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2010年05月12日

情報の海に溺れる?「社会を束ねる力」(10/4)

 日本経済新聞は3月23日から有料の電子版を創刊した。紙のメディアが退潮を余儀なくされるなかで、世界中の新聞や雑誌、書籍などを扱う企業が生き残りをかけてさまざまな試みを続けているが、日本経済新聞電子版もその例である。パーソナルメディアの跋扈する「総メディア社会」にあって、テレビも含むマスメディアそのものが大きな試練に立たされている。

 日本経済新聞の社告によれば、電子版は4月末まで無料で提供され、その後有料化、紙の本紙購読者は月額1000円、電子版のみの購読の場合は4000円である。アメリカのニューヨークタイムズはすでに一部記事を有料化しており、2011年からは全面的に有料化すると発表している。

オンライン「情報の有料化」

 オンライン上の情報発信は、インターネット黎明期に行われた有料化の試みが奏功せず、その後ほとんどの情報が無料化へと流れたが、ここへ来て、「情報の有料化」への試みが新たに始まったことになる。

 日本経済新聞が電子版を創刊した背景には、新聞産業を支える販売収入と広告収入が、ともに急速に悪化していることがある。広告代理店の電通が2月に発表した調査によると、2009年の日本の広告費は全体で5兆9000余億円で、前年比で11.5%も減った。調査をはじめた1947年以来の下げ幅で、日本経済の昨今の低迷ぶりを象徴しているが、なかでも特筆すべきなのは、新聞広告の売り上げがインターネット広告に抜かれたことである。

 新聞、雑誌、テレビ、ラジオのマスメディア4媒体の広告費が2004年以来減少傾向を示すなかで、ラジオは2006年にインターネット広告に抜かれ、2007年には雑誌広告が抜かれた。今回、新聞もまたインターネットの後塵を拝したことになる。

 新聞部数は1998年以来減少傾向にあるし、多くの新聞社は1992年初めに値上げし、97年に消費税の税率アップに連動してその分だけ値上げして以来、値上げできないでいる。そこへ広告費減が追い討ちをかけており、まさに新聞業界は存続の危機に直面していると言っていい。

 そういった情勢下での日本経済新聞の今回の挑戦が奏功するかどうかきわめて興味深いが、月4000円という従来の紙のメディアに引きずられた感じの高額設定が、すでにニュースも含めて無料情報に接することに慣れているユーザーにどのように受け取られるかが鍵になるだろう。

『ジャンジャン』も休刊

 一方、オンライン・ジャーナリズムを標榜して2003年に創刊した『ジャンジャン(JANJAN)』もこの3月末で休刊した。韓国で話題になった市民記者メディア『オーマイニュース』に続いて、全国各地の市民記者が「既存メディアが伝えないニュース」を伝えるというコンセプトだったが、その後のブログ、SNS、ツイッターなど、個人が情報発信できるメディアの台頭で存在感が薄まったのと、これもやはり広告減で撤退を余儀なくされた。
 
 ここには、社会全体の情報への嗜好が、ジャーナリズムのような硬派のものから、身近な話題をめぐるおしゃべり、ショッピングやレジャーなどのお役立ちガイド、あるいはアルバイト、就職などの実用情報へと移りつつある傾向が見られる。

 では、社会全体のジャーナリズムへの感心がまったく薄れたのかというと、必ずしもそうではないだろうが、いくつかの問題点が指摘できる。まずマスメディアそのもののジャーナリズム活動の水準が著しく低下している事実を無視できない。一方で、ブログなどには個別のテーマに沿ったきわめて質の高い情報が存在するが、残念ながら、それらは広大な「情報の海」に沈み、一般には見えにくい。

 検索サービスを使って有益な情報にアクセスできるのは確かだが、それを掘り起こすにはやはり手間とそれなりの能力が必要である。ただ漠然とインターネットを利用している限り、それらは見えてこないし、だから一般的には、ないに等しいとも言える。そう考えると、既存マスメディアの衰退は、メディアのありようが変わる中での栄枯盛衰に過ぎないと達観することもできない。

 それは、従来のマスメディアが持っていた「社会を束ねる力」の減衰とも関係している。本連載で、政府が進める「情報通信法」の構想について触れたとき、それらの議論では新しいメディアを「ビジネスのツール」として捉える傾向が強く、「表現のメディア」としての視点が欠如、あるいは希薄だということへの危惧を表明した(新たなメディア産業法をめぐる審議が今国会でも始まっている)。

増田米二の予言

 増田米二は1985年に書いた『原点・情報社会』という本で、マスメディアの近い将来における衰退を予言したうえで、「遅くも21世紀までには情報ユーティリティは現在の近代工場に代わって、人会の社会的シンボルになっていることだろう。そのころには何千、何万という多種多様な情報ユーティリティが出現しており、私たちは、現在の新聞やテレビに代わって、毎朝まず自宅の端末機を操作して、情報ユーティリティから必要な情報を入手するのが日課になっているだろう」と書いた。彼の言う「情報ユーティリティ」がいまインターネットによって実現されていると言っていい。その洞察力には驚くほかない。

 増田はそこでのジャーナリズムのありようをとくに問題にしているわけではないが、いま問われているのは、「総メディア社会」における社会全体のジャーナリズム機能をどう維持できるか、ということのように思われる。

投稿者: Naoaki Yano | 2010年05月12日 11:37

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