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2005年09月20日

DTP編集が伝統的な本づくりを破壊していく(『情報処理』2004/9)

本の制作過程もずいぶん変わった。最近、いわゆるコンピュータを最大限に生かしたDTP(デスクトップパブリッシング)編集で本をつくる経験があったが、考えさせられることが多かった。

企画段階で本を装丁するデザイナーを指名したら、「いまは基本フォーマットのもとに統一的に作業するDTPなので、デザインもこちらにまかせてほしい」と断られた。

言うまでもなく、本のデザインは中味(コンテンツ)と不即不離の関係にある。装丁のプロになると、本文を何度も読んだうえで、表紙デザインばかりでなく、本文はどのような活字(フォントや大きさ)を使い、一行何文字、一ページ何行で組むかといった組版を決める。もちろんこれは編集者の仕事でもあり、編集者はデザイナーや関連業者と相談しながら、判型や使用する紙の質なども決める。だから私は、最初の段階で、昨今は本を一冊づつ丁寧につくる余裕をなくしているようだと予感したが、事実はもう少しひどかった。

<本づくりの中心から「ゲラ」が消えた>

入稿する段階で電子ファイルに添えてハードコピーを渡そうとしたら、「そんなものはいらない」という。ほどなくして電子ファイルだけが電子メールで返送されてきて、「校閲も含めて原稿チェックをしたが、朱があれば電子ファイルで直してほしい。テキストに関してはこれで最終稿としたい」とのことだった。

驚いたことに初校ゲラ(校正用に印刷した原稿)が出ないのだった。しかも、朱は筆者が電子ファイル上で直してくれという。つい数年前にはゲラに朱書きをして返せばよく、電子ファイルを直すのは先方の仕事だった。

作業をしているうちにいくつか困った点に気がついた。

まず、原稿に校閲の朱が入っているらしいが、電子ファイルなのでどこを直したのかがわからない。しかも校閲が勝手に直している箇所がある。ゲラの場合、黒鉛筆で「こうしたほうがいいのではないでしょうか」といった注記があるので、「なるほど」と思えば、感謝してそれに従うという具合で、これはこれで楽しいゲラ点検作業でもあったが、そういう注記もなく、勝手に直されたのでは、知らないうちに不本意な原稿を通してしまいかねない。さらに、古い時点のデータを勝手に新しいのに変えている例もあった。こちらは考えがあって、その時点で統一しているのに、である。

こういうことはかつては考えられないことだった。それは、筆者、編集者、校閲者の間に、紙(物)のゲラがきちんと介在していたからである。関係者はそのゲラを中心に対話しながら、よりよい原稿をつくってきた。そのゲラが介在しなくなったために、これまでの基本的了解事項もまた雲散霧消してしまったらしい(編集者によれば「修正履歴は電子ファイルとしてきちんと残っているので、必要ならそれをお送りすることもできた」とのこと。それなら最初から送ってくるべきだと思うが、それはそれでわずらわしさが増える。一枚のページですべてがわかるゲラのすばらしさよ(もっとも、若い筆者の中には、ゲラを介さずにファイルで直接直すほうが便利だという人もいるらしい)。

通常なら再校(二度目のゲラ)にあたる段階で、はじめてゲラが出てきたが、各章の冒頭につける扉のデザインの稚拙さに私は驚いた。基本フォーマットのもとに下請けした人がレイアウトしているらしく、それはデザイナーの仕事とはとても思えなかった。

かつて住んでいた新興住宅での「アフター」と言われる元大工の仕事ぶりを思い出した。

そこは大手不動産メーカーがつくった分譲住宅で、上京したときに新築を購入したのだが、いかにもというマホガニー製の玄関の立てつけが悪く、きちんとしまらなかった。それを直しにやってきた大工は、ドアをいきなりカンナで削り出したが、逆目にやったから、ドアは無残なささくれ状態になった。大工は「あとはペンキを塗っておきますから」と平気である。階段のきしみも直してもらおうとしたら、絨毯の上からいきなり釘を打った。

この大工には早々にお引き取りを願い、会社に善後策を講じてもらったが、かつてはたしかに「大工」だったらしいその人は、いまは住宅会社の「アフター(ケア)」に成り下がり、「大工の魂」はなくしているらしかった。もともとその程度だったのか、優秀な大工を必要としなくなった現代の住宅事情が大工を” 殺している”のかは即断できないが、どちらにしろ、職人というものが姿を消していくいまの社会を象徴していよう(私はほどなくしてこの家を去り、いまは大正年間に立てられた古い木造家屋を改築して、快適に暮らしている)。

< 職人的な本づくりをする余裕がない>

ついに本の世界からも職人がいなくなるのか、というのが私の感慨だった。

友人のデザイナーにゲラを見せ、いくつか手直しをしてもらい、ほかにも本文見出しの位置をめぐって文章上の調整をいくつか行ったが、初校ゲラが出ていればいっぺんですんだ作業である。

最後にあわてたのが表紙カバーだった。

これまでの経験だと、表紙(カバー)は筆者、編集者、デザイナーなどの関係者が顔をあわせて打ち合わせをしながら、いくつか試作して決める。色校(色具合をチェックするためのゲラ)を出してもらったこともある。ところが今度は、何の打ち合わせもないままに表紙が決められた。これにも驚いたが、そのうちの一点がまあ気に入ったので承知したら、印刷直前になって「デザインに著作権法上の疑義が出た。事後承諾で申し訳ないが、別のイラストレーターのものに急遽変更したのでよろしく」という電子メールが来た。そのデザインを私は気に入らなかった。筆者に無断で表紙デザインを決めるのは困ると、再度表紙カバーだけ変更してもらって、やっと刊行にこぎつけた。

一件落着後の懇談の席で、私は編集者に以下のようなことを述べた。

①コンピュータを新しい本づくりに利用することはむしろ当然だが、そのことで伝統的な本づくりの良さが失われることがあってはならない。むしろより良くするためにこそ技術を使うべきである。

②実際には、DTPは出版社や編集者の効率を上げるためだけにしか使われてない。かつて編集者は筆者の自宅を訪れ、紙に書いた原稿をもらい、これを紛失しないように緊張して社まで戻り、それを印刷工場で活字にした。いまは電子メールで原稿を受け取れるし、DTP化で本づくりの工程が短縮されたのも事実だろう。しかし、そのDTP化の恩恵は出版社だけが受けている。ゲラがなくなったために、筆者と校閲者との語らいは姿を消したし、電子ファイルの朱直し作業までやらされている筆者の側の恩恵はほとんどない。

③かつて単行本は一冊一冊、丁寧につくられてきたが、いまや単行本も新書や文庫と同じように基本フォーマットが決められ、内容ばかりか、器としても特徴のない本が量産されるばかりである。それは読者にとっても、技術の恩恵がないということだ。

④出版社におけるDTPの現状は、日本のあらゆる分野で進んでいる技術導入の問題点と同じだが、いやしくも文化を担うと自負する出版企業の足元がこういうことなのは情けない。

編集者の話だと、本が売れないなかで一定の売り上げを上げるために、とにかく点数を増やさなければならない、しかも一点一点の刷り部数はどんどん縮小している。だからこそより点数を増やす必要がある、という悪循環の中で、日々の忙しさに追われ、どうしても効率本位に流されてしまうのだという。立ち止まって考える余裕すらない現状のようだった。

私の実感からしても、本は刊行するたびに売れなくなっている。出版業界の苦境は身にしみて感じるけれど、ここがまさに踏ん張りどころで、その日ぐらしにルーティンをこなしていること自体が破滅に至る道であることもはっきりしている。本が売れない社会的要因はともかく、本づくりのプロが、大工の魂を忘れたアフターのように、自分の作品に対する情熱を忘れていることに原因の一端がないとは言えないだろう。

コンピュータで効率を上げても、本が売れることには結びつかず、ただ点数を増やし、しかも一点ごとの売り上げを少なくするだけで、その結果、編集者はより一層忙しくなるのだとすれば、それはまことに馬鹿々々しい事態でもある。

もはや本をつくっても売れないのだから、少ない本好きのために少しは価格が高くても良書を丁寧につくるしかなさそうなのに、出版業界は逆に、安手の本を量産する方向へなお驀進している。だから末端の編集者より、判断停止している中枢の人間にこそ責任があることもまた明らかだろう。

出版社も、取次も、書店も、個々に努力している人はけっこういるようだが、全体として、事態を改善する力になっていない。それはまた、三菱自動車の目も覆うようなモラル失墜に見られるような日本の縮図でもあろう。

投稿者: Naoaki Yano | 2005年09月20日 18:37

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