『DOORS』突然の強制終了

先にも書いたが、『DOORS』は1997年5月号で突然休刊になった。有無を言わせずの強制終了である。最終号の目次が「休刊」のお知らせで、表紙には「ゼロから始めるウエブサーバー作り」の記事紹介もある。牧野さんの「今月の怒る弁護士」は「社会は変動する。かつての経済先進国日本は今急速に凋落する。未来を展望できない国家は、大きく衰退するのが歴史的必然だ」と書いている。私には『DOORS』休刊決定そのものが朝日新聞凋落の予告のようにも思われた。今は亡き三浦賢一君が「矢野さんにはいつも僕がついているから」と言ってくれたのは、突然の休刊を告げられた夜のことである。
敗軍の将、兵を語らずと言う。『DOORS』休刊の責任は編集長にあり、それを認めるにやぶさかではない。しかし、その背後にあった社のメディア政策との確執、突然、降って湧いたような花田問題の波紋についてはきちんと記録しておきたい。
『DOORS』は私が小世帯の出版局でインターネットに取り組んだ最初のプロジェクトだったが、その直後に社が電子電波メディア局という新たな組織をつくり、インターネットに向けて全社的な取り組みを始めたのが『DOORS』にとっての不運だった。先行プロジェクト『DOORS』は邪魔者として排除されたのである。電子電波メディア局を立ち上げる前に、デジタル出版部をその一部に取り込もうとする考えがあったのはたしかで、実際に私は社幹部からその打診も受けていた。幹部の某氏は「君のやりたいことは所帯の小さい出版局では無理だから」とも言ってくれた。だが私には電子電波メディア局がやろうとしているasahi.comの事業がどうしてもうまく行くとは思えなかった。先にもふれたが、小さな組織でいろんな実験に挑みながら、成功しそうなプロジェクトを伸ばしていくのがいいと思っていたのである。
今にして思えば、あのとき電子電波メディア局に編入されたうえでasahi.comとOPENDOORSを併存させつつ『DOORS』プロジェクトを遂行する方法もあったかもしれない。大組織に抗って潰されるよりは良かったとも言えるが、成否は私の政治的手腕次第で、その点で自信がなかっということでもある(当時、社のメディア政策に関与していた友人の話では、そういう併存の目はもともとなかったらしい)。山本博出版局次長の考えもあり、出版局独自の路線を選ぶことになったのである。
ここは微妙なところで、当時の出版局は桑島久男担当、山本局次長という体制で、局長は担当兼務だった。後に担当の意向でK局長が着任したが、桑島、K、山本いずれも編集局社会部の出身で、だから団結力があったわけではなく、むしろ個性の強い社会部記者の三すくみに近い状態だった(出版局の植民地支配の典型と言ってもいい)。
私は雑誌づくりに憧れ、自ら希望して編集局から出版局にやってきた。出版局は編集局に比べて辺境だと思われていたから、「デスクになって天下りするまで辛抱しろ」などと言われたりもしたが、そういう考えが私には理解できなかった。皮肉なことに、そのことで出版局側からは奇妙な人事と思われたりもした。最初は新聞とは違う雑誌というメディアになじめず苦労したが、平池芳和、木下秀男、大崎紀夫など個性的で魅力的な編集者がたくさんいた。最先端技術特集をしながら、周りの仲間にいろいろ教わり、『ASAHIパソコン』創刊までこぎつけたのである。だからレイトカマーではありながら、出版局への愛着はひときわ強かった。『アサヒグラフ』時代には、ローテーションとして朝日新聞労組書記長に担ぎ出されたりもしている(労組時代の1年は、それこそすばらしい仲間に恵まれ、貴重な経験をし、同窓会は今でも健在である)。
ここで山本博氏について少し説明しておこう。彼は北海道新聞からスカウトされた途中入社組ながら、横浜支局デスク時代のリクルート報道で名をはせた朝日新聞社会部きっての特ダネ記者だった(平和相互銀行事件、KDD事件、談合キャンペーンなどの調査報道に携わり、新聞協会賞も2度受賞している。『朝日新聞の調査報道』=小学館=の著書がある)。柴田鉄治さんは朝日新聞改革案として「山本博君をリーダーとする調査報道部門を作るべきだ」と常々言っていたが、ともに編集局中枢から外されていた。朝日新聞という会社は、特ダネ記者を名古屋社会部長、販売局次長と適当に処遇しながら、次いで出版局次長にしたのである。
私が接した山本さんは、特ダネ記者とは別の進取の気性に富む良き管理者で、インターネットにも興味をもち、よく「矢野さん、いまメールしたから」とわざわざ局長室から伝言しに来たりした。彼とはウマが合い、いろいろ相談しながら対応していたが、後に聞くところによると、局内からはYY路線と揶揄されていたらしい。
DOORSとasahi.comとの路線対立が、結局、『DOORS』廃刊に結びつく。彼らにとって『DOORS』は目の上のたんこぶだったのである。
1つのエピソードがある。
OPENDOORSが日本のマスメディア最初のホームページとして新聞協会のパンフレット『1997日本の新聞』に記されていることはすでに述べた。時代は突然、現在に飛ぶが、主宰しているOnline塾DOORSで友人、森治郎さんのミニコミ誌『探見』との共催で阿部裕行・多摩市長の話を聞いたことがある。
阿部さんは当時たまたま新聞協会事務局に勤務しておられたが、OPENDOORSの認定に関しては、asahi.comの関係者から「あれは出版局がやっているもので朝日新聞の正式のものではない」と異論が出たらしい。小さな手柄を誇示するようだが、この出来事に当時の電子電波メディア局の『DOORS』を〝敵視〟する様子がうかがえるので、記しておく。
『DOORS』廃刊にはもう1つ、伏線があった。先にふれた『ウノ』創刊(花田問題)である。新雑誌を創刊するのはいい、外部から編集長を招くのは、局員としては不満だが、これもあっていいだろう。しかし、なぜ花田氏なのか、というのが問題だった。
社内でも、私の組合時代の畏友、社会部出身の鈴木規雄氏などは公然と批判していたが、当の出版局部長会ではっきりと抗議の意思を表示したのは私だけだった。部長会が終わったあと、某氏がそっと近づいてきて「いい発言だった」とつぶやいたが、当の本人は部長会の席ではだまっていたわけである。
『ウノ』問題を機に着任してきたK局長が私の総合研究センター送りを画策したのである(K氏と山本氏は社会部以来の犬猿の仲で有名だった。山本氏は当時、私にこんなことを言った。「Kと私はふだん顔をあわせても挨拶しないが、桑島さんの前だと、Kは私に百年の知己のように話しかけてくる。私はそれに対して1000年の知己のように答える」)。もちろん私は異動を拒否した。と言うより、総研センター自体はかつて論説委員並みの待遇で、優秀な記者が処遇されて行くところでもあったから、行くにあたっては「自分は何をやりたいか」の提案書が前提だと聞かされ、私はそれを書かないことで抵抗していたのである。
ところが私のあずかり知らぬところで私の研究レポートが出されたために、人事が発令されてしまった。K局長になってから局次長が増員され、雑誌編集の実績がほとんどなく業務関係の部長だったN氏が出版局懐柔策として局次長に一本釣りされたが、そのN氏が私に無断で代作したのだった。後に私が詰問したところ、彼はこれを認め、「K局長には局次長にしてもらった恩義がある」と言った。
実は、私の総研センター行きはM社長や当時のH総研担当役員から「一時的だから、しばらく好きなようにしていればいい」と言われていた。しかし、しかし。私も含めて出版局再生のためにポスト桑島として着任を要請して実現した、これもN新担当は、思惑に反して、私を出版局に戻さなかった。彼は「君を戻せば自分の身が危ういと、上層部の先輩から言われている」と言った。出版局プロパーに裏切られたという苦々しさが残った。
◇
総研センター時代、私はときどき、中島敦の小説『李陵』を思い出した。
まだ紀元前の中国、漢の武帝の時代。匈奴征伐の際に、善戦およばず捕虜となった李陵は、匈奴単于(ぜんう)に厚遇される。李陵は自己弁護をせず、漢民族の誇りも失わず、匈奴の軍事指南は拒否した。ところが不運なことに、同じ李を名乗る別の人物が匈奴に迎合、それが武帝の耳に達する。怒った武帝は李陵の家族、一族をことごとく殺した。李陵は匈奴と一定の友好を保ちつつも、悲運のうちに異郷の地に没する。一方、匈奴に順うのを潔しとせず僻地に放逐されていた蘇武は、苦節19年の末、祖国に戻った。
高校の教科書で読んだとき、「襤褸をまとうた蘓武の目の中に、時として浮かぶかすかな憐憫の色を、豪華な貂裘(ちょうきゅう)をまとうた右校王李陵は何よりも恐れた」という簡潔で凛とし、しかも深い憂愁をかかえたこの名文が妙に記憶に残った。
ちなみに、武帝の前で李陵の行動をただひとり弁護、そのために宮刑(去勢)という恥ずべき刑を受けたのが有名な『史記』の作者、司馬遷だった。中島敦は司馬遷に関して、「彼は、今度程好人物というものへの腹立を感じたことは無い。これは姦臣や酷吏よりも始末が悪い。少なくとも側から見ていて腹が立つ。良心的に安っぽく安心しており、他にも安心させるだけ、一層けしからぬのだ。弁護もしなければ反駁もせぬ。心中、反省もなければ自責もない」。
すでに社を離れていたと思うが、柴田さんが何かの折に、「戦国時代なら戦いに敗れれば、首をはねられてもしょうがないところだ」と妙に慰めてくれたことを思い出す。
総研センターは、さすがに往年の面影が残り、気心の知れた友人もいて、台頭するインターネットの現場を取材したり、共同レポートを書いたり、それはそれで楽しく過ごした。同時に、ここでもインターネットに翻弄される新聞社の混乱ぶりを見ることになった。朝日新聞社は2008年、出版局を朝日新聞出版として分社化したが、それは2023年6月の『週刊朝日』廃刊へと結びつく。私が総研センターで見たのは出版局が滅びに向かうみじめな姿でもあった。
それはともかく、私が総研センターに行った1997年は平成9年で、平成という時代は3分の1を経たところだった。インターネット史で言えば、まだWeb2.0以前である。

さて、本題である。わが社にとっても、また私たちにしてもまだインターネットをよく知らなかったわけで、社外の何人かに助言を頼んだ。それは相当たる顔ぶれだった。
日本でのインターネットの父とも言われる村井純さんには、当然のことながら、さまざまにお世話になった(伊藤、村井両氏の写真は1996年のインターロップで)。
著書もある。彼はインタビュー(1996年6月号)で「これからは技術者ではなく、社会の第一線で活躍している実務のプロがインターネットを始めるときである」と、インターネットの伝道師らしく、熱っぽく語っている(当時は慶応義塾大学助教授だったが、その後教授になり、現在は内閣官房参与、デジタル庁顧問なども努めている)。
されたり、この業界ではすっかり「顔」だった。にもかかわらず、利害渦巻く業界の垢にまみれぬ、毅然としたと身の処し方が、きわめてさわやかな印象だった。オーソン・ウエルズとスタンリー・キューブリックを敬愛する元映画青年は、時代の最先端で忙しく動き回りながら、メガネの奥に光る柔和な目で、メディア社会の行く末を見つめ、すでに『ハイパーメディア・ギャラクシー』(福武書店、1988年)などを世に問うていた。
史』=晶文社、1997年=として出版された)、折々の特集などでも知恵をお借りした。彼はその後、東大教授になったが、2014年に62歳で夭折したのはまことに残念である(写真は『ASAHIパソコン』インタビュー時のもの)。
内訳は、
だいたい1万円未満だが、1万円以上のものもある。岩波書店の『広辞苑』は第4版で1万4420円、平凡社の『世界大百科事典』は31巻の大百科事典が検索ソフトを含めて数枚のCD-ROMに収められ、14万5000円だった(私は1998年に発売された『広辞苑第5版』1万1100円と、同年発売の『世界大百科事典』第2版、5枚組で5万9000円を買った。『世界大百科事典』まさに高機能化、低価格化していたが、結局、あまり使わず、紙の『世界大百科事典』と同じ運命をたどった)。
タイトルを「ポスト日本人」としたことについて雑誌でこういうことを書いている(福井コンピュータ『cyber Architect』 1996年秋号)。
『ガジェット』は、日本よりも海外で高い評価を受けた。ユーザーがマウスを操作しながら、インタラクティブな物語の中に入っていく点では、たしかにゲームだが、より深い一つの世界を築き上げている。ゲームは、7人の科学者が発明した洗脳装置センソラマをめぐって、帝国と共和国、その双
方のスパイが暗闘を繰り広げる形で展開する。プレーヤーは、帝国のスパイの役割を与えられ、科学者たちの身辺を探りながら、いつしか不思議な狂気の世界へ迷い込む。最後にどんでん返しも仕組まれており、海外で6万枚、日本で5万枚を売るヒットとなった。この作品は93年度のマルチメディアグランプリ通産大臣賞を受賞した。アメリカの各メディアで激賞され、95年2月27日号の『ニューズウィーク』誌は、彼を「未来を動かす50人」の1人に選んだ。
飯野賢治さんは、インタビュー当時、まだ25歳だった。処女作のアドベンチャーゲーム『Dの食卓』で脚光を浴びていたころで、大きな体、いかつい風貌、それに似合わぬやさしい笑顔、同じ25歳で映画『市民ケーン』を作ったオーソン・
ウエルズを彷彿させるところがあった。
その主力の紙のメディアがさっぱり売れなかったのが最初にして最大の躓きだった。
DOORSという意味で、3Dメディアと呼んだ(3D=Three Dimensionでもあった)。創刊直後のある会合で、私は『DOORS』のコンセプトを敷衍して次のように話した。
ここには、インターネットにはガイド誌より、メディアとしての本質を掘り下げた記事が求められるのではないかという私の思いが反映していた。だから、創刊前に発行したムックは『インターネットの理解(Understanding Internet)』だった。MIT時代にインターネット最先端を精力的に取材、人脈も築いていた編集委員、服部桂君が全身全霊を打ち込んだ、インターネットの解説本としては他に例を見ない傑作だったと今でも思っている。タイトルがマー
シャル・マクルーハンの『メディア論』(Understanding Media)をもじっているように、インターネット黎明期のアメリカの最新事情を丁寧に紹介すると同時に、インターネットの預言者と呼んでもいいマクルーハンについても詳しく紹介した。巻頭ではジム・クラークやマーク・ア
ンドルーセンなどにもインタビューし、アメリカでのインターネットの熱気について伝えている。
「3Dメディア」としての実績は、少しづつ築かれつつあったとも自負している。主なものを整理すると、以下のようになる(写真は1996年7月号の3DOORS案内)。
私は『月刊Asahi』の3代目編集長となり、総合月刊誌の新しいスタイルを確立したいと悪戦苦闘したが、結局はうまく行かず、A4変型判から従来の総合月刊誌のA5判、いわゆる「弁当箱」スタイルに移行するなどの経過を経たのち、その休刊に立ち会うことになった。『20世紀日本の異能・偉才100人』(1992.7号)など発売直後に完売する特集をしたなどの思い出もあるが、ITと直接関係がないので、ここではその後、取り組むことになったインターネット情報誌『DOORS』に話を移したい。
1993年に発足した米クリントン政権はインターネットを重視したNII(National Information Infrastructure 全米情報基盤)構想を発表、「情報スーパーハイウエイ」という言葉とともに、インターネットが広く流布されることになった。軍事用、学術用に発展したインターネットは、しだいに商用利用へと道を開き、1995にはつながれたホスト数で、学術関係よりもビジネス関係の方が多くなっている。同年にはNSFネットのバックボーンも民間ネットワーク・プロバイダーへ移された。日本で初期のインターネット普及に取り組んだのがJUNET(Japan University Network)であり、それが発展したWIDE(Widely Integrated Distributed Environments)プロジェクトで、その中心人物が村井純氏だった。
出版局を去った後の1998年に出した『マス・メディアの時代はどのように終わるか』(洋泉社)のデータをもとに、1995年の状況を再現してみよう(本書は絶版となっている。『ASAHIパソコン』および『DOORS』について丁寧に振り返っており、本<平成とITと私>前半の記述の多くは本書に寄っていることをお断りしておく)。
①阪神淡路大震災で、災害に強い情報手段として注目される