古藤「自然農10年」(1)

命あふれる棚田、私の花粉症も消えた

 今年の猛暑は山すその私の棚田にも容赦なく押し寄せたが、お盆が過ぎて急に秋の気配がただようになった。モズがけたたましく鳴き、朝露を含んだ畦道は秋の虫が元気に跳ねる。青々と繁る稲をかき分けて進むと、舞い上がる羽虫を食べるのか、アキアカネが空いっぱいに群れ飛び、私の後を追う。

 農薬を使わない田畑は元気な命にあふれている。自然農に出会って10年、メタボ気味だった体重は十数キロ軽くなり、足腰は強くなった。基準を超えていたコレステロール、尿酸値も現役時代がうその様におさまり、飲み薬と目薬が手放せなかった花粉症まですっかり消えた。

 畑にした棚田では、里芋が雨に恵まれて今年はよく育った。初めて安納芋を植えたサツマイモ畑は畑一杯に葉が広がる。タマネギ、ジャガイモは春に1年分を収穫、お米は自給以上で余分は「健康玄米」として売っている。トマト、キュウリ、ナスなど毎日の食材は、たいてい庭の畑でまかなえる。

 自然農の米や野菜は、健康な命の味と香りがする。養殖と天然の魚の違いが分かる人は同じように自然農の味の違いが分かるだろう。ナスは小さく傷があっても身がしまって甘い。タマネギは、おいしいだけでなく軒下につるすと腐らずに1年、保存できる。こうした命の力あふれる実りを手にできただけでなく、思いもしていなかった大きな恩恵があった。

 一つは、カエルやミミズ、ムカデまでも可愛いと眺める目になったことだ。田畑の生き物は食べたり食べられたり、いつも懸命に生きている。その強さ、はかなさ、ひた向きさは人の命と変わるところがない。ブヨやアブは人を刺しに飛んでくるが、ムカデは頭に這い上がって来た時も逃げるのに必死で刺すことはない。私はひたすら逃げるムカデの額に流れる脂汗を想像することが出来る。

 周辺の森に住むカラスは、しゃがんで畑の手入れをしていると様子をのぞきにやって来る。夕方は、いろいろ声音を変えて林の中で会話を交わし、雨の気配が近づくと静まって休む。キツツキが小気味よく木をたたき、フクロウは夕方が近づくと間のびした声で教えてくれる。

 だから一日、人がやって来ない棚田で孤独を感じることはない。すべての命と一緒に大自然に包まれ、生かされている実感が、やすらぎと安心を与えてくれる。命のあるかぎり自然農で暮らすことにした選択は間違っていなかった。今、少しも迷い、不安がない。充足感を持って余生を暮らせていることが、何よりも大きなもう一つの恩恵である。

・土地を耕さず、農薬も使わない

 それに使った農具は鍬、スコップ、手鎌のわずか3つ。自然農は、のちに詳しく説明するように、肥料を使わないばかりか、土地も耕さない。中古で購入した軽トラックに草刈り機とこの3つを積めば道具はすべてすむ。自然農が耕すことをやめた恩恵はとてつもなく大きいのだ。農耕が文化となって1万年ともいわれる人類史で、大逆転の革命ではなかろうか。耕さず、農薬、肥料を使わなくても自然が豊かな恵みをもたらすのは、ただ野山を見るだけで十分である。

 山と同じように耕さない畑は、刈った草や生き物の排泄物、死骸が積み重なり、おびただしい微生物の働きで自然に豊かになる。田畑を繰り返して耕す現代農業は、固くやせた土にして大量の化学肥料が必要になり、病気がふえて農薬も欠かせない悪循環に陥っているのではないか。大型農機を作るために投入される全エネルギーを考えれば壮大な無駄だと思われる。

 政治家は永続可能な農業や国民を豊かにする国土づくりに興味を示さず、儲かる農業、自らの票につながる農政に走る。農学部の研究も利益を生むバイオテクノロジーの分野が脚光を浴び、本来の田畑の研究は脇に追いやられている。私の様な老人初心者が、いとも簡単に大きな恵みと健康を手にできた自然農は、こうした日本農業の現状に鋭い問いを突き付けているように思えてならない。

 

 

“古藤「自然農10年」(1)” への1件の返信

  1. 隠塚忠昭

    古藤さんの自然に対する愛情と畏敬の念が実感として汲み取れます。安全と健康に留意されて自然農を楽しんでください。

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