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2013年02月01日

「第三の郊外化」で現実の風景が一変(2012年/10)

 前回、大津市のいじめ事件に関連して地域コミュニティの変質にふれた。それは、コミュニティが形骸化しつつあるにもかかわらず、骨組みとしてのヒエラルキーはなお強固な力を持っている、同時にそのコミュニティをインターネットが根こそぎ崩壊させつつある、ということだった。現代進みつつあるコミュニティの変貌を私は「第三の郊外化」と捉えている。

 社会学者の宮台真司は『日本の難点』(幻冬舎)で、日本社会の「郊外化」について書いている。

「団地」と「ニュータウン」

 彼によれば、日本の郊外化は、1960年代の「団地化」と80年代の「ニュータウン化」の2段階に分けられる。団地化は専業主婦化に象徴され、その特徴は地域の空洞化と家族への内閉化(閉じこもり)だった。一方、ニュータウン化はコンビニ化に象徴され、ここでの特徴は家族の空洞化と市場化&行政化だという。

 60年代は日本情報社会の黎明期であり、80年代は高度情報社会進展の時期である。たしかに日本社会はあのころ、高度経済成長にのって大きく変貌した。60年代、郊外にどんどん「団地」がつくられ、レジャーという言葉が現実味をもって語られるようになった。80年代には大型コンピュータによる大規模通信網の発達で、銀行はオンラインで結ばれ、新聞のコンピュータ制作も始まった。郊外には、団地より規模の大きな「ニュータウン」が登場、コンピュータがつくり上げるバラ色の未来が「コンピュートピア」と呼ばれたりした。

 宮台は郊外化の特徴を「<システム(コンビニ・ファミレス的なもの)>が<生活世界(地元商店的なもの)>を全面的に席巻していく動き」だと述べているが、この言を借りると、ソーシャルメディア、スマートフォン、クラウド・コンピューティングと、パーソナルなデジタル機器が生活にすっかり浸透した現在は「第三の郊外化」(90年代半ばのデジタル情報社会出現に始まり、いま真っ盛り)と言っていいだろう。

 もっとも今回の「郊外化」は、現実の都市の周辺に新たな物理的空間が出現する従来の郊外化とは様相が違う。郊外は「サイバー空間」上にあるとも言えるし、現実とサイバー空間が渾然一体となって、現実世界そのものが郊外化したとも言えよう。その結果、生活世界は根こそぎ空洞化し、社会そのものの風景は一変した。

木嶋佳苗が炙りだした「空洞」

 今年4月に殺人や詐欺罪で死刑判決を受けた木嶋佳苗をめぐる一連の事件は、新聞、テレビ、週刊誌、ネット掲示板などで大いに世間を騒がせた。死刑判決からまだ半年しかたたないのに、すでに人々の脳裏から急速に忘れられつつあることも含め、彼女が浮かび上がらせたのが現代社会の空洞化である。

 30代半ばの、決して美人とは言えない小太りの女性が、結婚を口実に次から次へと男性をだまし、殺人3件を含む詐欺、詐欺未遂、窃盗など計10件の容疑で起訴された。彼女は相手のほとんどをネットで見つけ、45歳から80歳に至る被害男性(殺人や詐欺)は彼女にあっさり金を貢いでいる。男とホテルに泊まったり、男の自宅を訪れたりした直後に睡眠薬を飲ませ、あげくに3人の男を殺した(とされている)。事件は深刻だが、裁判を通じて浮かび上がったのは、犯罪への引き金が軽く、罪の意識もまた軽い現実だった。

 事件を取材して『別海から来た女』(講談社)を書いたノンフィクション作家の佐野眞一は「この事件の最大の謎は、そして木嶋佳苗という女の一番の不可解さは、金を詐取したことが発覚しそうになると、子どもが積み木でも崩すように、あるいはゲームに飽きた中学生がリセットボタンを押すように、相手をいとも簡単に目の前から消していることである。木嶋佳苗の殺意の〝沸点〝は異様に低い」、「〝怨念〝も〝流血〝もない木嶋佳苗事件」などと書いている。

 裁判をずっと傍聴して『毒婦。』(朝日新聞出版)を著した40代前半のコラムニスト、北原みのりも「不思議な気持ちになる。3人の殺人を審理する裁判なのに、悲劇や緊張が感じられない。傍聴席は佳苗を一目見たい、という野次馬たちの興奮に満ちている。被告人席に座る佳苗は胸を開いた服を着て、涼しい顔をしている。笑みを浮かべたまま殺された、と主張する遺族の弁に私は素直に戸惑った」、「こんな大きな裁判なのに、凪。こんなに男性が亡くなっているのに、凪。検事がどんなに声を荒げても、凪。佳苗がピアノを弾くように指をタンタンタンと動かしている時には、柔らかい音色が聞こえてくるような気すらした」と書いている(『毒婦。』というおどろおどろしいタイトルには違和感があるが、軽やかな文体が事件の本質を浮かび上がらせている)。

「援交世代が生んだ思想」

 木嶋佳苗という一人の女性のパーソナリティとその犯罪行為は、事件そのものを超えて、現代社会の一面である「軽さ」、「虚ろさ」を象徴しているように思われる。それは、彼女に簡単にだまされ、会った翌日には大金を差し出し、睡眠薬を飲まされてもさして警戒せず、最後には自らの命を落とすことにもなった練炭コンロであっさり殺されたりもした中高年の男性たちにも言えるだろう。

 登場人物の背景にはもちろん地域コミュニティが存在しているが、取材者たちが現地を訪れると、そこにはモノトーンの世界が広がっており、確固たる実社会が存在しているようには思えない。ネットだけが彼らをつないでいる。
また、殺された男性の住家のすぐ近くに別の男性宅があり、そこに木嶋佳苗が何食わぬ顔で通っているといった、いかにもゲーム的なシーンもあった。

 佐野眞一は「インターネットの爆発的普及の中で、人間関係の希薄化は急速に進んでいる。こうした世界史的なうねりが、最初に起こした大きな出来事の一つが、この事件だったように思えてならない」と述べているけれども、北原が社会学者の上野千鶴子にこの話をしたら、上野が「援交世代から思想が生まれると思っていた。生んだのは木嶋佳苗だったのね」と言ったというコメントは、なるほどと合点させられる。
ここには、従来とは著しく異なる世界が広がっていると言っていい。

投稿者: Naoaki Yano | 2013年02月01日 13:51

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