林「情報法」(64)

COVID-19と情報法

 このブログも、2017年9月14日の最初の投稿以来、2年9か月目となりました。COVID-19で世の中が変わりそうな雰囲気ですので、この辺りでとりあえず連載を閉じようと思います。最終回は、情報法のまとめの意味を兼ねて、COVIDのような「目に見えない」現象に対処する際の、基本動作を考えます。結論的には、① 見えないものを可視化して不安を和らげる、② 「偽陽性と偽陰性は不可避」と覚悟する、③ 情報によって情報を制御する、④ 最後は決定者が責任を負う、の4点を挙げたいと思います。

①   見えないものを可視化して不安を和らげる

 私たちヒトが生きていく上で必要な情報の80%以上は、視覚から得られると言われています。「『視覚は人間の情報入力の80%』説の来し方と行方」という論文をネット上で見つけましたから、学問上は未だ議論の余地がありそうですが、「百聞は一見に如かず」に類する諺が各国にあることからも、私たちの常識に合うように思えます。

 事実、視覚を失くしたり視覚に障害を持つようになると、行動が著しく制限されたり判断力が鈍ったりするようです。私も白内障を患っていた数年間は何となく不調だったのが、手術(今や日帰りが一般的です)後は「モノがはっきり見える」だけでなく、思考もまとまりやすく、全身の調和が戻ったように感じました。

 この事実は、ヒトは「見えないもの」に対する反応には「見えるもの」に対するほどには自信を持ちにくいこと、従って余計な不安を抱いたり、逆に虚勢を張って無視したりといった「非合理的」な反応に走りがちなことを、暗示していると思われます。私はセキュリティの世界に入ってから、心理学などの先行研究に触れる機会が増えましたが、一般的なバイアスのうち「非合理」の代表とされる事例には、「見えない」ことから来るものが多いことに気づきました。 

 その中の1つに「可用性ヒューリスティック」(availability heuristic)があります。これは日常的な行為では「ついでの買い物の際、つい同じものを買ってしまう」というような例(この場合は、具体的な物が対象であることに注意してください)にも使われますが、災害のような場合(これは目に見えません)では「大災害としてメディアで報じられたものほど、被害が大きかったと誤認してしまう」といった傾向を指します。

 例えば、飛行機事故は自動車事故よりも一度に多くの死者が出て悲惨ですので、事故の報道記憶が鮮明なため、年間の死亡者数の実データを無視して「飛行機の方が危険」と思いがちです。そこで9.11の後では、飛行機を避けて自家用車を選ぶ人が増えて、当然のことながら自動車事故が増えたと言われています。今回のCOVID-19も、一定の終息を見た後で死亡率を計算すると、インフルエンザと大差ないか、ひょっとすると低いかもしれません(そう願っています)が、恐怖心には雲泥の差があります。

 ヒューリスティックは、視覚情報など脳の負担が多すぎることから、「最短で最も効果が高い (と思われる)対処法」として、「過去の経験や記憶から情報に優先度をつけて判断する」思考のショートカット機能のことで、進化的なものです。ショートカットが常に正しいとは限りませんが、結果的にヒトが今日まで生き延びてきたのですから、総じて有効な方法だったとは言えるでしょう。

 しかし、それが「見えない」ものにも適用可能かどうかは、未だ実証されていません。その際の最も安易ですが、実は最も効果的な方法は、「見えないものを見えるようにする」こと、つまり「可視化」です。これによって一定範囲までは「見えない=不確実=不安」という直感的回路への耐性を作ることができます。コンピュータ・システムの売り込みで、「(社員の)貢献の見える化」というコマーシャルが流れていますが、それは理に適った方法と言えるでしょう。

 しかし「見える化」ですべての問題が解消するならハッピーですが、世の中はそんなに甘くありません。Fake Newsで取り上げたように(連載第44回「公開と真実の間」)、「見えない」世界では、「何が正しくて何が間違っているのか」も、一筋縄ではいかないからです。その場合「見える化」で可能なのは、せいぜい「不安を和らげる」のが限界で、それ以上は王道に帰って、「見えないものに対するリテラシ―」を磨くしかないと思われます。

②   「偽陽性と偽陰性は不可避」と覚悟する

「あれか、これか」の二者択一の陥穽については、本連載で何回にもわたって取り上げました(第45回~47回)が、ここでは別の面から、偽陽性(false positive)と偽陰性(false negative)が避けられないことについて、注意を喚起したいと思います。新型コロナウィルスのPCR検査の少なさと遅さに疑問を感じたからでもありますが、それ以前に里見清一氏が「医の中の蛙:第123回 血液一滴の癌診断」(『週刊新潮』に連載中、2020年1月16日号)というエッセイで、次のような指摘をしていたことが直接の引き金です。

(前略)仮にあなたが「99%」の精度の検診を受けて、「陽性」つまり癌の疑いがある、と出たとしよう。これでもうほとんど癌と極まったかというと、そうとも言い切れない。検診は自分が健康と思う人が受けるもので、検査の前、あなたが癌である確率(事前確立)は高くない。仮に0.5%とする。そして検査が、癌の人の99%を正しく「陽性」と判定し(感度)、癌でない人の99%を正しく「陰性」と判定する(特異度)として、「陽性」と出たあなたが癌である確率(事後確率)は約33%である。計算の詳細は省くが、これは私が医学生の試験に出すくらいの、基礎レベルの問題である。(後略)

 読者の中には、この指摘は当然のことと思われる方もおられるでしょうが、念のため33%の証明をしておきましょう。まず、事前確率0.5%の意味は、被験者全体と1としたとき、「陽性」と判定されるべき集団が0.005、「陰性」と判定されるべき集団が0.995の構成であることを意味します。

 すると、「検査結果が陽性」(Tested Positive = TP)になるのは、前者の99%(真陽性 Genuine Positive = GP)と、後者の1% (偽陽性 False Positive = FP) ですから、

     TP= GP+FP = 0.005×0.99+0.995×(1-0.99)=0.00495+0.00995=0.0149

 上式からTPのうちGPである確率は、

    GP (%) = GP÷(GP+FP)×100 = 0.00495÷0.0149×100 ≒ 33%

となります。

 上式の政策的含意は、「事前確率がさほど高くない集団を検知する際には、GPよりもFPが入り込む可能性より高いので、注意が必要である」という点に尽きるでしょう。そこで注意には、2つの異なった側面があります。

①    例えば情報セキュリティに100%がないことは関係者の共通認識ですが、上記のような事例にぶつかると、ともすれば直感に反することがあることを自覚して、より慎重な判断が必要であること。
②    正確な判断を期すには、データの収集段階では「なるべく多く」集め、分析段階では「(多数の)偽陽性のものを正しく棄却する」という矛盾したプロセスが必要であること。

 ① はリスク管理において常に注意すべき点(直感との違い)を、② はビッグデータの必要性を教えてくれます。また後者に関連して、新型コロナウィルス蔓延の初期段階において、わが国がPCR検査を政策的に絞り込んだことの是非は、このディレンマを考える上で格好のモデルとなるでしょう。わが国は、とかく「完璧主義」に傾きやすいのですが、どんなに優れた検査法でも「誤差」つまり偽陽性や偽陰性が避けられないことは、常に頭の片隅に置いておかねばなりません。新型コロナ以前から、私たちはこのような「不確実性の世界」に住んでいるのです。

③   情報によって情報を制御する

 情報に関して、もう1つ注意が必要なことは、最初の情報(原情報)から「付随的情報」が数多く生まれることと、そのベクトルに「派生的情報」と「制御用情報」という全く方向性が違うものがあることです。派生的情報としては、著作権法における「二次的著作物」を、制御用情報としてはコンピュータ処理のための付加コード(事前に付与する場合)やログ(事後的に自動創出される場合)をイメージしていただければ良いでしょう。

 ここで前項との関連でまず問題が生ずるのは、原情報そのものが「絶対的に真」であることは保証できないことです。しかし問題はそれにとどまらず、付随的情報が何段階にもわたって生み出されるとすれば、その信頼度が「べき乗」で薄れていくことです。この現象の「派生的情報」における例としては、伝言ゲームを思い出していただくだけで十分かと思います。

 これに対して制御用情報における現象は、それが原情報と1対1で紐づけられていることから、2つの問題が考えられます。まず事前付与の付加コードに関しては特定の個人が推定できるのではないかという個人情報保護法上の問題があり、安全管理措置が必要です。事後創出型のログに関しても同様の問題がありますが、こちらの場合は安全管理措置という受け身の行為に加えて、ログを利用して原情報を制御するという積極的な行為も可能になります。

 具体例としてすぐに思いつくのは、バック・アップです。コンピュータ・システムは時々不具合を起こしますから、早期の原状回復を図るには「どのような操作をした結果ダウンしたのか」を逐一記録しているログに頼ることになります。また、仮に不正行為によって不具合が生じたのであれば、その原因を究明したり、行為者を特定するためにもログが使われます。いずれも場合も、ログという制御用情報によって原情報を復旧したり、証拠として役立てるという操作(制御の一種)をしているのです。

 これは、コンピュータ・システムの進歩とともに登場した「仮想化」の一種と見ることができます。仮想化とは、物理的な存在としてのコンピュータを離れて、ソフトウェアの工夫で「あたかも存在するかのように」コンピュータ機能を拡充することです。その際は、仮想化するのもソフトという「情報」ですが、仮想化されるコンピュータも、その実態面(有体物という属性)を離れて、「情報」という次元で扱われている、と言えるでしょう。

 だんだん説明が複雑になってしまったので、COVID-19に関連付けて説明し直しましょう。第1波の流行が一段落したので、現在の関心はワクチンがいつできるかに移っています。特定の病原体に対する攻撃準備を、感染前に免疫系にさせておくのがワクチンですが、従来は「生ワクチン」と「不活化ワクチン」の2種類しかありませんでした。

 生ワクチンは、弱毒化した病原体を使います。抗体に加えてキラーT細胞も誘導されるので、強い免疫反応が期待できますが、稀にうった人の体内で病原体が増えることがあります。一方、不活化ワクチンは増殖力を無くした病原体を使うため、体内で病原体は増えませんが、キラーT細胞が誘導されないことが多く、免疫反応は比較的弱いとされます。

 この2者に対して、最近開発されたDNAワクチンは、病原体のうちとくに免疫反応を強く起こす「抗原」と同じ配列のDNAを合成したもので、体内では生ワクチンとほぼ同じ反応が起きます。病原体DNAの一部だけを使うため、体内で病原体が増える恐れがなく、しかも理論的には強い免疫反応が起きると期待されています。これを本稿の文脈に直せば、DNAワクチンはワクチン作成方法の仮想化で、病原体そのものを操作するのではなく、その情報を制御する方法を考えている、ということになるでしょう。

 医学的な説明では、以下のようになっています。「病原体のDNAをワクチンとしたもので、注射後、DNAに従いたんぱく質が合成され、そのたんぱく質に対する免疫を獲得することで、疾患に対する免疫を得ます。DNAを投入するだけなので、抗原たんぱく質の生成が不要になります。そのため短期間で製造が可能となるのです。また弱毒化したものではないため、病原性がなく安全性が高い点も利点と言えます。ウイルスは使いませんから、製造工程の感染は起こりませんし、副作用も少ない。期間も非常に短い。」(ネット検索で見つけた表現を合成しています)。

 私が『情報法のリーガル・マインド』で、「情報によって情報を制御する」ことの説明に、かなりの紙幅を割いたのは、このような現象が一般化することを予見したからですが、具体例として取り上げたのは、品質表示情報(と、その偽造)でした。「情報によって情報を制御する」ことが、まさかワクチンにまで及ぶとは、執筆当時は想定していませんでした。

④    最後は決定者が責任を負う

 そして最後は、上記3点の不確実性にも拘わらず、対策を策定する必要が生じたら即応しなければならないし、その責任は最終的には決定者が負わなければならないことです。これは、今回のコロナ騒動で私たちが見聞し、実感したことでしょう。

 失敗例とされる国々(アメリカ・イギリス・イタリア・スペイン・ロシア・ブラジル)、一時的には成功したが現時点では第2波が心配される国々(韓国・シンガポール)、リスク管理の教科書には反するのに感染者も死者も少ない不思議の国(日本)など、世界はお互いを比較し、教訓を得ようとやっきになっています。未だワクチンも特効薬もない状況では、何が正解か分からないまま、責任だけは負わされるとすれば「これ以上の不条理はない」と言いたいところでしょうが、誰も許してくれません。

 考えてみれば近代法は、損害賠償という形での私的な責任を、a) 故意または過失によって、b) 他人の権利か法的利益を侵害し、c) 実際に損害を生じさせ、d) 行為と損害の発生の間に因果関係が認められる場合に限っていますが、「リスク社会」ではこの4要件を満たさない異例・重大な事故が、多数発生しています。また、判例で形成されてきた「予見可能性」「結果回避可能性」という尺度も、今後も有効であるかどうかが問われています。

 私たちは、このような不確実な社会に生きており、従来の発想では責任が蒸発して、誰に責任を負わせたらよいかが不確実な状況を、何とか辻褄を合わせて生き延びてきました。情報という見えないものの比重が増せば増すほど、このような状況は加速化し、拡大していくでしょう。私の拙い本が、状況の理解に若干でも貢献できたのなら、それだけで十分満足ですが、事態は私の想定を超えたスピードで進展を続けるようです。これからは、書き手を変えて、このテーマを追ってくれる若者に期待したいと思います。

林「情報法」(63)

感染症の大流行が時代を画す:After Corona (AC) の世界

 ペストの流行が中世から近代への移行を促進したことや、天然痘がアステカとインカ両帝国の滅亡に深く関係していたことは、史実として認められていると思います。COVID-19も、現代を次世代へと変化させる原動力となるのでしょうか? 既に世間では、after-Coronaとかwith-Coronaという語が飛び交っていますが、これからの世界がパラダイム・シフトを起こすとすればどのような点か、変化の方向性だけは(情報法の将来像を描くためにも)書き留めておきましょう。

・大きな3つの変化が不可避

 この問題については、多くの識者が既に見解を表明しており、一見私が付け加える余地がなさそうですが、実は大きな欠落があるようにも思えます。というのも、COVID-19は次の3つの大変化を伴うはずだと思うからです。① 目的意識を持って実行すべき目標としての「世界人口の抑制」、② まやかしではない真の「働き方改革」、③ “Small is beautiful.” に近い「新生活」(新常態あるいはnew normal)の3つです。

①Social Distanceから世界人口の抑制へ

 感染を減らすには接触機会を減らすのが早道なので、social distanceが重要だと言われます。しかし距離感が重要なのは、(a) ヒトとヒト以外の生物の間、(b) ヒト相互の間、(c) 裕福なヒトとそうでないヒトの間、の3つに分けて考えなければなりません。(b) が一般的なsocial distanceですが、(c) はやや違った趣があります。シンガポールで外国人労働者の宿舎で2次感染が大量発生したことや、ブラジルやインドのスラム街(ファベーラ、ダラビ)で感染が広まったらどうなるかを考えれば、感染症対策と同時に差別を助長しない特段の配慮が必要でしょう。この場合distanceは「必要悪」ではなくdivideに近い「克服すべき課題」です。

 そして、最も軽視されているが最も重要なのは、(a) のヒトとヒト以外の生物の間の距離の取り方、より直截に言えば、「ヒトは他の生物の縄張りを侵すな」ということでしょう。他人事のように思われるかもしれませんが、わが国でもクマやサル、イノシシなどが住宅地に出没している状況は、「食べ物が不作だったから」で片づけることはできず、「ヒトが増えすぎて生物の縄張りを侵したから」ではないかと、疑ってみる価値がありそうです。

 この現象をよりマクロの視点で捉えれば、「宇宙船地球号に乗船できるヒトは、最大何億人か」という問題提起とみなければなりません。世界人口は既に70億人に達し、2050年には90億人を超えると予測されています。「それだけの人口を支える食料やエネルギーがあるのか」と問うヒトはいましたが(有名な「成長の限界説」)、「それだけヒトが増えれば他の生物との間に生存競争が始まる」という懸念を表明するヒトは少なかったと思われます。COVID-19から教訓を得るとすれば、「ヒトは他のヒトと交流しなければ生きられない」と同時に、「ヒトと他の生物との共存には限界がある」という事実ではないでしょうか。

 とすれば、国際社会は人口の抑制に真剣に取り組まねばなりませんが、これには革命的な発想転換が必要かと思います。例えば、産児制限を宗教的に拒否するヒトがいますが、そのような発想には「第2次宗教改革」が要りそうです。また、小さな子供を労働力と捉える見方に対しては、倫理観に訴えるだけではなく、経済的にも自立できるだけのエコ・システムを考えねばなりません。しかも、人口減少は緩やかにしか効きませんから、長期計画として取り組む必要があります。

 今回のパンデミックを「奢りすぎたヒトへの警告」と見る向きがあります。教訓と受け止めて自ら改革するなら良いのですが、「結局は天罰として何千万人もの犠牲者を出さねば収まらない」と諦めるのであれば、危険な発想のように思われます。私もそんなに楽観的ではありませんが、少なくとも「ヒトの意思で人口を抑制する」という目的意識を持って実行することができなければ、私たちは「霊長類のリーダー」を誇れないでしょう。

②真の「働き方」改革:個人と組織の Distance

 Social Distanceの次は、個人と組織の適度の距離感が問題になります。少なくともわが国では、両者の関係が「支配―隷属関係」と言われたり、隷属する側が「社畜」と呼ばれたりしているので、両者間の適切な関係の再構築が不可欠です。現在わが国では「働き方改革」が叫ばれ、今回の騒動を機にテレワークなどが普及しそうですが、企業と個人の間のarm’slength relationship(「つかず離れず」の関係)が保たれなければ、「絵に描いた餅」か「仏作って魂入れず」に終わるような気がします。直近の黒川検事長事件は、検察と権力、検察とメディアの間の距離の取り方を誤った、典型的な事例かと思います。

 また「働き方改革」の一環として、週休3日制などが論じられていますが、そもそも「皆が同じ時間に同じ場所で働く」というのは工業社会の特徴で、情報社会には不適ではないでしょうか。市役所や教会・大学などの立派な建物には時計がついていることが多いのですが、それこそ「時間は誰にも共通」「時間に合わせて行動しましょう」という倫理観を、象徴しているように思われます。

 そして、マックス・ウェーバー流に言えば「プロテスタンティズムの倫理」が資本主義の精神と調和的であったように、「時間に合わせて行動する」ことが、わが国の精神風土と極めて調和的であり、戦後の驚異的経済発展を支えてきたことを忘れてはなりません。しかも、わが国の教育制度が、そうした「時間に合わせて行動する」規律を広め、均質な労働力を供給する意味で、多大な効果を発揮してきたことも。

 とすれば、コロナ以前に議論されていた「働き方改革」は、依然として工業社会の延長線上での「働き方」をモデルにしており、コロナ以後はそれを根本から覆すような「真の」改革が求められている、と思われます。しかもAI(Artificial Intelligence)が予測を上回る速度で発展していることから、「AIとの付き合い方」の面から「ヒトが何日働き、後は機械に任せれば、経済は維持できるのか」といった、先輩世代が経験したことのない課題を解かねばなりません。

 しかし思わぬ展開もありました。例えば前述のテレワークも、「通勤電車の密を避けるため」という受け身の姿勢で始まったものが、案外旨くいっているようです。その過程で、これまでLife-Work Balanceが著しくWorkに偏っていたことが自覚されつつあります。若い世代が、私のように「24時間戦えますか?」という強迫観念に囚われることなく、自律的に労働の内容と時間を選ぶことができれば、コロナ禍を福に転ずることができるかもしれません。

③21世紀の新生活運動としての Small is beautiful.

 そして最後は、生活に関する新常識(あるいは新常態)です。ここでは、「淳風美俗」とは言えない「弊風醜俗」を捨てることから始めましょう。1955年に当時の鳩山首相が提唱した「新生活運動」は、高度成長期に勢いを失いましたが、現代版としての復活です。

 例えば「3密(密閉・密集・密接)を避ける」というのは、感染症対策から生まれた教訓ですが、そのままAfter Coronaの生活指針にもなり得ます。イタリアほどではないにしても、わが国も人的交流を大事にし、同調圧力が強いからです。この連載の第46回で紹介した、わが恩人の1人である庄司薫さんが、薫シリーズの中で繰り返し「どっと繰り出す」日本人の習性を描いています。この現象は、自粛が要請されていた時期に海辺や観光地に出かけた外出好きによって、繰り返されています。

 同じように、接待・贈答文化は美風とも言えますが、30年余にわたるサラリーマン生活では、そのマイナス面も体験済みです。百貨店はここぞとばかりに「おすすめ品」を勧めるせいか、受け取る側には同じものが「どっと」届きます。日持ちしないものも多く、どなたかに差し上げてもご迷惑かと悩んだものです。その後、不用品を買い取る者が現れ、遂にはカタログ方式も登場しましたが、豊かになった現代では「頂いて嬉しかった物」は絶滅危惧種ではないでしょうか。接待はやめて自分で払い、物は自分で買いましょう。

 そして、コロナ対策の最大の成果は、ステイ・ホームです。自粛期間中に、多くの人が一時的にせよ、カイシャ人間から家庭人になりました。「24時間戦う」ことをやめて自分の生活ペースを取り戻し、家族を大事にしました。私事ですが、長男が育児休職を取り、当時は珍しかったのでテレビのインタビューを受けた際「どうしてイクメンに?」と問われ、彼が「自分が子供の時、父親が家にいなかったから」と答えたのを見て、私も宗旨替えしました。後悔先に立たず、ですが。

 しかし、ステイ・ホームの要請の中で「自粛疲れ」が問題になった原因の1つが、わが国の住環境にあることは見過ごせません。かつて「ウサギ小屋」と揶揄された狭小住宅からの脱却がなければ、ステイ・ホームは軟禁に近くなり、疲れるのは当たり前です。3年余米国暮らしをした私からすれば、バスルームが2室以上あれば、仮にパートナーが新型コロナに罹ったとしても、感染を防ぐことはさほど難しくないと思われます。すぐにそこまで実現することは困難ですが、人口減少を利用して、かつての団地の2戸を1戸にするなど、改善の余地はあるでしょう。

 こうした変化は、自然に継続することが期待されますが、運動論的な展開も必要かもしれません。その際、画一的な運動ではなく、多様な展開を許容することが不可欠です。それには「新生活運動」が古すぎるとすれば、“Small is beautiful.” を思い出すのは、いかがでしょう。イギリスの経済学者シューマッハーによって1973年に出版された書籍は、石油危機を予言した書としてベスト・セラーになりました。

 しかし、実は有名になったタイトルの標語は本文中に一度しか登場せず、強調されていたのはappropriate technologyの方でした。つまり、先進国はとかく最先端技術途上国に移転したがるが、それが相手国にとって最適解とは限らず、それぞれの国や地域の事情に応じた「適正技術」があるはずだ、というのです。これは途上国に当てはまるだけでなく、「リニアは本当に必要か」という問いとして、私たちにも関わってきます。

・若い世代の「適正」な選択に期待 

 このように、COVID-19を機に、既に世界の各所で多様な変化が生じています。若い世代が、多くの選択肢の中から「適正」なものを選択することに、期待したいと思います。

 

林「情報法」(62)

未だに「空気」を読んで「竹槍」で戦うのか?

 COVID-19 の問題は、第57回で速報的に扱いましたが、部分的に修正する必要はあるものの(例として「若い世代は罹患しない」とは言い切れない、「通常の死亡率は2~3%だが感染爆発が起きた時の死亡率はSARSの10%に近い」等)、大筋は間違っていなかったようです。そこで、その後緊急事態宣言を経て、その解除が議論されている現状に照らして、忘れてはならない教訓を再び備忘録として記しておきましょう。

・PCR検査が受けられない三流国

 OECDが去る3月28日(現地時間)に公開した、国別の「新型コロナ検査」関連報告書によると、加盟36か国の平均的なPCR検査件数は、「人口1000人当たり22.9人」でしたが、日本は「1.8人」で36か国中の35位となっています。また、OECDの2019年の報告書によると、日本の人口1000人当たりの医師数は2.4人で、OECD平均の3.5人を下回り32位になっています(https://www.jmari.med.or.jp/download/RE077.pdf)。

 PCR検査の少なさは、COVID-19の発生当初から懸念が表明されていました。しかし、a) SARS/MERSの被害が少なかったことに安住して十分な体制を整備しなかった。それどころか、b) 保健所の数は1991年~92年の852か所がピークで、現在は469か所と55%減になりコロナ・ウィルスと戦える布陣になっていなかった、という事情に加え、c)  4月に迫っていた習近平中国国家主席の来日と、7月に予定していた東京五輪という政治ファクターに配慮しすぎて初動対策が遅れた、ことが災いしたと思われます。

 それを知っていた政府と専門家会議は、検査を受ける人を重症患者(と予備軍)に絞らないと、検査と治療の両面で破綻することが心配されたため、「37.5度以上が4日以上続く」など「入り口を絞る」作戦に出たものと思われます。厚労相は「目安のはずが基準になってしまった」と弁解しましたが、国民の多くは「門前払い」と受け取ったでしょう。

 この作戦は、クラスターの発見と追跡の面ではある程度成功しましたが、その間検査を受けられないまま死亡に至るケースも散見されて非難を浴びました。そして何よりも、クラスターを追いかけるだけでは対応できない市中感染が広まったため、他の諸国と同様「幅広いPCR検査(代替方法を含む)」が必要になりました。それは、ⅰ) 医療従事者自身を守るための隔離基準であり、ⅱ) (他の症例での)入院患者が隔離を要するか否かの判断基準でもあり、ⅲ) 市中感染者全体を推計する根拠にもなるからです。

 最後の点は特に重要です。外出や営業の自粛を要請するには、そして更にその解除を決定するには、十分な証拠(evidence)がなければなりません。その指標として「国民の何%が感染していると見たら良いのか」が決め手になります。検査を受けた人のうち陽性者の割合(陽性率)が7%未満なら、外出や営業の自粛を続ければ一時的にせよ「封じ込める」ことができ、逆に感染が広まって国民の60%~70%が感染すれば「集団免疫」ができて、それ以上の感染は他の病気に対すると同様の方法で対応可能と言われています。問題は、この中間にある場合に、どのような対策を取るかです。

 一般論としては、このような推計が可能になるためには、十分な量の検体を採取し、迅速に判定できる体制を作らねばなりません。この点で、残念ながらわが国は、世界の「三流国」と呼ばれても仕方のない状況です。ご自身が医師でもある山梨大学の島田真路学長は、「日本の恥」とまで言っています。

・「目詰まり」はどこにあるのか

 専門家会議は、当初から問題の所在を知っていたと思われますが、5月4日になったやっと尾身茂副座長が、PCR検査が拡充されない理由として、① 保健所の業務過多、② 入院先を確保する仕組みの機能不全、③ 地方衛生研究所の人員削減等による検体検査者不足(臨床検査技師は6.7万人程度)、④ マスク・防護服など資材の不足、⑤医療機関と都道府県の契約の必要性、⑥民間検査会社への輸送機材不足を挙げましたが、多くの国民には「言い訳」にしか聞こえなかったでしょう。一国の首相が、しかも緊急事態宣言下で「1日2万件まで拡充する」と約束したにもかかわらず、その半分にも達せず「目詰まりがある」と認めざるを得ない理由が、これだけとは思えないからです。

 おそらく、⑦ 厚生労働省は「重篤者と死者を減らすことに注力し、それ以上の面倒なことはしたくない」と思っており、⑧ 保健所の医療分野での地位は高くなく、厚生労働省の方ばかり見て自治体を向いていない、⑨ (軍医経験者が少なく)検査に携わる医者や看護師も防護服が無い中では尻込みする、⑩ 大学病院などは「文部科学省から言われるまでは沈黙」を決め込んでいる、⑪ 国立感染症研究所・国立国際医療研究センター・日本医療研究開発機構・国立保健医療科学院という主要な4機関の情報共有と分担の不備、更にはCDC(全米疾病対策センター)のような臨戦体制の欠落、⑫ 安倍政権になってから強められた官邸主導も、医学(公衆衛生)の知識が不可欠の事態には対応できない、⑬ こられの欠陥を打破する政治力は誰も持っていない、といった諸事情が加味されていたと思われます。

・エビデンスなしの議論は「空気の支配」を許す

「日本政府の対策は太平洋戦争の敗因と共通するものがある」というのが、多くの人の共通認識になりつつあります。つまり、頭でっかちの官僚(かつては作戦参謀)がエビデンスもないまま机上で練った作戦で、現場は翻弄されて日々の業務をこなすだけで精一杯。皆が理論ではなく、恐怖心と同調圧力を伴う「空気」に支配され、PCR検査なしでひたすら医療従事者の献身に期待するのは「竹槍で戦うのと同じ」というのです。

 純理論で言えばウィルス対策には、ア)流行に任せ集団免疫が60%を超えるのを待つ、イ)ロックダウンにより都市を封鎖し短期間で(一時的にせよ)感染を抑える、という両極端の方法があり、第三の道としては後者の変形である、ウ)国民に自粛を求めロックダウンと同じ効果を狙う、という考えもあり得るところです。今回の日本の作戦が、ウ)を狙ったものなら意図は明確だし、そのように訴えるべきでした。なぜなら、そのような作戦を採る国はなく、わが国独自のものだからです。

 ここで大切なことは、新型コロナ対策は誰も経験したことのない事態ですから、誰もが間違う危険がある(現に、イ)を採ったスウェーデンは大量の死者を生み、当初それを目指したイギリスは早々に路線変更しました)ので、変更は許されるが、どの方針であるかは明確にする責任があることです。ところが、総理の記者会見では「生の声」を聞くことは少なく、プロンプターに映る「作文」を聞かされている感じが抜けません。更に、その根拠が数値化されていない(「他人との接触を8割減らす」は具体的指標ですが算出根拠は不明です)ので、一体自分たちが従うべき方針が、いつ達成されるのかも分かりません。これでは、仮にウ)を採っているにしても、真意が伝わることはないでしょう。

 『朝日新聞』2020年5月8日オンライン版に、生物学、生態学、地理学などの知見を駆使して人類の歴史を解き明かした著書『銃・病原菌・鉄』などで知られるジャレド・ダイアモンド氏のインタビュー記事が載っています。彼は新型コロナ・ウィルスの教訓として、第一は、国家が危機的な状況にあるという事実、それ自体を認めること。第二は、自ら行動する責任を受け入れること。第三は、他国の成功例を見習うこと。第四は他国からの援助を受けること。そして最も重要な第五のポイントは、このパンデミックを将来の危機に対処するためのモデルとすること、だと指摘しています。

 なお、三と四に関して、「私から安倍政権への助言は『韓国が嫌ならベトナムでもオーストラリアでも他の国でもいい。対策に成功している国を見習って、早期に完全なロックダウンを実行すべきだ』と言っており、彼が単なる理想主義者でない点が見て取れます。

・緊急事態に関する誤解

 そして、この渦中で気が付いたことは、安倍総理を含めてほとんどの当事者が、「緊急事態」という言葉を誤解していることでした。典型的な例は「疾病対策と経済の両立」という問題の立て方で、これはウィルスの流行がなだらかなとき、つまり「平時」にだけ成り立つ考えです。「緊急事態」とは、その両立が不可能で、「まずは疾病対策を最優先せざるを得ない」状態のことですから、「両立」を考えること自体が論理矛盾なのですが、このことが分かっている人はいないかのようでした。

 私も、この分野の専門家ではありませんが、幸か不幸か東日本大震災の直後に緊急事態を泥縄で勉強して、同僚の湯淺墾道教授と共著で「『災害緊急事態』の概念とスムーズな適用」という論文を書いたことがある(http://www.iisec.ac.jp/proc/vol0003.html)ので、誤解だけは解いておきたいと思います。この論文は、地震という自然災害の緊急事態を論じたものですが、「緊急事態」には「平常時とは全く違った対応が必要」という共通項があります。

「災害緊急事態」は、非常災害が発生し異常かつ激甚なものである場合において、災害応急対策を推進し、国の経済の秩序を維持し、その他当該災害に係る重要な課題に対応するため特別の必要があると認めるときに、内閣総理大臣が閣議にかけて、関係地域の全部又は一部について災害緊急事態の布告を発することができる(第105条第1項) ものです。

 災害緊急事態の布告があった場合の効果の主なものは以下の通りで、新型コロナ対策と共通点があることがお分かりでしょう。

・緊急災害対策本部 (第28条の2)の設置義務 (第107条)
・対処基本方針の制定 (第108条)
・当該災害に関する情報の公表義務 (第108条の2)
・「重要物資をみだりに購入しない」こと求める権限と国民の努力義務 (第108条の3)
・避難所等の特例 (第86条の2)、臨時の医療施設の特例 (第86条の3)、埋葬及び火葬の特例 (第86条の4)、廃棄物処理の特例 (第86条の5、第108条の4)
・行政上の権利利益に係る満了日の延長 (特定非常災害特別措置法3条)、行政・刑事上の義務の履行期限の延期 (特定非常災害法4条)、債務超過を理由とする法人の破産手続開始の決定の延期 (特定非常災害法5条)、相続承認・放棄の期限の延期 (特定非常災害法6条)の適用

 加えて、国会が閉会中又は衆議院が解散中であり、かつ、臨時会の召集を決定し、又は参議院の緊急集会を求めてその措置を待つ暇がないときは、内閣は、以下の事項について必要な措置をとるため、政令を制定することができます (第109条1項) 。

・供給が特に不足している生活必需物資の配給・譲渡・引渡しの制限・禁止
・災害応急対策・災害復旧又は国民生活の安定のため必要な物の価格等の最高額の決定
・金銭債務の支払延期及び権利の保存期間の延長

 このように緊急災害事態は、「緊急事態」の典型となるものですが、上記のように(国会の閉会中に限るとはいえ)法律の代わりに政令で定める権限を付与するなど「伝家の宝刀」としての劇薬性を持っているため、それを布告するのは慎重にならざるを得ません。事実、あの東日本大震災に際しても、「東北地方太平洋沖地震緊急災害対策本部」は設置されましたが、災害緊急事態の布告は発出しませんでした。ただし、より重大な福島第一原子力発電所事故により、「原子力非常事態」が宣言され「災害対策本部」が設置されましたが、こちらも史上初のことでした。

 このように緊急事態は、「法治国家であることを放棄してまで目前の対応を迫られる事態」なのですから、命がけの対応が求められます。現在「新型コロナ特措法ではロックダウンはできない」「私権を制限するには憲法に緊急事態条項を設けるしかない」といった他人事のような発言が繰り返されていますが、その前に「責任をもって緊急事態を抑え、一時も早く緊急から逃れる」覚悟と責任感があるのかどうか、疑わしくなってしまいます。

林「情報法」(61)

「加速化する時間という厄介」の緩和策

 前回に続いて「<よろずやっかい>解決に貢献できるか」を議論します。今回は、⑧ の「時間の加速化という厄介」が対象です。矢野さんがこのテーマを選ぶ際には、私も若干後押しした経緯があるので、このテーマを中心に、第6回にある「等身大精神の危機」という要素を加味して論じてみましょう。

・厄介の正体

 まず矢野さん自身が、この厄介をどう捉えているかといえば、以下の諸断章から全体像を浮かび上がらせることができます。

私は常々、サイバー空間の登場は人類史を2分できるほどの出来事である(BC=Before CyberspaceとAC=After Cyberspace)と述べてきたが、その最大の特徴は飛躍的スピードの増大にこそ求められるかもしれない。
ネットスケープタイム。(中略)彼(創業者のジム・クラーク)によれば、創業から株主公開までの期間は以下のように短縮した。
 ヒューレットパッカード 創業1939 株式公開1957(18年後)
 マイクロソフト 創業1975 株式公開1986(11年後)
 アップル 創業1976 株式公開(4年半後)
 ネットスケープ 創業1994 株式公開1995(1年4ヶ月後)。
コンピュータに限らず、文明の発展にともなって私たちの時間が加速しているのは間違いない。足で歩く→自転車に乗る→鉄道を利用する→車→飛行機と、交通手段の発達はまさにスピードアップの歴史であり、電信、電話などの通信手段もまた時間の克服に大きく貢献した。

 ここで厄介が生ずるのは、このような加速化についていけない人と、楽々キャッチ・アップできる人の間に「差別」が生ずるだけでなく、時間間隔の相違から思わぬミスが生じたり、行き違いが生じかねないことでしょう。例えば、私が慶應の教師だったころ、ゼミを自宅で開催したことがあります。ゼミ生に地図のコピーを渡して到着を待ったのですが、なかなか現れません。後刻判明した事実は「学生は携帯のGPSに頼りすぎて、(紙に書かれた、動かない)地図が読めなくなっている」ということでした。

・時間は不可逆:経路依存性

 この問題に関して、経済学者の間で共通認識となりつつある概念を、いくつか紹介しましょう。最初に挙げたいのは、経済学が「白紙に絵を描く」ように、時空を超越して「いつ、いかなる状態でも適用可能」な理論を提供できるという神話が、経済学の内部から見直されていることです。発端は、キーボードの標準配列であるQWERTYの考察から始まりました。パソコンを使い慣れている人でも、「QWERTY配列が効率的で使いやすい」と感ずる人は少数派でしょう。なぜ経済学が忌み嫌う「非効率」な配列が、生き延びているのでしょうか? 

 経済史家のポール・デイヴィットは、当初は数ある配列が競争をしていた状態から、タイプ・バーがジャムを起こしにくい配列であることが評価された、タイピスト学校が採用したためQWERTYに慣れたタイピストが多くなった、タイピング・コンテストの優勝者がこの配列を使っていた、といった「歴史的な小さな事件」(historical small events)の積み重ねが、配列の「固定化」(lock-in)をもたらし、その後の経路を決定した(path-dependency)と主張しました。

 これは考えてみれば当たり前の「時間は不可逆である」ことと同じで、世の中に「従来のやり方」は一顧だにせず、「これが正しい方法だ」といって一気に転換可能な方法が、そう簡単にみつかるはずはありません。経済学はもっと早く「経路依存に配慮しない理論は現実性がない」ということに気づくべきでした。連載58回以降引用しているポズナーとワイルが、一見突拍子もないradical な提言をしながら、実は現状から改革に進む過渡期のあり方に、かなりの検討を割いていることが、その証左になるかと思います。

・初期値過敏性と経路依存

 しかし経路依存性の含意は、意外なところに現れました。経路依存性と言えば従来は「過去のトレンドから大きく外れることはない」「線形的な方法で将来予測ができる」ことと符合していました。ところが「複雑系」や「カオス」の研究が進むにつれて、初期値の設定が変わった(あるいは間違えた)だけで、結果が大きく違ってくることが分かってきました。その先例となったのが、気象学者が発見した「バタフライ効果」です。この点を、Wikipediaは以下のように説明しています。

1961年にエドワード・ローレンツが計算機上で数値予報プログラムを実行していた時のこと、最初ローレンツはある入力値を「0.506127」とした上で天気予測プログラムを実行し、予想される天気のパターンを得た。このときのコンピュータのアウトプットは、スペースの節約から、入力値が四捨五入された「0.506」までしか打ち出されないものであった。ローレンツは、もう一度同じ計算をさせるため、特に気に留めずに、打ち出された方の値「0.506」を入力して計算を開始させた。計算が終えるまでコーヒーを飲みに行き、しばらく後に戻って2度目の計算結果を見てみると、予測される天気のパターンは一回目の計算とまったく異なったものになっていた。ローレンツはコンピュータが壊れたと最初は考えたが、データを調べていく内に入力値のわずかな差によるものだと気づいた。この結果から、もし本物の大気もこの計算モデルのような振る舞いを起こすものならば、大気の状態値の観測誤差などが存在する限り気象の長期予想は不可能になることを思い付き、初期値鋭敏性と長期予測不能性のアイデアを持つようになる。

 この説明は、理知的で温和な学者が書いたものと思われますが、同じ現象を見て「ここに商機あり」と思うビジネスマンがいたとしても、不思議はないでしょう。彼らの解釈では「初期値に過敏で、経路依存性から脱却できないのなら、先手必勝のビジネス・モデルができる」という発見になったと思われます。

 中でも「バグ」による瑕疵担保責任を免除された製品、すなわちソフトウェアを商売にする人々は、「未完成製品をβ版として市場に出して、ユーザーにデバッグさせよう。その方が早く顧客をロック・インできる」と理解しました。デバッグさせられるユーザーにしてみれば、宮沢賢治の「注文の多い料理店」(料理を楽しみたかった客が、逆に調理されてしまう)状態で癪ですが、このビジネス・モデルは、どの法律にも違反していないのです。

・有限資源としての予算と時間

 このようにして、インターネットの世界は「何でもあり」に近くなりました。私が経済学から法学に転向した理由は、前回述べたように経済学の無倫理性についていけなかったのが主原因ですが、もう一つ別の理由は、インターネットの秩序の最適解を求めるには「自由度のある変数が多すぎてインターネット方程式が解けない」「仮に定数があるとすれば法律(あるいは制度)しかない」と考えざるを得なかったことです。

 現在定数になっているのは、DNS(Domain Name Server)の数や設置場所、IPアドレスの割り当て方式、技術基準の決め方に関するRFC(Request For Comment)方式など、いわゆるインターネット・ガバナンスに関する基本的考え方やそれを実装した制度だからです。しかし、これらの仕組みはインターネットの母国である米国が決めたものがほとんどで、中国やロシアなどから鋭い批判を浴びており、いつまで維持できるか分かりません。

 もちろん有限資源の制約が、インターネットの秩序に枠をはめる(つまり定数になる)部分はあります。しかし通常は制約になり得る予算(つまりカネ)は、「異次元の金融緩和」という怪しげな理論で使い物にならなくなってしまいました。今後ブロック・チェーン技術を利用した新しい通貨が多数出回るようになれば、この傾向はますます進行するでしょう。

・時間の身体性:等身大精神の危機

 そこで残された唯一の有限資源が、「時間」ということになります。時間は誰にでも平等に一方向に進むし、貯めておくことができない、つまり時間が経過すればチャンスもリスクも消滅することが多いからです。しかし矢野さんは、先回りして「等身大精神の危機」という言い方で、「時間の身体性」についても見通しています。以下が、それに触れた部分です。

一部のSFファンの間では有名な話のようだが、『銀河ヒッチハイク・ガイド』などの作者が提唱した「ダグラス・アダムスの法則」というのがある。
人は、自分が生まれた時に既に存在したテクノロジーを、自然な世界の一部と感じる。15歳から35歳の間に発明されたテクノロジーは、新しくエキサイティングなものと感じられる。35歳以降になって発明されたテクノロジーは、自然に反するものと感じられる。
<よろずやっかい>➆の最後にふれたように、技術がもたらした問題の多くは技術によって解決できるはずである。サイバー空間と現実世界の接点における快適な時間の確保ということに関しても、秀逸な<よろずやっかい解決アイデア>が求められるとも言えよう。ノーベル賞級か、あるいはイグノーベル賞級の。

 しかし私には、最後の部分はかなり楽観的に過ぎるのではないか、と思われます。先に挙げた「動かない地図が読めない」と類似の現象が、いたるところで起こっているからです。「24時間働く」ことを美徳としてきた「企業戦士」の私からすれば、「会議の5分前に着席している」のは「同僚の時間を奪わない」最低限の義務と思っているのですが、現代の主流のルールは、トヨタ式のJIT(Just In Time)のように思われます。当方からすれば、「めったに合わない人と、会議前に雑談の一つも交わしたい」のですが、効率性基準では「ムダ」となるのでしょうか?

 このような感覚の差は、世代間では調和不能なほど拡大しています。私は伝統的なeメールが快適ですが、子供はショート・メッセージでないと「まどろっこしい」ようです。孫は今のところショート・メッセージ派ですが、次の技術が出てくれば、親世代よりも早く移行するでしょう。この3世代が、それぞれ別のところから1つのレストランに集まる過程を見ていると、その時間感覚の差に驚きます。そして、こうした変化がほんの四半世紀ほどで起こった(Windows 95から数えています)ことに、再び驚きます。

 この「新しい分断」に対する処方箋は未だ持ち合わせていませんが、とりあえずの対策は「適宜ブレイクして、その間に時差調整する」しかないように思います。わが国は年次有給休暇さえ放棄する(あるいは買い取ってもらう)傾向がありますが、「会議は長くても1時間で終わらせる」「2時間になるようなら途中で休憩を入れる」程度のことは、今回のコロナの経験を生かす意味で、実践してみてはどうでしょう。

林「情報法」(60)

<よろずやっかい>解決に貢献できるか?

 このブログが間借りしている「サイバー燈台」主宰者の矢野さんは、ご自身のブログ「新・サイバー閑話」の中で、「インターネットよろずやっかい」を連載しています。間借り人として大家さんに若干の貢献がしたいので、前2回で紹介したポズナーなどの提言が「厄介」の解消に幾分でも役立つのか、勝手に想像してみました。

・テーマの選定

 矢野さんがこれまでの9回にわたる連載で挙げた<やっかい>は、具体的には次のようなものでした(テーマの表記を私流に変えた部分があります)。第1回は「2015年ごろ以降はインターネットの抱える潜在的問題点が顕在化しつつある時代と言える」といった全体の問題視角を述べる回だったので、個別の事例としては以下の8点が指摘されたことになります。

  2)「1人1票」の厄介
  3)情報発信が金になる厄介
  4)「人間フィルタリング」が効かない厄介
  5)「良識派」がネットから撤退する厄介
  6)既存秩序の崩壊とアイデンティティ喪失の厄介
  7)ネットの行動様式が現実世界に逆流する厄介
  8)日本社会に特有の「タテ社会」と「世間」が弱体化する厄介
  9)加速化する時間という厄介

 このうち、ポズナー流の Radical Markets が寄与しそうなのは、さし向き3)と9)かと思いますので、今回と次回でその2つの話題を取り上げましょう。

・情報発信が金になる厄介

 まず3)の情報発信が金になる厄介は、以下のような点が<やっかい>の根源だと思われているようです。

インターネットの登場以前(Before Cyber = BC)は、言論を広く伝播するにはそれなりの投資が必要だったため発信者の数は限られ、それで生計を維持している人は「作家」「ジャーナリスト」などと呼ばれる、その道のプロフェッショナルでした(「先生」という敬称あるいは蔑称もありました)。ところが、インターネットという安価で操作が簡単な言論発信装置が登場したことで、「誰でも表現者」になれる時代が到来し、プロとアマの区別が薄れてしまいました(矢野さん流のインターネットの3大特徴のうち、「インターネットには境目がない」を反映するものです)。

 加えて、両者を仲介するプラットフォーマーと呼ばれる事業者が、「言論と広告を組み合わせる」というビジネス・モデルを発明したため、従来なら「文士は食えない」と思われていた職業でも、十分「食っていける」可能性が生まれました。ケータイ小説・ユーチューバー・ピコ太郎などという象徴的な例を経て、アルファ・ブロガーやフォロワー100万人などというヒーローが現れ、子供が「将来なりたい職業」に入るケースもあります。

 しかし、長くジャーナリズムの世界に身を置いてきた矢野さんからすれば、以下のように目を覆いたくなる事例も散見(あるいは日常化?)されるようになりました。

・広告のために事実をあっさり曲げる:どうしても表現は過剰になり、極端な場合、嘘でもいい。フェイクニュースが頻発する原因はこういう事情にもよる。
・キュレーションサイト(まとめサイト):2016年にDeNAが閉鎖した10サイトの実態を見ると、インターネット上で書くことがいかに事実、あるいは真実からかけ離れた行為だったかがよくわかる。 

 ここでは、かつてメディアというものが持っていた「正しい事実を伝える」といった姿勢そのものが消えているだけでなく、コミュニケーション(すなわち人間同士の交流の在り方)まで歪めているのではないか、と矢野さんは心配しています。

ケータイやスマートフォンの書き込みは、書き言葉ではなく話し言葉で、文章は短く、断片的、断定的になりがちである。その極限が絵文字で、隠語めいたものもある。書くという行為の内実がずいぶん変わってきたわけで、こういうやりかたでコミュニケーションしていれば、思考方法もまた変わってくるだろう。そこに安易に金が稼げるという事情が覆いかぶさり、表現をめぐる状況自体が大きく変わってきた。

・「情報発信が金にならない厄介」もあったのではないか?

 矢野さんの指摘は核心を突いていますし、ジャーナリストの衰退は放置できない、という心情も良く分かります。しかし経済学の視点から見ると、「情報発信が金になる厄介」以前には、「情報発信が金にならない厄介」があったのではないか、という疑問も生じます。具体的には、上述した「文士は食えない(武士は食わねど高楊枝)」現象です。

 これは「産業化」一般に言えることで、経済の世界(特に資本主義経済)では、「その仕事で生計が維持できるかどうか」は、決定的に重要な意味を持っています。どんなに社会的に大切な機能だと主張しても、一人前と見られるには「それで食っていけるか」ということにならざるを得ないからです。「衣食足りて礼節を知る」のが順序ですから、「食っていけない」人に道を説いても、残念ながら無意味です。

 逆に、どんなに倫理的に非難に値する仕事であっても、それで悠々食っていけるものは、法律で禁止しても生き延びます。世界最古の職業とされる売春が無くならないのは、その故でしょう。かつて、レーガンとサッチャーが主導した市場主義の流れの中では、「個人」が「市場」で独り立ちすることを強いられ、「社会」という緩衝材はないものとされました(Covid-19から奇跡の復活を果たしたジョンソン首相が、「やはり社会はあるのだ」と発言して話題になっているようです。宗旨替えでしょうか?)。

 「だから経済学は嫌いなんだ」と言って、ここで立ち止まらないでください。実は、私が経済学から法学に回帰したのも、経済学者の中には倫理観ゼロや、あっても極端な功利主義を信ずる学者がいて、これ以上付き合っていられないと思ったからなのです(この嫌悪感は、トランプ大統領に対しても持ち続けています)。  

 それでも私は、経済学は「マネーという単位で見ればどうなるか」という視点から物事の本質を教えてくれる、便利な手段だと思っています。つまり「バカとハサミは使いよう」で、経済学の有用性と限界を理解した上で「手段として」使うのです。そのためにも、経済学一本やりではなく、「法と経済学」という形で批判的に使うのが、バランスを取る上で有効だというのが、私の信条です。

 さて、その上で矢野さんの指摘を私流にパラフレイズすれば、産業化以前からあった言論ビジネスを産業化して、多くの人が生計を維持できるようにした点では、インターネットは過去の厄介を解消しました。しかし、それがあまりに安易に使えるようになった結果、新たな厄介が生じたので、これを軽減あるいは緩和するにはどうしたら良いか、というのが「法と経済学者」としての私に期待される任務である、ということになるでしょう。

・「独り勝ち」の原因を経済学はどう捉えるか?

 そこで現実論として、矢野さんの指摘のような弊害を避けるにはどうしたら良いかを考えるには、インターネットが可能にしたビジネスが持つ、メリットとデメリットを見極めるのが早道です。

 メリットは言うまでもなく、ビジネスとしては成り立ちにくい仕事を手助けして、産業化したことです。私はかつてメディアの研究者でしたので、メディアが契約料でどれだけ稼ぎ、広告料にどれだけ依存しているかに関心を持っていました。当時は、いわゆるニューメディアの勃興期で、新しいビジネス・モデルの模索が続いていたことを懐かしく思い出します。

 ところが、ここで「ネットワーク効果」という新しい現象が生まれました。これは「どのシステムに入るか」という意思決定が購買者の選好だけでは決まらず、「どのシステムに入っている人が多いか」という外部の事情に依存するということです。1990年代半ば以降は「なぜWindowsを買うのか?」と問われれば、「性能が良いから」ではなく「誰もが使っていて便利だから」という回答をする人が圧倒的になりました。

 つまりWindowsというOSが優勢になると、それに対応したアプリが多数かつ早期に開発され、この良循環が更にWindowsに有利に働き、遂には「独り勝ち」(winner-take-all)になったのです。これはOSの市場とアプリの市場が相互作用した結果ですので、従来の独禁法では対応できません。独禁法は単一市場を前提にしており、まず「市場を画定する」作業をし、その市場の中の支配力で「独占」かどうかを判断するのに対して、ここで生じているのは2つの市場にまたがる相互作用が独占の源泉だからです。

 「ネットワーク効果」がより鮮明に出ているのが、情報サービスと広告の組合せです。この点を独禁政策が専門の小田切宏之さんの図(「プラットフォーム市場の集中と競争:2つの螺旋効果と競争政策の役割」『情報通信学会誌』Vol.37、No. 4)を借りて、私なりに脚色して説明すれば、以下の3ステップになります。

 まず第1ステップの「(直接)ネットワーク効果」(図の左側)は、単一の市場で「ユーザ―数が多い」ことが、そのまま「ユーザーの効用が大きい」ことを言います。極端な例は、20世紀初頭の米国の電話ビジネスで、2つのシステム間の相互接続交渉が挫折したので、「どちらが優勢か」をめぐって、し烈な顧客獲得競争が行なわれました。

 これが上述のWindowsのような例では、「ハードの市場」と「ソフトの市場」が相互に影響し合うように発展し(図の右側)。ここで第2ステップの「間接ネットワーク効果」が生じました。図の「市場S」は、例えばオンライン・ショッピング・モールの出店者の市場、「市場C」は、その顧客の市場と考えてみましょう。

  Sの出店者が多いことは、同じ市場の同業者に(プラスの)影響はしませんが、モールで買い物をする市場Cでは、顧客の効用を増大させます。ここでプラットフォームがSとCをつなぐと、Cの市場でユーザー数が多いことは、他の買い物客に影響しませんが、Sの出店者の効用を増大させます。つまりここでは、ネットワーク効果が2つの市場をまたいで出現しているのです。

 ここで終わっていれば、さほどの議論にならなかったかもしれませんが、情報という商品は伝統的な有体物とは違っていました。従来はSとCの市場は独立したものと捉えられていましたが、プラットフォーマーというビジネス形態が生まれ、この仲介者が両市場を統合的に支配するような変化が生じたのです。経済学はこれを「両面市場」(two-sided market)として議論していますが、世間的には「プラットフォーマー独占」の問題と呼ぶのが一般的かと思います。

 彼らの独占力の源泉は、2つあります。1つは「情報」という価格をつけにくい財貨に、1つ1つ価格をつけるという難題を回避して、「広告収入」で賄うことで無料にするか、せいぜい「定額制」で販売することを可能にしたビジネス・モデルの成功です。もう1つは、従来「広告効果は測定が難しい」ことを隠れ蓑にしてきたマスメディア等と違って、ビッグ・データを活用して効果を「見える化」したことで広告主の信頼を得たことです。

 しかし、このような大成功には、光と影があります。前者の影は矢野さんの指摘にあるように、「言論が広告に服従する」現象を生みやすいことです。後者の影は「データが価値を生む」ことが明らかになったにもかかわらず、その対価が支払われていないことです。ポズナー達が後者について、厳しい指摘をしていることは前回指摘したとおりですが、いずれにせよプラットフォーマーが「両面市場」の支配力を強めていることは疑いなく、EUを始め各国はその対応を余儀なくされています。

・「見えないもの」を中心にシステムを考え直す

 しかし私は、彼らの指摘に対して「(他の)3つの提言では、冷徹な分析を披露したポズナーとワイルも、このテーマには有効な提言が難しかったようです」といった厳し目の評価をせざるを得ませんでした。それは「情報の経済学」が、これまでの経済学を延長するだけでは解けない面を有していることを表しています。

 経済システムが変わった後に、それを追いかける形でしか制度を設計することが難しい法学においては、その困難は想像を超えるものがありそうです。しかし私たちは、否応なくその世界に足を踏み入れているのです。やや誇張であることを承知で敢えて言えば、ペストという感染症が中世から近代への移行を促進したように、Covid-19という感染症が近代から脱近代への移行を促しているようにも思えます。

林「情報法」(59)

オークションは世界を変えるか?

 前回に続いて、ポズナーとワイルの論議を紹介します。共著者は、オークションについて一般人が「最高価格を付けた人が、その入札価格で財貨を手に入れることができる」という誤った理解をしていると指摘します。正しくは「私的財の標準的なオークションでは、私が落札すると、この『外部性』によって、別の入札者が財を手に入れられないため、落札した最高額入札者は、落札できなかった第2位の入札者の入札額を支払わなくてはいけない」(邦訳書、p. 59)。こう考えると、「この原理は、私的財の経済的市場だけでなく、公共財を創出する集合的決定を組織する方法も示唆している」というのです(邦訳書 p.59)。果たして本当にそうか、以下の事例を見ていきましょう。

・2次の投票(Quadratic Voting)というRadical Democracy

  資本主義国で生活していると、経済における市場原理と政治における民主主義は、一体不離のものと考えがちですが、「資本主義でも民主主義でもない市場主義」を目指す国が出てきました。また、資本主義がポピュリズムに陥りがちなことは、多くの論者の指摘する通りです。そもそも「多数決原理」で物事を決めること自体が、ある種の「不可能を強いている」ことは、アローの「不可能性定理」の指摘以来通説になっています(単純な例として、3種の提案に対してA > B > C 、B>C>A、C>A>Bという選好順位を持つ3者が、2者択一の投票をすると3すくみとなり、投票順で結果が変わってしまう)。

 しかし多くの人々は、チャーチルが言ったとされる「民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが」という言葉に、なんとなく納得してきたようです。民主主義に代わる有効な代替案を、提示した人がいないからです。ところがポズナーとワイルは、このテーマに果敢に挑戦しました。彼らの案は、監訳者の安田准教授によれば、以下のようなものです。

具体的には、ボイスクレジットという(仮想的な)予算を各有権者に与えた上で、それを使って票を買うことを許すという提案だ。これによって、有権者は自分にとってより重要な問題により多くの票を投票することができるようになる。その際に、1票なら1クレジット、2票なら4クレジット、3票なら9クレジット——という具合に、票数の2乗分のボイスクレジットを支払う仕組みを提唱し、「2次の投票」(QV)と名付けている。ここで登場する「2乗する」というルールは、単なる著者たちの思い付き、というわけではもちろんない。現在までに購入した票数と追加的に買い足すために必要なボイスクレジットが比例的な関係になる、という二次関数の性質がカギを握っているのだ。その上で著者たちは、一定の条件の下で、QVによって公共財の最適供給が実現できることを示している。

 このような仕組みも、一種のオークションという理解でしょうか。ポズナーとワイルは、2016年の米国大統領選挙でQVを使ったらどうなっていたかのシミュレーションを行なっています。「有力とされていた候補者の中では、穏健派とされていた共和党の候補が勝っていた可能性が一番高い。最終的に勝利したドナルド・トランプは全候補者の中で最下位になっていた。」(邦訳書p.186)と聞けば、QVがどんな効果をもたらすのか、もっと知りたくなります。

・VIP(Visas between Individuals Program)により移民労働者の市場を創設する

 米国でも(不法)移民問題は、論争を招きがち(controversial)な政治テーマです。しかし移民の国だけあって、H1-Bというvisaによって、IT企業を支えるエンジニアなどの技術者を外国から呼び寄せることに成功しています。雇用主が移民労働者の「身元引受人」になることで、米国内に3年間(更新すれば6年間)滞在でき、家族の呼び寄せも可能です。

 ポズナーとワイルは、この制度を拡張し、企業ではなく一般市民が「身元引受人」になれるようにすべきだ、期限もなくて良い、という大胆な提案をしています。ただし、2つの調整が必要であるとします。1つは、移民労働者が最低賃金未満の賃金で働くことを認めること。2つ目は、移民法の執行強化で、既存の不法移民に対しても、市民権を取得する道を開く1回限りの恩赦・身元引受人の選定・強制送還といった措置を組み合わせて、新しいシステムに適合させなければならない、としています。

 米国民の大多数が反対しそうですが、彼らは反対も織り込み済みのようで、2つの反論を用意しています。モデルとしたH1-Bプログラムそのものに反対がないことと、類似のオペア(Au Pair Care、ビザの種類はJ-1。1~2年間、住み込みで育児や家事を手伝いながら現地の言葉や文化を学ぶプログラムで、ほとんど若い女性が対象)の成果を見ると、一般国民でも外国人労働者を身元引受人として管理できるはず、というのです。

 このような提案は、新制度で移民としてやってくる非常に貧しい移民労働者が「新しい下層階級」になる(新しい搾取)という反対に会うことでしょう。それでも共著者は、以下のような反論を準備しています(邦訳書、pp.221~222)。

 

いま、OECD諸国が十分な量の移民を受け入れて、人口が3分の1増えたとしよう。また、平均的な移民のビザの入札額は年間6,000ドルだとする。(中略)OECD諸国の1人当たりの平均GDPは3万5千ドルなので、この提案が受け入れられれば、典型的なOECD加盟国の一般市民の国民所得はおよそ6%押し上げられる。これは過去5年間の1人当たり実質所得の伸び率に匹敵する水準だ。(中略)
移民にもたらされる利益は、それ以上に劇的なものになる。大半の移民は典型的な年間所得が数千ドル以下の国から来ることを考えると、移民によっては所得が5千ドル増えれば(1万1千ドルの利益から6千ドルの入札額を差し引いた額)、所得が何倍にも増える可能性がある。このシナリオの下では、1ドルの利益のうち、約半分がOECD諸国のところに回り、約半分が移民と移民が送金する相手のところに回る。OECD諸国は世界所得の半分を占めるため、グローバル経済もおよそ6~7%成長する。

 それでもなお、反対論は消えないでしょうが、彼らは ① 移住が格差を生み出すのではなく「格差を見える化」するだけで、② ほとんどが恒久的な移住ではなく短期循環型になる、③ 米国内の格差は広まるかもしれないが、米国民間の格差も、世界全体の格差も縮小する、④ 不法移民による地下経済を地上に引き上げ、規制と監視が可能になる、と強気です。

・機関投資家による支配を解く

 初期の資本主義は、文字通り創業者でもある資本家が経営するものでした。しかし次第に資本家は経営から手を引き、20世紀以降の会社運営は「経営者」という専門家に委ねられました(資本と経営の分離)。ここで発生したのが、資本家と経営者の間の利害が一致するとは限らないことから、principalである資本家が、agentである経営者をどうモニターし、意に沿った経営をさせるかという、エイジェンシー問題でした。

 しかも、20世紀前半の資本家は彼自身も事業者でしたが、20世紀後半には大規模な資産運用会社や年金基金などの機関投資家が優勢になってきました。彼らは、ポートフォリオ理論に基づく分散投資をすると同時に、配当や会社価値の最大化(株価値上がり)を期待して、「モノ言う株主」として企業を実質的に支配しています。つまり「所有と経営の分離」が「経営者の時代」を経て反転し、再び「機関投資家(=所有)支配」の時代になったのです。

 機関投資家支配の害として、共著者は「価格の引き上げ」と「賃金の引き下げ」の2つをあげ、それぞれについて実証分析を紹介しています。特に後者は、伝統的な「売り手独占(monopoly)」とは違う「買い手独占(monopsony)」と呼ばれ、賃金の停滞と密接な関連があるとされています。わが国の状況も、この分析の正しさを証明しているように思えますが、わが国には強力な機関投資家もいないので、賃金抑制の結果生じた余剰は企業にため込まれ、マクロ経済の停滞を加速しているように思えます。

 どうしたら良いのでしょうか。共著者は「機関投資家が同じ業界内で多くの企業の株式を保有することを禁止すると同時に、業界が異なる多くの企業の株式を保有することを認める」(邦訳書、pp.275~276)のが決め手だとします。しかし、わが国よりも厳格な運用で知られる独禁法を有する米国では、既にそのような方向性は確保されているのではないでしょうか?

 確かに、米国独禁法の重要部分である「企業結合」を律するクレイトン法7条では、「競争を実質的に減殺し,又は独占を形成するおそれがある株式その他の持分(Stock or OtherShare Capital)又は資産(Assets)の取得は禁止され」ています(邦訳書の訳は厳密さに欠けるので、公正取引委員会のホームページによる)。しかし、これは事業会社が他の事業会社を吸収・合併する(具体例として、DuPontによるGM株の買い占め)など、従来型の「企業結合」に関する規定で、機関投資家に対する規制ではありません。

 そこで共著者は、以下の新ルールを提案します。「寡占状態で1社以上の実質支配企業の株式を保有し、コーポレートガバナンスにかかわっている投資家は、市場の1%以上を保有することはできない。」果たしてこれは有効か、また十分か、議論は尽きないと思われますが、共著者が「独占を嫌う」市場主義の信奉者であることだけは、痛いほど伝わってきます。また、企業もM&A市場という場で取引される状況では、オークションの発想が一定の有効性を持つことも、理解できます。

・データの提供者に適正な対価を払う

 さて最後の提案は、デジタル経済における「データ」の重要性に着目して、「データを生み出している人にしかるべき対価が支払われるべきだ」というものです。「ユーザーがデータの生産者と販売者として情報経済で重要な役割の担っている」(邦訳書p.298)にもかかわらす、「データ生産者として人々が果たしている役割は、公正に扱われているわけでも、適正に報酬が与えられているわけでもない」(p.299)からです。

  どうしてこのような事態になったかといえば、情報は「囲い込み」できないから個々の情報の生産者にはバーゲニング・パワーがない反面、ビッグ・データになれば価値が高まることを知ったIT企業は、あの手この手で情報を安価あるいは無料で手に入れているからです。その一例がURLと呼ばれる作戦で、これは「usage, revenues later」(まずは客集めに集中し、収益モデルは後で考える)の略だといいます。

 この原理は情報経済の初期から指摘されてきた「ネットワーク効果」(富める者がますます富む)、「独り勝ち(winner-take-all)現象」「収穫逓増(increasing returns)」など、情報財の取引が有体物の取引とは違った特性を持つことを、ビジネスモデルに転換した工夫です。そして、URLを上回る最大の発明は、情報財の取引市場と広告の市場とを背中合わせ(両面市場)にすることで、「タダ」というエサでサービスを提供する代わりに、利用者をデータ生産者に変えてしまうことです。

 しかし、これは発明と呼ぶよりも、結果論にすぎないのかもしれません。「収益モデルを模索する中でやむを得ず無料サービスの提供者としてスタートし、その後、広告プラットフォームになった会社は、今度はデータ収集会社へと姿をかえつつあり」(p.313)と見るのが当たっているかもしれないからです。いずれにしても、こうして巨大企業になったGAFA(Google、Amazon、Facebook、Apple)に対する風当たりが強くなるのは当然と言えるでしょう。

 市場を信奉し、独占や既得権益を嫌う共著者も、その姿勢に変わりはありません。それどころか、昔懐かしいマルクスまで持ち出して、「万国のデータ労働者よ、団結せよ」と叫ばんばかりの記述には驚きました。上記の3つの提言では、冷徹な分析を披露したポズナーとワイルも、このテーマには有効な提言が難しかったようです。私としては最も期待したテーマだったので残念ですが、それだけ「情報財」の扱いに関する分析が未開拓であることをも示しているともいえ、ほっとした面もあります。

林「情報法」(58)

市場を信頼しながら所有権は制限する

 この連載で繰り返し強調してきたように、私が情報法の論議で最も懸念しているのは、有体物の法の基礎にある「所有権」の概念を、無意識のうちに情報にも適用してしまうという弊害です。この傾向は、特に経済学者の間で根強いものがあります。ところが意外や意外、「法と経済学」の論者の中でも最も「市場」重視派と思われているエリック・ポズナーの新著は、「市場は重視するが、(従来はそれと表裏一体とされてきた)所有権の呪縛から脱皮しなければならない」と説くものです。この一見矛盾するロジックは、どのようにして可能になるのでしょうか?

・Radical Markets: Uprooting Capitalism and Democracy for Just Society

 『ラディカル・マーケッツ:脱・私有財産の世紀』という邦訳書(安田洋祐・監訳、遠藤真美・訳)のタイトルは、この謎を解く上で適切な訳語だと思われます。今年の初めに東洋経済新報社から出版された同書の共著者は、「法と経済学」の始祖の1人であるリチャード・ポズナーを父に持つエリック・ポズナーと、E グレン・ワイルというマイクロソフト社の主任研究員です。書きぶりから見て、ワイルのアイディアとシミュレーションを2人で検討し、理論づけとまとめはポズナーが担当したものと思われます。

 社会主義を否定し資本主義を是とする思想の背景には、「市場と所有権は一体不可分に結びついている(はず)」という前提があります。事実、2大政党制が定着している米国では、以下のような図式が一般的な理解になっています。

 右派≒共和党の主張:所有権は市場取引の前提で、これを制限するとインセンティブを削ぐから、原則として認めるべきではない。旧ソ連が崩壊したのは、統制経済が分散型意思決定システムである市場メカニズムに負けた、象徴的出来事である。
 左派≒民主党の主張:市場が有効に機能しない「市場の失敗」に対しては、政府の介入が不可欠で、時に所有権を制限すべき場合がある。累進課税や国民皆保険、公益のための土地の強制収容などは、資本主義国でも広く認められている。

 両者の争いは、ソ連が崩壊した直後は右派の圧勝のように見えました。「すべての財を共有すべき」という共産主義の主張は、「コモンズの悲劇」(所有権が不明確だと誰もがただ乗りしようとするので、資源が浪費され枯渇してしまう)に陥るか、逆に資源が活用されずに衰退する。それが歴史的に証明されただけだ、というのです。これに対して資本主義社会では私有財産(所有権)が明確にされており、所有者が必要な管理をすれば「資産の価値を高める」インセンティブが働くので、資源投資の効率性も資源配分の効率性も担保される。このような見方からすれば、ソ連の崩壊は逆説的だが「所有権と、それに連動する市場システムや政治的な民主主義の優位性」を証明したというのです。

 さて旧ソ連の崩壊直後には、例えばアパートの国有方式を改めて市場取引を可能にしても、統制に慣れた官僚が(例えば登記の)権限を手放さないため、時間がかかったり賄賂が必要になって、「権利の存在が証明できない」まま取引するという不完全な市場しか生まれませんでした。これは「反コモンズの悲劇」と呼ばれ、「完全な排他性のある所有権」でなければ市場が機能しないことが、旧東西両陣営の共通認識になりました。

 ところが勝利したはずの資本主義においても、右派共和党と左派民主党が競っている間に所得格差が徐々に拡大して、世界一豊かな国であったはずの米国でも、グローバリズム反対の声が上がるようになってきました。また、中国経済の急成長によって、「非資本主義的市場主義」が(少なくとも短期的には)成立し得ることが実感されるようになり、「所有権」と「市場原理」が、必ずしもセットではないことが明らかになってきました。

 ポズナーとワイルの本は、まさにこのような「世界理解の揺らぎ」の時期に登場したもので、「市場原理は守りつつも所有権の絶対性は弾力的に捉える」という理解が可能かどうかを試す、思考実験だと思われます。英文タイトルのradicalやuprootは、いずれも「根源的に考え直す」ことを意図する語で、それらは必然的に「過激」な内容を含むものにならざるを得ません。

 ・繰り返し準リアルタイム・オークションが可能にしたもの

  共著者が、リスクを取っても過激な議論を展開しようとした背景には、序文で明らかにしているように、ノーベル経済学賞受賞の知らせを受けた3日後に急死したウィリアム・ヴィックリー(1914~1996)による、オークション理論への信頼があります。オークションは、希少な財貨の競売や公共工事の入札などでは古くから利用されてきましたが、ICT(情報通信技術)の驚くべき発展とともに、その応用分野を拡大しています。

 米国では、私がニューヨークに滞在した1990年代前半に、従来は「専門家による審査」(俗称「美人投票」)というプロセスで政治的に決定されていた周波数の割り当てに、オークションが導入され威力を示しました。今日では、インターネットの発展とともに中古品の売買などに広く適用され、広告市場ではリアルタイムに近いオークションが当たり前になっています(そのため、広告市場と広告による無料情報市場という「両面市場」が成立し、後者の倫理が広告市場に支配されるといった問題も生じています)。

 オークションの仕組みは、インターネット上では「繰り返し、リアルタイムに近い形」で行なうことが可能になるので、以下のようなことができるといいます(邦訳書、pp. 26~28)。① 従来は相対で取引するしかなかった私有財産を公開し広く取引の対象にできる、② 常時開設されているので頻繁に取引できる、③ 買い占めの意味がなくなり貧富の格差が縮小する、④ 取引過程が透明化され政治的介入を排除できる。

・COST(Common Ownership Self-assessed Tax)

 共著者は、オークションの仕組みを財貨の取引という伝統的市場に応用するだけでなく、選挙システムや移民労働者の市場、企業ガバナンスの市場、現在無料サービスになっているデータ取引の市場など、およそあらゆる価値の交換に利用できる(あるいは新しい市場を開設できる)はずだ、というradical な議論を展開しています。

 しかし、その基本になるのは伝統的な財貨の取引ですので、まずはそこで提案されているCOST(共同所有自己申告税)に限って、説明しましょう。監訳者の安田准教授の簡潔な要約によれば、COSTは以下のような仕組みです(邦訳 p. 419の表現を一部修正)。

①現在保有している財産の価値を自ら決める、
②その価値に対して政府が一定の税率分を課税する、
③ ①の価値より高い価格の買い手が現れた場合には、
 1)①の金額が現在の所有者に対して支払われ、
 2)その買い手に所有権が自動的に移転する。

 この仕組みに従えば、「財産を所有して他人の利用を排除する」所有権に拘ることは、趣味や希少財の世界では引き続き有効です(誰にも「これを持っているのは世界で私一人だけ」と誇りにしたい品物があるでしょう)が、財貨一般に関して所有権に拘泥することは合理的ではなくなります。なぜなら、税金を安くしようとして価値を低位に設定した人は、常にオークションで買い取られるリスクを覚悟しなければならないし、逆に見せびらかせたいだけで高値の申告をすれば、それに連動して高額の税を負担しなければならないからです。

 つまり旧来の所有権の経済的機能のうち、利用価値は生き残りますが交換価値は減退し、権利としても「所有権」ではなく「利用権」があれば良い、という状況に変化します。これまでの所有権中心の発想では、「物を持つ」ことがなければ「物を利用する」ことができないか、極めて不便な状況でした。しかしCOSTの世界では状況は改善され、「いつでも利用できる」ことを前提に権利のあり方を考え直すべきだ、と主張したいのでしょう。

 こうした主張は理論的に可能なだけでなく、一般にシェアリング・エコノミーと呼ばれているUber やAirbnb という「所有しないで利用するだけ」サービスの形で既に実現されているので、説得力があります。法律的に見れば所有権の機能は、① 自分で利用する(使用)、② 他者に利用させて収益を得る(収益)、③ 売却して換金する(処分)の3つですが、従来利用度が低かった ② の機能が、ICTの発展で重要度が増したと考えれば、当然のことともいえます。

 しかも、こうした利用形態はインターネットを前提にしているので、市場原理は後退するどころか、ますます使い勝手を広めていきます。「市場は所有権と表裏一体のはずなのに、所有権を制限しつつ市場原理は守る」という一見矛盾しそうな論理が、実は最も現実に即したものであるのは、まさにこのためです。「結論を言ってしまえば、大規模な経済を組織するアプローチとして、市場に対抗する選択肢はない」(p. 56)というのが、共著者の揺るがない理解です。

 ・所有権の排他性をゼロ・イチから解き放つ

  ただし共著者は、現在の市場は期待通りには機能していないとして、大胆な改革を求めてもいます。市場原理の良さは、「自由」「競争」「開放性」にあるのに、「富める者がますます富む」「IT市場を支配した企業が経済全体を支配する」度合いが高まったため、理想は裏切られています。それどころか、「新自由主義経済は、格差と引き換えに経済の活力が高まると約束した。結果として、格差は広がったが、活力はかえって低下している。これを『スタグネクオリティ』(stagnequality)と呼ぶ」(p.46)として、厳しく批判しています。スタグネクオリティとは、stagnation(停滞)とinflation(インフレ)の合成語である「スタグフレーション」に倣って、前者とinequality(格差)を結び付けたものです。

 上記の記述を法学的に翻訳し、私流の情報法的解釈を施せば、以下のようになるでしょう。a) 所有権は財の市場取引を可能にする機能を持つ優れた仕組みではあるが、b) 同時に所有者に「他者を排除する権利」を付与することになるので、独占を誘発しやすい欠点がある。また、c) 本来コモンズ的性質を持つ情報に所有権アナロジーで対処したところ、d) GAFA独占のような19世紀末の独占を上回る集中が起きた。結局、解決法としては、d) 所有権をアンバンドルして「他者の利用」が可能になるよう排他性を弱める必要がある、となるでしょう。

 これは、著作権に関して私の ⓓ マークやレッシグが考案したcreative commonsのように「弱い排他性」あるいは「共同利用が可能な排他性」を工夫するという発想の延長線上にあります(拙著p. 248 以下と、本連載の第49回を参照してください)。しかも、レッシグや私が考えることができなかった「所有権そのものの情報法的代替案」を提示したという意味で、画期的なものです。この提案を知ったからには、拙著の大部分を書き換えたくなるようなradical(根源的で過激)なもので、大いに刺激を受けました。

 しかし法学者として唯一の不満を言えば、邦訳書のサブ・タイトルを「脱・私有財産の世紀」ではなく、「脱・所有権の世紀」としてもらいたかったところです。しかしこれは、経済学から学問に入って、法学に回帰した私の「繰り言」にすぎないかもしれません。

林「情報法」(57)

新型ウィルスとコンピュータ・ウィルス

 新型コロナ・ウィルスによる感染症が、世界中を不安にさせています。コンピュータ・ウィルスが主原因であるサイバーセキュリティ事案は、病原体としてのウィルスのアナロジーで語られることが多いのですが、果たして両者はどこが似ていて、どこが違うのでしょうか? 今回の騒動は未だ収束していませんが、渦中にあるからこそ自覚できる事柄もあるので、今後のための備忘録としてまとめておきましょう。

・メカニズムが分からず確率論の世界になる

 今回の2019新型コロナ・ウイルス(Covid-19)は、感染力がかなり強い反面、発症率はさほど高くないといえます。しかし、検査体制が整っていない中で発生し、潜伏期間が数日から2週間程度あるので、その間に感染が拡大したと思われます。加えて、検査陽性者の80%は自覚症状のないまま、あるいは軽症のまま治癒するものの、一部はその間にも感染源となっているようです。

 更に、死亡率は現在進行形で確定できませんが、約2%~3% 程度と言われ、2002年に発生した「重症急性呼吸器症候群(SARS)」(約10%)や2012年以降発生している「中東呼吸器症候群(MERS)」(約30%)に比べると1桁下で、一般的なインフルエンザ死亡率の1%未満に近いものですから、それほど心配すべきものではなさそうです(ただし、私のような高齢者は要注意です)。

 それにもかかわらず、世界中が不安に包まれている現象は、航空輸送の発達で商用・観光を問わず人的交流が活発になった結果、中国を発生源とする病気が瞬く間に世界中に拡散するので、「他人事」とはいえないためでしょう。しかし、より根本的には、ウィルスが人の健康に及ぼす害悪のメカニズム(いったん罹患すれば抗体ができて安全なのか、免疫力が低下すれば再発するのかなど)が解明されていないためと思われます。

 そのため、簡便な検査キットや安価で保険が適用される治療薬が未開発で、「医者にかかっても治るかどうか分からない」という不確実性が不安心理を助長しているのです。「予防手段はインフルエンザ対策と変わらない」と言われても、「人から移されるのは不運と諦めよ」という確率論的状況では、不安が募るばかりです。それがマスクの不足だけでなく、トイレット・ペーパー騒ぎなど一種の「パニック」に近い状況を生み出しています。

 しかも、経済も政治も「心理」で動く要素がある以上、パニックが現実を動かしてしまう危険があります。株価の乱高下はその象徴でしょうし、外出しない・買い物をしない・イベントや旅行は回避する、といった行動が広まれば、それこそ実体経済が悪循環に陥ってしまいます。公衆衛生やリスク管理の専門家は「正しく恐れる」ことを推奨しますし、それはそれで正しいのですが、忠告通り実践するのは「言うは易く行なうは難し」の落とし穴にはまってしまいます。

・ベスト・エフォートからベスト・プラクティスへ

 ここで大切なことは、「不可能を強いる」ことではなく、「出来ないことは認めて将来の改善に期待する」ことではないでしょうか? リスク管理の教科書で「後知恵」(hindsight)を戒めているのは、大事な点だと思います。「後知恵」は知恵として蓄積する必要がありますが、リスクに直面している現時点では「やるべき手を尽くす」ことと、その「正確かつ客観的な記録を取る」ことに、全力を集中すべきでしょう。

 「やるべきことをすべてやる」「正確で客観的な記録を残す」を両立させることは、簡単なようでいて、意外なことにわが国ではほとんど実績がありません。そこには2つの課題があり、まず1つは、今風に言えば「インスタ映え」するか否かです。医療現場で治療に携わることは使命感に訴えるものだし、テレビで報道されるかもしれません。つまり「インスタ映え」の要素があります。これに対して現場で記録係を命ぜられたら、意気消沈するかもしれませんし、少なくともテレビ報道には向かない地味な仕事ですが、これも医療行為と同等の重要性があるのです。

 この点を敷衍すると、連載の第52回で紹介した「失敗学の失敗」という第2の課題が浮かび上がります。わが国においては、チェック・アンド・バランスの重要性に対する認識が薄く、「監査役」を「閑散役」として遊ばせています。しかし、西欧先進諸国のコーポレート・ガバナンスでは、監査役会が最高意思決定機関であるドイツ型や、取締役が執行役と分離されて監査役と変わらないアメリカ型、などが主流です。つまり、これらの国々では「業務の執行」には不正や不当事項が含まれる危険を認識し、その最小化の仕組みを組み込もうとしているのです(それでも不正・不当は無くなりませんが)。

 その際に大切なことは、何よりもまず「正確で客観的な記録を残す」ことです。そのような国々では、わが国で起きるような「記録係はやりたくない」といった風潮とは違った文化があると思われます。残念ながら、そのような文化的背景に欠けるわが国で、「失敗学」を導入しても、その証拠が集まらなかった、というのが連載52回の教えでした。

 この点は、次のように言い換えることもできそうです。インターネットが普及する過程で、標語の1つとしてbest effortが流行しました。それ以前のguarantee型ネットワークは、端から端まで(end-to-end)電話会社が接続を保証する一方で、コンピュータを接続して良いか否かなどを一方的に決めるシステムでした。インターネットはそうしたお仕着せを改めて、利用者がエンドにコンピュータを置いて、誰と接続するかも含めて自由に接続できる(同じエンド・ツー・エンドをe2eと書きます)システムに変更し、同時に接続保証もbest effortで良いとしたのです。

 しかし、ベスト・エフォートは、「保証システムではない」というだけで、それ自体から品質レベルが示されるものではありません。事実、「自律・分散・協調」を旨とするインターネットのアーキテクチャの脆弱性を突いて、次々とサイバー攻撃(ウィルスを含む)や有害情報の流布が繰り返されるようになってしまいました。そこで現在では、best effortという語は次第に使われなくなり、サイバー対策ではbest practiceという語が使われる頻度が高まっています。前者は静的ですが後者は動的な概念で、攻撃に対して良かれと思う施策をその都度実施し、その経験が有効ならマニュアルやガイドラインなどに収録して、その後の普及を図るというものです。

 新型コロナ・ウィルスに対する、一見対症療法に過ぎないと思われる施策も、このような文脈で見ると、将来に向けての経験の蓄積と評価できる面があるのではないでしょうか。そのためには、「正確で客観的な記録を残す」ことが不可欠です。

・専門特化した学問は総合し実践しないと役に立たない

 退職して「毎日が日曜日」になったので、暇に任せてテレビを見ていると、新型コロナ・ウィルスに関して専門家という肩書の人が多数登場し、興味を惹かれました。その数の多さにも驚きましたが、更にびっくりしたのは専門家の「専門」が細分化していることでした。研究者と臨床医の違いはもとより、同じ研究者でも疫学研究者とワクチン開発者の間、同じ臨床医でも呼吸器系の医師とその他の部門の医師との間、あるいは大病院の医師と診療所の医師の間、などの随所に「見えない壁」があるのを感じました。

 これは批判すべきことではなく、学問や治療体制が進歩した結果の必然で、それほど専門分化していればこそ、最先端の治療や予防が可能になっていると、ポジティブに捉えるべきでしょう。しかし、このことは逆に「専門家とは誰のことか」という疑問を生み、特に「専門家会議」に緊急対策策定のかなりの権限を委ねざるを得ない現状では、「有識者として誰を選任すべきか」がカギになることを暗示しています。私も有識者の一人として、サイバーセキュリティ戦略本部員を務めた経験から、他人事とは思えませんでした。

 今回の専門家会議の人選でも、政府はバランス論に十分配慮したことと思われますが、テレビの解説から垣間見た限りでは、上記の「見えない壁」がある種の支障になっていることは、否定できないように思われます。そして、この点は、アメリカの疾病対策センター(Center for Disease Control and prevention)のような常設機関がないと、克服できないように思われました。

 このような感慨を抱いたのは、サイバーセキュリティに特化した政府機関である内閣サイバーセキュリティセンター(NISC = National center of Incident readiness and Strategy for Cybersecurity)との長い付き合いがあるからかもしれません。わが国のサイバーセキュリティ対策は、先進諸国に比して遅れていることは否めませんが、NISCがその前身を含めて約20年間にわたってサイバーセキュリティに特化し、そこに専門は違うがセキュリティ対策という共通の目的を持った人材を結集してきた実績は、何物にも代えがたい財産(特に、内閣官房に置かれていながら、GSOC = Government Security Operation Centerという現業部門を内部に抱えていることは、実践の重要性を忘れない決め手)になっています。

 技術革新と学問の進歩に伴って、一人が決められる専門分野は次第に狭くなっていきます。それは「やむを得ない」とする一方で、タコつぼに陥らず、関連分野の専門家と広く交流を深め、総合的な判断ができる体制を整備することが如何に大切かを、新型コロナ・ウィルス事件が教えてくれたような気がしています。

・サイバーの世界も同じだが、自然現象と故意とは違う

 以上を要約すると、「メカニズムが分からず確率論の世界になる」「ベスト・エフォートからベスト・プラクティスへ」「専門特化した学問は総合し実践しないと役に立たない」の3点は、病原体としてのウィルス対策にも、コンピュータ・ウィルス対策にも共通の重要事項である、ということになりそうです。

 しかし、病原体としてのウィルス対策が、自然現象であり人の意思に無関係である(生物兵器としての利用は別ですが)のに対して、コンピュータ・ウィルス対策は、クラッカーという故意犯の行為に対するものである点で、大きな違いがあります。

 その限りで、刑法的・犯罪学的あるいは刑事政策的配慮が必要になるからです。前述の3つの共通項のうちでも、「ベスト・エフォートからベスト・プラクティスへ」をそのまま適用できず、刑事政策の視点からは「投資効果を無視してでも非違行為を抑止せよ」という強い要請が出るかもしれません。

 このように、ウィルス・アナロジーは十分に役に立つものですが、analogical = identicalではあり得ません。この連載の随所で「所有権アナロジーの限界」について述べたように、法学におけるアナロジーやメタファーには、効用と陥穽とがあります。効用はすぐにわかるのですが,陥穽の方は時として忘れやすいので、十分な注意が必要だと説く学者も多いのです。この連載の前々回(第55回)に紹介した田村さんが、松浦好治さんの『法と比喩』(1992年、弘文堂)を引きながら、その懸念を述べていることにも留意したいと思います。

林「情報法」(56)

AI時代の法≒情報法か?

 小塚荘一郎さんの新著、『AIの時代と法』(岩波新書)に関する書評を読んで、いずれ拙著との対比を試みようと思っていたところ、親しい人から「情報法の研究者を名乗るなら、すぐにも読むべし」とのメールがあったので、急いで読んでみました。多くの論点が要領よくまとめられていて、いろいろな視角から対比可能な良書ですが、今回は拙著とどこが同じで、どこが違うかを中心に紹介します。

・AI時代の法の3つの変化

 小塚さんの本は、以下の3つの主要な論点を第2章から第4章に配置し、その前後にイントロダクションや、分析とまとめの章を加えて構成されています。

  (1) モノからサービスへ(MaaS、Air B&B、スマートフォンのアプリなどが好例)
  (2) 財物からデータへ(データ中心社会、深層学習によるAIの高度化など)
  (3) 法・契約からコードへ(アーキテクチャ、Privacy-by-Designなど)

 この3つのトレンドが、現代法の変化をもたらしている原動力である点については、私も異論ありません。加えて小塚さんの本は、「新書」という制約をプラスに変えて、簡潔で読みやすい仕上がりになっています。これに対して拙著の方は、分量が多い点がむしろ弱点になっているようで、専門家向けという印象は否めません。私ももう少し「ストーリー・テラー」としての修業を積む必要があると、反省しきりです。

 両者とも、法の客体に「サービス」「情報」「データ」などが否応なく入ってくる点を認め、「有体物が中心の法を、そのまま現代社会に適用するには限界がある」との認識は共有しています。しかし問題の捉え方が違うため、私は「情報法を考えるための発想の原点」を極めるべく、法学の領域を超えて他の学問的知見も総動員して、「情報の特性」をパラダイム・シフト的に追及しています。これに対して小塚さんは、あくまでも法学に立脚しつつ「AIが活躍する時代になると法はどうなるのか」を逐次改善的(incremental)に考察している、という差が生じています。

・データの前に、プログラムの法的扱いから

 上記のような私の問題意識からすれば、「AI時代の法」の3つの変化のうち「財物からデータへ」を議論する前に、「プログラム」という最初に登場した「非有体財」を、現行法がどう扱ってきたかを見ておく必要があります。コンピュータ時代の到来と同時に、ソフトウェアあるいはプログラムという従来にない「法の客体」が登場し、1980年代前半にその扱いをめぐって激しい議論が展開されたからです。

 わが国の現行法では、プログラムは以下のように保護されています。まず著作物に対する創作者の権利の一種として、著作権法2条十の二号において「プログラム」が、保護の対象になっています。このような扱いで決着するまでには、「プログラム権法」という特別法による保護を目指す動きがありましたが、著作権法における「無方式主義」(著作権法17条2項)と権利保護期間(同53条、公表後70年=法人著作の場合)のいずれも権利者に有利であり、権利保護に熱心な米国の強い意向が反映されて著作権法が使われることになった、と言われています。

 なお、プログラムはまた、特許法2条「自然法則を利用した技術的な思想の創作のうち高度のもの」の要件を満たせば、特許として保護されます。この場合に、「物の発明」と「方法の発明」のうち、どちらになるのかという問題があります。現在の法制では、オンライン実施に関する特許法2条3項一号が、「この法律で発明について『実施』とは、次に掲げる行為をいう」として、「物(プログラム等を含む。以下同じ。)の発明にあっては、云々」と規定しているため、ソフトウェアは「物の発明」とされていることは明白です。

 保護の根拠が著作権であれ特許権であれ、いずれも「物」(著作物あるいは「物の発明」)として保護されているので、ここに所有権アナロジーの強さが反映されています(ついでながら、法的なモノには「物」「者」「もの」の3種があります)。しかし、プログラムはバグを内包しているため、他の著作物のようには「同一性保持権」を主張できないなどの例外もあります。(第20条第2項第3号)。

 また、製造物責任法に基づく瑕疵担保責任を負うこともありません。法的には、ソフトウェアは「製造物」、つまり同法2条1項にいう「製造又は加工された動産」ではないからです。新しい事象にも、当面は「物」中心の発想(民法85条は「物とは有体物をいう」とする)で対処せざるを得ないことは分かりますが、出来の悪いソフトに日々悩まされている被害者からすれば「何とかならないのか」という声も出るでしょう。もっとも、論者がソフトウェアの制作者であれば、「瑕疵を問われては、やってられない」のが正直なところかもしれません。

 残念ながら、小塚さんの本は、AIの社会的影響に注目しているので、その技術的裏付けであるプログラムの話は出てきませんが、データの扱いについての検討を深めていけば、避けて通れない課題になるものと思われます。

・データの法的扱い

 以上のように「プログラム」という、いわばシャノン的なデータについての法的扱いさえ難しいので、これよりもさらに多様な「データ」一般について、正面から取り扱っている法律(制定法)はありません。この点は、福岡真之介・松村英寿 [2019]『データの法律と契約』(商事法務)が端的に述べています。

 データに関して一般の人がまず心配するのは、自分自身に関するデータでしょうが、個人情報保護法(2条各号)は、「個人情報」(「生存する個人に関する情報であって、特定の個人を識別することができるもの」、「個人識別符号が含まれるもの」)を中心に構成され、「個人データ」は「個人情報データベース等を構成する個人情報」としてのみ登場します。本来ならまず「個人データ」を定義し、その上位概念として「個人情報」を定義すべきかと思われますが、逆の方法になっています。

 その結果同法は、個人情報取扱事業者が「開示、内容の訂正、追加又は削除、利用の停止、消去及び第三者への提供の停止を行うことのできる権限を有する」個人データは規律の対象ですが、「データ」一般を保護する法ではないことが明白です。そこで、「AI時代の法」のうちでも特に「データに関する法」を考えるなら、何らかの形でデータを分類し、それぞれにふさわしい法のあり方を分析する必要が生じますが、これに成功した文献は未だないと思われます。

 その試みの1つが、上述の福岡・松村 [2019] による、以下の9分類です(p.35 以降)。

① 一般的なデータ(②~⑨ 以外のデータ)、② 契約によって規律されるデータ、③ 不正競争防止法により保護されるデータ、④ 知的財産権の対象となるデータ、⑤ 不法行為法(民法)により保護されるデータ、⑥ パーソナルデータ、⑦ 刑法・不正アクセス禁止法により保護されるデータ、⑧ 独占禁止法により規律されるデータ、⑨ その他法律により規律されるデータ。

 この分類は役に立ちますが、ソフト・ローの存在を明示していないことと、「秘密」という分類があり得ることを失念していることなど、なお改善の余地があります。特に、「秘密」という概念は私が常に強調している点ですが、わが国では「秘密はない方が良い」という倫理観が強いためか、知らず知らずのうちに避けている傾向があります。この点は、拙著p. 56の図と、p. 88以降の説明を読んでいただけると幸いです。

・ケース・スタディに多くの示唆

 小塚さんの本で見習いたいと思った最大のポイントは、法学者らしく多くのケースを取り上げて、読者の興味を惹き付けていることです。以下がすべてではありませんが、これらを見ただけでも、「AI時代の法」が如何に新規で難しい問題を提起しているかが分かります(カッコ内は、同書の該当ページです)。

・ヤフーはオークション詐欺の責任を負うべきか?(p.62)
・装着型 GPS による犯罪捜査には、裁判所による「新しいタイプの令状」が必要か?(p.76。なお日米ともに、最高裁の判例がある)
・EU の GDPR における「データ主体」は、当該データの排他的権利を持つのか?(p.94)
・イーサリアム(Ethereum)のデータ流出対策として、互換性のない新仕様を導入して旧仕様を廃棄すること(hard-fork)は、適法か?(法的には、新仕様を遡及して適用することにならないか?)(p.144)
・アシモフの「ロボット3原則」(① 人を傷つけてはならない、② ①に反しない限り人間の命令に従わねばならない、③ ①②に反しない限り自己の存在を守らねばならない)を成文法として具体化でき、それで十分か?(p.209)
・ロボットや AI などを「電子人」(electronic person)として、「自然人」(natural person)「法人」(legal person) に次ぐ「第3の権利主体」と扱うことはできるか?(p.211)

 なお最後のテーマだけは、拙著でも同様の問題提起をしていますが、私の場合はより懐疑的で、以下のような設問になっています。

・自然人を「自立し自律できる個人」とする原則そのものが妥当か?(人は常に rational で reasonable な判断ができるか?)

・神奈川工大先進AI研究所のシンポジウム

 ここまで書き進んでいたところ、神奈川工科大学が文部科学省の「平成30年度私立大学研究ブランディング事業」に採択されて設置した、「先進AI研究所」の研究会(3月9日)で発表の機会をいただきました。次回は、その模様をお伝えすることができそうです。その際には、今回タイトルに掲げた「AI時代の法≒情報法か?」に関して、もう少し突っ込んだ説明をしたいと思っています。

林「情報法」(55)

『知財の理論』を読んで

 暮れも押し迫ったころ、田村善之さんから新著の『知財の理論』(有斐閣)を贈呈いただき、年末始の長い休みを使って、全巻を通読することができました。私が著作権の考察を足掛かりにして、「情報法」へと対象を広げてきたことはしばしば述べましたが、ここへきて「原点回帰」の機会をいただいたような気がして、感謝しています。という訳で今回は、私にとっての原点は何だったのか、を自問自答します。

・知的財産は、なぜ財産なのか?

 私は33年間という長いビジネス経験を経て、1997年に56歳にして学者に転じました。「少年老い易く、学成り難し」ですから、ピンポイントで焦点を定めなければ、学者らしい成果は出せそうにありません。そこで考えたのは、ビジネス経験の延長上に研究テーマを絞ることと、それを補う最適な学問分野を選定することでした。その結果、幸い情報産業はまだ成長の余地があり学問の対象になり得ること、コンテンツに縁が薄かった私にも、著作権を勉強すれば付加価値をつけることができそうだ、という理解に達しました。

 そこで、著作権を中心に知的財産の研究を始めたのですが、法学部出身ながら独学で経済学を学んだ私がまず違和感を持ったのは、概説書のほとんどが知的財産の定義はするものの、なぜそうなるのかを説明してくれなかったことです。これは現在でも残っている疑問で、例えば知的財産基本法2条1項の定義は、それに応えてくれません。

この法律で「知的財産」とは、発明、考案、植物の新品種、意匠、著作物その他の人間の創造的活動により生み出されるもの(発見又は解明がされた自然の法則又は現象であって、産業上の利用可能性があるものを含む。)、商標、商号その他事業活動に用いられる商品又は役務を表示するもの及び営業秘密その他の事業活動に有用な技術上又は営業上の情報をいう。

 このような中にあって、田村さんの『著作権法』(現在は第2版、2001年、有斐閣)は、唯一といえるほど、私と問題意識を共有するものでした。同書は、所有権と著作権の違いはもとより、「隅田川の花火を見る権利が成り立つか」、「成り立つとすれば所有権以外を根拠にできるか」といった問題設定で、知財の法的性格とその限界を描いています。要は、知的財産というものは、それがなければ「ただ乗り」が横行して創作や発明による文化や技術の発展に支障があるから、インセンティブとして政策的に付与する権利だというのです。

 このような発想は、一時代前の著作権研究者の理解(自然権論といい、人格の発露である知的生産物そのものが保護に値すると説く)とは対照的で、経済学を先に学んでおり米国在住の経験もあった私には、「しっくり」くるものでした。そのころ、偶々ローレンス・レッシグと知り合う機会があり、田村さんも私もクリエイティブ・コモンズの動きに少なからぬ貢献をし、影響も受けました。しかし法学のみを根拠に著作権を論ずる人たち(こちらの方が数も多く「主流派」と思われます)は、こうした「亜流」の発想を受け入れる気はなかったようです。

・情報法アプローチと知的財産法政策学アプローチ

 このような発想の差は、「知的財産として保護すべき情報はどこまでか」をめぐって先鋭化します。主流派からすれば、「知的財産を保護することが経済を活性化させる」と信じたいところでしょうが、経済分析の結果がそれを支持するとは限りません。そういう場合もあるでしょうが、ある情報に排他権を与えると、次の創作や発明を制約する面があるので、経済を停滞させるかもしれないからです。

 この点は、「言論の自由」を重んずる憲法論において、著作権がどのように扱われてきたかを知ると、より理解が深まるでしょう。2005年に出した拙著『情報メディア法』で私は、上記のような「著作権の二面性」を指摘しましたが、これは憲法学者にある種の刺激になったようです。長谷部恭男さんのような権威者が、その後「憲法学者も著作権を学ぶべし」と説いてくれたほどで、今日では「言論の自由と著作権の関係」は、憲法研究のサブ・テーマに昇格した(?)ように思われます。

 さて、ここまでは田村さんと私はかなり近い位置に居たのですが、その後私は「著作権をモデルに情報法を構想する」方向に進み、田村さんは「法解釈論よりも、その立法過程の歪みなどを研究する」方向を志向したので、やや疎遠になりました。田村さんは、その方法論を「知的財産法政策学」と称し、ジャーナル(『知的財産法政策学研究』)の発行等を通じて精力的に自ら論陣を張り、また多くの寄稿者に最新の研究成果発表の機会を提供したことは、わが国の知的財産研究史において特筆すべき貢献であったと言えるでしょう。

 その方法論の基礎にある考えを私流に要約すれば、「法を、妥協の産物である法文の解釈論で語るだけでは、不十分である」「法制定の過程で、権利者は団体を作ってロビーイングするので、その声は反映されやすいが、利用者は多数であるが分散しているので、その利害はまとまらず反映されにくい」「しかしインターネットが開いた道は、誰もが利用者でもあり創作者にもなれる世界なので、上記のバイアスは修正されるべきである」といった視点になると思われます。

 このような新しいアプローチには、新しい方法論が必要になりますが、田村さんは私のように苦労し挫折する(実は、私が経済学を諦めて法学に回帰したのは、トランプの出現まで預言することはできませんでしたが、経済学の「効率性第一主義」の危うさを直感的に感じたからです)ことなく、各種方法論の「良いとこ取り」を楽々と達成しているようです。つまり、もともと知的財産法学者としての研鑽と実績を基礎に、「法と経済学」とわざわざ銘打たなくても、そのエクスを十分吸収し、更には行動経済学や経済心理学の知見を自在に活用しているのは、羨ましい限りです。わが国で「法政策学」を最初に掲げた平井宜夫氏と、これを批判する星野英一氏の間で、激しい論争が繰り広げられたことが嘘のように思われます。

 米国の有名ロー・スクールでは、これらの知識が会計や金融の知識などとともに、裁判でも有用とされているようですから(ハウエル・ジャクソン他著、神田秀樹・草野耕三訳『数理法学概論』有斐閣、2014年)、当然のこととも思われますが、私自身は上述の挫折の経験から、「若い人はいいな」という羨望を拭えません。

・客体としての知財+関係的権利?

 さて全体的な評価よりも、実質的に私が今後の研究のためのヒントを得た具体的ポイントを紹介しましょう。まず田村さんが、従来から拠って立つインセンティブ論を維持しつつ、自然権論にも補足的役割を付与して両者を統合したことが印象的でした。両説の対立があまりに先鋭であったためか、田村さんは従来インセンティブ論だけを強く支持してきました。しかし本書では、インセンティブ論だけでは説明できない部分に、自然権論による説明が有効な場合があることを示しています。この点は、私も異論ありません。

 第2点は、法学における伝統的な発想は、「主体と客体」二分論でした。知的財産を「客体」とし、それに対して権利を有する者(主体)を想定し、その「権利の内容」を考えるというアプローチです。この点に関して彼は、従来から「機能的知的財産法」を志向し、「知的財産という客体がまず存在する」という発想を排除してきました。私が見る限り「権利の内容」が先に決まるべきだ、という発想に近かったと思われます。

 本書において、その発想はいよいよ洗練され、「知的財産は客体に関する権利ではなく、人々の行動の自由を制約する仕組みである」という「自由統制型知的財産法」の考えが前面に出ています。実は私も、情報法の基礎には「情報は本来自由に流通すべきものであり、それに規律を加えるのは、知的財産・秘密情報・違法(有害)情報の3つのパターンに該当する場合に限る」という着想を得て、同様の議論を展開しています(『情報法のリーガル・マインド』特に、第2章)。

 しかし私は、なおそのような「法的規律の対象としての情報」という概念から抜けきれないでいます。これは「客体論」を払拭できないことと同じです。ただし、客体の存在を認めることと、その権利内容が一意に決まることとは同義ではないとして、「主体と客体の関係性」の中に、その解を求めようとしているのですが、まだまだ模索中です。

 これに対して田村さんは、法律は文字情報による人々の行動の規律ですから、私流の「規律の手段としての情報」、特にメタファーによる影響を受けやすいとして、「知的創作物」(「物とは有体物をいう」という民法85条の規定に引きずられて、自然に有体物アナロジーになる)といった定義には、注意が必要だとしています。そうすると、本来の知的財産法は「知的創作に伴う利用行為の規律に関する法律」とすべきことになるのでしょうか? そして、そうした「純粋の行為規律」としての制定法は、「主体・客体」を中心に形成されてきた、わが国の法制の中に「座り心地良く」定着するのでしょうか?

 私は田村さんの主張に共感する点が多く、「わが意を得たり」という感触もある中で、なお検討すべき点が多いようにも感ぜざるを得ません。それは、本連載第21回「主体と客体に関する情報法の特異性」や第25回「馬の法か、サイバー法か、情報法か」で述べたような分析を続けていけば、「関係性の法」として同じ目的を達成できるのではないか、という淡い期待があるからです。私が10歳若ければ、田村さんと競い合うのですが、残念です。

 と言いつつも第3点として、田村さん自身がmuddling through(田村さんは「漸進的試行錯誤」と訳していますが、私は「難局を何とか切り抜ける」ではどうかと思っています)が不可避としていることに、学者としての良心を感じました。この分野はまだまだ「未開の荒野」であり、多くの参入者を得て開拓を進める余地があると信じています。

 なお最後に、一言だけお詫びを。実は田村さんのこの論文集は、過去に単独論文として発表済みのものをまとめたもので、多くは前述の『知的財産法政策学研究』が初出です。このジャーナルをいただいていながら、初出時に読み飛ばすか、積読したおいた怠惰をお許しください。なお田村さんご本人には、お礼とともに怠惰を直接お詫びしました。