件でもシステムの欠陥が指摘されたし、ほかにも同種の事例は多数存在する。

問題は便利なデジタル情報が反面でもつ危険性についての認識が、多くの人びとになお薄いことである。そこでは、従来の紙の世界の常識では考えられないような倫理的な空白が生じる。これを埋めるのが「情報倫理」である。すなわち私が言う情報倫理とは、情報のデジタル化が引き起こす問題に有効に対応するための課題を探ることである。

適正なシステムの構築(制度設計)や一定の基準としてのルールづくり、あるいは強制的な法の整備が必要なのは言うまでもないが、それらの法やルールの底に一定の倫理的な社会的合意がなければ、この種の犯行は決して防げないだろう。

社員による不祥事を報じる7月26日付日経新聞社説は「言論報道機関に働く者の使命感が欠落していた。極めて遺憾である。なぜこうも倫理観なき社員を生んだのか深刻に反省しなければならない」と書いているが、もちろんこれは社員だけの問題ではない。システムを構築した技術者も、その管理者も、首脳陣も含めて考えるべきことだろうが、これは何も日経新聞だけの問題でもない。

もちろん倫理は多様であり、個人差もあり、あいまいでもある。そのあいまいさを利用して上から一定の倫理を推しつけようとする動きもあり、扱うのはなかなか難しいが、と言って、社会全体の倫理的素養がどんどん希薄化している現状を無視することもできない。

この点に関して、最近の具体的な事例で考えてみよう。

<責任をとらなくても誰にも分からない態勢>

トーマス・フリードマンの『フラット化する世界』紹介でふれたデルコンピュータ、テクニカルサポートセンターに関する体験だが、結局、最初に応答に出た女性は名乗り出なかったらしく、あとから変わった男性が経過報告の電話をくれた。

先の女性は客との応答中に電話が切れたことをなぜ誰にも連絡しないのだろうか。本来なら、客との応答記録はイントラネットのメーリングリストに残るはずだが、それもないらしい。客が自分の名前を記憶していないのなら放っておこうということだったかもしれないし、面倒だからと、じつは最初から意図的に電話を切ったのかもしれない。

一つの部屋で仕事をしているのなら、自分の方から切れた客の問い合わせ電話をそのまま放置するようなことはまず起こらない。かつては規則があるから、あるいは法で禁じられているから「マナー」を守ったのではなく、上司の指導や仕事をめぐる仲間との話し合いなど日常的な作業やふれあいを通じて、自然に一定のルール、ある種の「倫理」が築かれていたのである。いまや客の電話に、川崎と中国・大連のコールセンターでアトランダムに対応する時代である。仲間うちの連絡をとりもつのはイントラネットだけであり、そこから何らかのモラルが立ち上がってくる余地はまったくない。上司の目が行きわたることはシステム上もはやあり得ず、無責任ですませる環境が整いすぎていると言えよう。

<社会から倫理がどんどん消えていく>

福井俊彦日銀総裁はなぜ金融政策の要の地位に就任するとき、村上ファンドへの1000万円投資を引き上げなかったのか。それをとくだん問題だと思っていないように見受けられる、その後の本人の対応もまた奇妙である。

この投資は、村上世彰代表がインサイダー取引で逮捕されたから問題だというよりも、「通貨の番人」が数年で2倍超になるような投資をすることが適当かどうか、という自律的な倫理の問題である。福井総裁はこの件が明るみに出たとき、国会答弁で「世間を騒がせた」ことを陳謝したが、辞任する意思は示さなかった。同総裁は何社かの株も保有していたが、金融政策の舵取り役という公務と私的な投資が、彼の内で矛盾なく同居している(経済記者でも株取引はしないよう自粛しているのがふつうなのに、である。ちなみに、コメディアンの萩本欽一氏は監督をつとめる球団仲間の不祥事を聞いたとき、発作的に「球団をやめる」と言った。後に翻意を促す声に押されて、決定を取り消したけれど、最初の即席会見で「野球に失礼してしまった」と言ったのが印象的だった。彼は「山本のために、いっしょに謝ってやるしか何もできない」とか「茨城のみんな、ごめんなさい」とも言っていた。もはや彼だけの球団ではないという筋論はともかく、その会見はすがすがしかった。福井総裁の口から「金融政策に失礼しちゃった」とか「国民のみなさん、ごめんなさい」と言った言葉が出るとはとても思えない)。

事件の報道では、問題は金融政策をあずかる日銀総裁の個人金融資産について情報開示義務がない「ルール」の欠如が指摘され、だから金融市場に大きな影響力を持つ日銀総裁に関しては閣僚並みの資産公開を義務づけるべきだ、といった議論が展開された。村上ファンドの証券取引法違反にいたる一連の活動についても、法の不備が指摘されている。

福井総裁は「金融政策に影響すると言われても、決定は合議で行われるものだ」とか「私は若い人の見方をする気持ちを忘れないようにしたい」と、強弁ともすりかえともとれる発言をしたが、そのような態度に「ルールがなかったのだからしょうがない」、「早くルールをつくるべきだ」といった対応をすることは、敵に塩を送ることと変わらない。

法やルールには通奏低音としての倫理が不可欠である。倫理を捨象したルールづくりは、ルールがなければ何をしてもいいという考えに容易に結びつく。しかも法整備やルールづくりはどうしても後手に回るもので、多くの企業や個人が、その間隙をぬって巨利を得ようと手ぐすね引いているのが、むしろ現状である。いまの若者は倫理的な素地がまるでないから、ルールをつくって管理するしかないといった管理工学的な考えそのものが、人びとから倫理的な生き方を奪っていく。

投稿者: Naoaki Yano | 2006年07月26日 18:58

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