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2016年08月01日

ネットのふるまいが現実世界に逆流する(2016/7)

 ネットでの行動様式が逆流するかのように現実世界に浸透し、これまで当たり前だった私たちの思考や行動基準が徐々に変わりつつある。その最たるものが「けじめの喪失」である。「制約がない」サイバー空間では、近代社会が築き上げてきた境界(組織原理、役割区分)が薄れがちだが、それが現実世界にじわじわと浸透している。

 これも私自身の経験だが、友人数人でときどき、政局やらメディアの混乱などを同報通信で意見交換してきた。関係者をアドレス欄に併記して、MLのように同時に送信するのだが、そのときのテーマは消費税アップにともなう新聞の軽減税率適用だった。

「信書の秘密」と「転送」

 それぞれが意見を述べあっている時、「横合いから失礼」と新聞記者時代の友人から意見の開陳があった。同報通信仲間の1人がこんな議論をしているという参考のため、何人かに転送したらしい。

 あまり実りある論争にならなかったこともあり、他の1人が「想定者以外には転送しない方がいい」と言い、私も同意して、それで終わったのだが、電子メディアならではの出来事である。紙のメディア、とくに封書においては、原則として「信書(特定人から特定人に対し意思の伝達を媒介する文書)の秘密」が憲法上も保障されている。

 宛名人以外は中身を読むのは許されないわけで、刑法には「信書開封罪」もある。これは郵便業務に従事する人が封書を開くのを禁じるのが本旨だが、個人としても、はがきはともかく、封筒に入った手紙は、家族に来たものであろうと見てはいけないとしつけられてきた。

 インターネットのメールソフトには、コピー(cc)、バックコピー(bcc)、転送(transfer)などの機能がある。コピーは関係者にも同じメールを送りましたと公表するもので、バックコピーとは、宛名人には隠して、その文書を他の関係者などに送るものである。バックコピーは送りつけられた人以外には送られた事実もわからないので、私なども恒例の花見の案内などで、案内文を自分宛てに送り、配布する人のアドレスはバックコピー欄に加えている。こうしておくと、配布された人のアドレスが他人に知られることがない。

 転送は、受け取ったメールを他のアドレスに送りなおすことである。多くの人に読んでもらいたい案内などは文面に「転送歓迎」などと書いてあり、これは問題ないけれど、友人にうっぷん晴らしをしたメールを当の上司に転送されたのではたまらない。しかし、コピーやバックコピーなどと同じく簡単にできる操作なので、個人の私信を平気で転送してしまう人が多い。

メディはメッセージである

 メールの無断転送は原則として信書の秘密の趣旨にもとるけれど、封書とメールというメディアの違いが、従来のけじめの感覚を薄めている。実際、封書を他人に開封されたら怒るけれど、メールを転送されても、「まあいいか」と諦めることが多いのではないだろうか。このサイバー空間での〝気ままな〟ふるまいが、逆に現実世界に浸透し、これまでの歴史で培われてきた私たちの多くの習慣がじわりじわりと壊れていっている。もちろんそれにはいい変化もあるが、とくに現下の日本においては、かつても指摘したように、弊害の方が多いと思われる。

 マーシャル・マクルーハンではないが、まさに「メディアはメッセージである」。そういうふうにインターネット(サイバー空間)は私たちの感性や思考を変えていく。
その広がりは想像以上に大きい。
 
 タレントのベッキーのライン内容が写真入りで週刊誌に暴露された事件でも、週刊誌記者および編集者には他人の私信を暴露することに対する躊躇がまるでなかった。4月の国会総務委員会で、おおさか維新の会の議員が、政府の地震対応を質した民進党議員に対し、「ふざけるな」「あほ」などと発言、民進党から懲罰動議が出され、謝罪するという事件があったが、国権の最高機関でこのような暴言を吐くという信じられないふるまいにもネット上の誹謗中傷書き込みの蔓延が反映しているだろう。

政治の根幹が揺らいでいる

 さらに言えば、安倍首相は来年4月に予定されていた消費税率10%への引き上げを、6月1日、2年半延期すると表明した。14年11月にやはり増税を延期したときに「再び延期することはない」と明言していたにもかかわらずである。この判断について首相は「これまでの判断とは違う新しい判断だ」と妙な強弁をした。消費税増税は財政再建、社会福祉充実などの大義名分で決められた国の重要施策である。それを国会のみならず与党間での議論すらなく、強引に押し切る政治姿勢はまさに「立憲主義」の原則を踏みにじるものと言えよう。それが堂々と通るのはなぜだろうか。

 集団的自衛権を憲法解釈で容認するために、従来慎重姿勢をとってきた内閣法制局長官の首をすげ替える、アベノミクスを推進するために日銀総裁を替える、NHKのニュース報道を政権寄りに改めるために「右を向け」と言えば右を向く財界人を会長に起用する、政府批判をするテレビを偏向だと言って攻撃する――。

 これまで前例とされてきた一定の行動の歯止めを次々に塗り替える安倍政権のやり方は、日本にかつてない重苦しい空気を醸し出しており、国際NGO「国境なき記者団」が4月に発表した「報道の自由度ランキング」で日本は、世界180カ国・地域中72位と大きく後退した。

 ここには首相個人の資質が強く反映しているが、それを国会が、メディアが、そして国民が許していることの背景に、サイバー空間がもつ「けじめの喪失」がじわりと影響していると見るのは、決して牽強付会とは言えないだろう。

投稿者: Naoaki Yano | 2016年08月01日 14:37

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