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2011年06月01日

福島原発事故・被害住民・私たち(2011/5)

 福島原発事故は、政府・東電のタイムスケジュールを見ても、なお3カ月程度は臨戦態勢が続く。事態が予断を許さないなかで、地域住民は放射能汚染の故郷を追われて、放浪の旅を余儀なくされている。

放射能汚染がコミュニティを崩壊させる 

 政府は4月22日、福島第一原発から半径20キロ圏外にある福島県下の5市町村(飯館村全域、川俣町の一部、葛尾村と浪江町の20キロ圏内を除く地域、南相馬市の一部)を原子力災害対策特別措置法に基づく「計画的避難区域」に指定した。地方自治体と連携しながら避難計画をつくり、避難先の確保や雇用対策などを行うという。

 また半径20キロ圏内は、同日から災害対策基本法に基づく「警戒区域」となり、住民も含めて原則立ち入りが禁止された。福島第一原発事故は大規模な地域の人びとの生活を一変させる事態になったわけである。

 南相馬市の20キロ圏で果樹園を営んでいる友人は、警戒区域になる前にと里帰りして一部荷物を運び出した22日、やるせない口調で「今の段階なら、ここに留まりたい。自分たちの判断ではなく、行政の都合で追い出されるのは我慢できない。ほとんどの住民はそう思っているのではないか。」と話した。

 放射能は危ない。生命と健康第一。だからみんなで避難を、と進められる政府主導の強制的な措置に対しては、割り切れない住民も多いようだ。これは別の知人が教えてくれたのだが、東洋経済オンラインに飯館村の菅野典雄村長のインタビューが載っている(1)。計画的避難区域発表前の4月18日に行われたもので、指定決定の間に政府との間で話し合いが行われたと思われるが、記事には<「命が大切」というのは正論。しかし、その犠牲になるのもここの住民なんです>という見出しがつけられ、画一的に「計画避難区域」に指定されることへの強い疑問が提出されている。

——(政府は計画的避難を打ち出したとき、避難の受け皿など何も考えていなかったのか、という問いに対して)何も考えていないですよ。いわゆる、国会議員、学者、マスコミ、国民、結局、みんな、「命が一番だよな」という問いに対して、「いや、違う」と言える人は誰もいない。そういうことに敏感に反応し、政府として何かをやらなければならない、ということになったのが計画的避難措置なのだ、と私は思っている。
 避難措置に伴う経済面、生活面、精神面、子どもへの影響など、大変に心配です。職場などは全部がらがらぽん。ほとんど倒産します。健康も悪化する、精神的にもおかしくなる。子供にも大きな影響を与えます。
 よく考えてください。そういうリスクと、いまうちの村にいて、たとえば放射線を相対的に多く浴びる中にいて、実際に被害が出るリスク。天と地ほどの差があるのではないですか。
「命が大切」と言ったり書いたりしていれば、誰からも非難されない。しかし、その犠牲になるのはここの住民なんです。

原発に翻弄される地元

 家も、畑も、牛も、漁船も捨てて避難せざるを得ない人びとを代表する重い言葉である。
 
 一方、雑誌『週刊東洋経済』の4月23日号(東電特集をしている)には、第一原発のお膝元の双葉町の話が出ている。「東電に振り回された『双葉町』そして最後にはすべてを失った」というタイトルである。
 
 電源交付金、固定資産税、法人税、さらには東電への"安定"就業で他の自治体がうらやむ「富裕団体」になった双葉町では、これらの時限つき収入が途絶えたとき、さらなる交付金を求めようと、町議会が東電に7、8号機の増設を求める全会一致の決議をしたという。町の思惑通りに増設が進まないうちに今回の惨事になったわけが、双葉町は増設工事に使う町道の整備工事に30億円をかけて、財政難に拍車をかけていたらしい。
 
 その双葉町は、町役場そのものが埼玉県下を転々とする流浪を余儀なくされている。まさに原発に翻弄された町だと言えるだろう。

原子力科学者の建言

 新聞紙上ではあまり大きく報じられなかったけれど、3月30日に原発を推進してきた学者たちが国民に謝罪する声明を発表している(2)。顔触れは、田中俊一(前原子力委員会委員長代理、元日本原子力学会会長)、石野 栞(東京大学名誉教授)、齋藤伸三(元原子力委員長代理、元日本原子力学会会長)、など錚々たるメンバーで、彼らはまず「原子力の平和利用を先頭だって進めて来た者として、今回の事故を極めて遺憾に思うと同時に国民に深く陳謝いたします」と述べた後、「特に懸念されることは、溶融炉心が時間とともに、圧力容器を溶かし、格納容器に移り、さらに格納容器の放射能の閉じ込め機能を破壊することや、圧力容器内で生成された大量の水素ガスの火災・爆発による格納容器の破壊などによる広範で深刻な放射能汚染の可能性を排除できないことである」と警告を発している。そのうえで、「私達は、国を挙げた福島原発事故に対処する強力な体制を緊急に構築することを強く政府に求めるものである」と述べている。

 彼らがいま謝罪することの意味やその責任については、ここではふれない。原発に賛成してきたにしろ、反対してきたにしろ、原発事故が起これば、私たちの頭上に放射能が降ってくる。あっというまに生活の基盤が崩れ、営々と築きあげてきたコミュニティが崩壊するということである。地震や津波は自然災害だが、原発事故は災害ではない。今回は東北が被災地になったが、国土が狭い日本にあっては、だれもが明日は我が身である。それは、もちろん今日かもしれない。
 
 原発の安全性を、それを推進する技術者や電力会社、官僚や一部政治家に任せてきたのは誤りだったのであり、私たち一人ひとりが「原発に依存した快適な生活」を再考せざるを得ないということである。原発という巨大技術に立ち向かう「技術倫理」の再構築を迫っているとも言えよう。

<注>
(1)http://www.toyokeizai.net/business/interview/(原稿出稿当時)
(2)Peace Philosophy Centre(http://peacephilosophy.blogspot.com/p/blog-page_31.html(原稿出稿当時)

投稿者: Naoaki Yano | 2011年06月01日 22:05

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