新サイバー閑話(19) ホモ・デウス⑩

岐路に立ちながら気づかぬサピエンス

 ハラリの『ホモ・デウス』『サピエンス全史』両著は、私にとっても衝撃だった。

 私たちは人間こそかけがえのない存在だと思い、その驕りのために、自然や動物を虐待してきたし、そのふるまいのつけで地球温暖化の危機も招いているけれども、にもかかわらず「われ思うゆえに我あり」、人間としてのアイデンティティが失われる日が来るとは考えてもみなかった。そこへ、ハラリはサピエンス→ホモ・デウスという座標軸を突きつけた。間違いなく私たちは歴史の大きな曲がり角に立っている。

『サピエンス全史』でハラリは、フランケンシュタイン神話に言及しつつ、私たちは将来、自分と同じような人間が恒星や宇宙を飛び交う夢を見がちだが、そのとき宇宙船に乗っているのは、私たちのような感情とアイデンティティを持った生き物ではない、まるで別の生命体になっている可能性が強いと言っている。

 そして肝心なのは、私たちがその未来を直視できていないことである。『サピエンス全史』の最後はこういう言葉で終わる。「私たちが自分の欲望を操作できるようになる日は近いかもしれないので、ひょっとすると、私たちが直面している真の疑問は、『私たちは何になりたいのか?』ではなく、『私たちは何を望みたいのか?』かもしれない。この疑問に思わず頭を抱えない人は、おそらくまだ、それについて十分考えていないのだろう」。

・電子書籍と「注文の多い料理店」

 身近なところでも、ハラリの主張を裏付けるような出来事はいくらもある。人工臓器としては、すでに心臓ペースメーカーや人工膀胱を使っている人は多い。豊胸手術や頬へのヒアルロン酸注入などは珍しくもない。アンジェリーナ・ジョリーの場合、まだ予防治療だと考えることが可能だが、現代医学の最先端は患者を治療する段階から部分的な人間改造へ徐々に向かいつつある。米軍の経頭蓋直流刺激装置はまだ脳に直接電極を埋め込んでいないようだが、カーツワイルなどのテクノ人間至上主義者は、むしろ積極的に機械と人間を合体させようとしている。本連載①でゲームを通して見たように、バーチャル・リアリティの昨今の進歩は驚異的である。

 またインターネットの発達は、「かけがえのない個人」をミクロなデータに分割し、マクロな消費動向を占うようになっている。フェイスブックの「いいね!」から私たちの消費傾向、政治的思考まで分析されるし、フェイスブックを舞台にロシアがアメリカ大統領選挙に干渉した疑惑も浮上した。人びとはインターネット上の記事を容易に信じるし、そもそも自分好みの記事しか見えないように仕向けられている。アマゾンのサイトが購読商品から女性が妊娠していることを突き止め,お祝いメッセージを送ったとき、夫を含めた家族や友人のだれもそのことを知らなかったという話もある。ネット上にはフェイクや露骨な誹謗中傷が飛び交い、自ら「人間性」を貶めている。

 巨大IT企業はすでに私たち以上に私たちのことを知っている。

 最近、スマートフォンを使う時間が増えたからなのか、先日、立ち上げたとき「あなたが画面を見る時間が先月より8%減っています」というお知らせが現れた。「ほっといてくれ」と思いつつ、なるほどスマートフォンは1カ月の間、私がどのウエブを見たり書いたりしたとか、メールの送受信にどのくらいの時間を使ったかなどをすべて知っているのだと思った。メール内容もグーグルのサーバーに保管されている。私はGPS機能をオフにしているが、そうでない妻の場合、「あなたがこの店に来るのは一昨年に続き2度目です」といったことまで教えてくれるそうである。

 本書にアマゾンの電子書籍を読むときの話が紹介されている。

 アメリカでは印刷された本よりも電子書籍を読む人の方が多いそうだが、「キンドルのような機器は、ユーザーが読んでいる間にデータを収集できる」、「あなたがどの部分を素早く読み、どの部分をゆっくり読むかや、どのページで読むのを中断して一休みし、どの文で読むのをやめて二度と戻ってこなかったかをモニターしている」、「キンドルがアップグレードされ、顔認識とバイオメトリックセンサーの機能を備えれば、あなたが読んでいる一つひとつの文が、心拍数や血圧にどのような影響を与えたかを読み取れるようになる。……。あなたが本を読んでいる間に本があなたを読むようになる。そして、あなたは自分が読んだことをすぐに忘れるのに対して、アマゾンは何一つけっして忘れない」。

 山里の料理店に入ったら、服を脱ぎシャワーを浴びろ、体に塩をかけろ、などと指示され、すんでのところで自分が料理される羽目になる宮沢賢治の童話「注文の多い料理店」を思い出させる現代の〝怪談〟だが、時代はここまで来ているということである。

 ちなみに、私が連載していた雑誌記事で「新年は『ビッグデータ』という言葉が流行語になるかもしれない」と書いたのは2013年1月号(「ミクロなデータからマクロな傾向を探る」だった。わずか5年前のことである。

・ハラリの「歴史家の目」

 しかし、問題はもっと先にある。

 私たちの人間としてのアイデンティティが危機に瀕しているということである。「危機に瀕している」という捉え方が間違いかもしれない。ハラリは「18世紀には、人間至上主義が世界観を神中心から人間中心に変えることで、神を主役から外した。21世紀には、データ至上主義が世界観を人間中心からデータ中心に変えることで、人間を主役から外すかもしれない」と書いている(人間至上主義と訳されているのはヒューマニズムhumanismのことである)。

 私たちはサピエンスに見切りをつけてホモ・デウスへの道を歩みたいのか。あくまでも〝人間らしい〟サピエンスに止まりたいのか。だとすれば、ホモ・デウスによる支配を免れる方法は何か。一番いいのはホモ・デウスを誕生させないことではないのか。ホモ・デウスをめざす人には、アップグレードに向かうとしてかえってダウングレードしてしまったり、極端な場合、怪物になったり壊れてしまったりする危険も待ちかまえている(この点で、これもずいぶん昔に書かれたオルダス・ハックスリイ『すばらしい新世界』の先駆性に舌を巻く)。

 ハラリは、幾何学で言えば、鋭い補助線を一本引いて、歴史上の今を私たちに見せてくれたと言っていい。そして、私たちと言えば、未曽有の岐路に立たされていながら、それに気づきもせず、したがって真剣にも考えていない、というのがハラリのいらだちだと思われる。

 著者はサピエンス→ホモ・デウスへの動きにブレーキをかけるのは難しいと考えているようである。まずブレーキがどこにあるのか、誰も知らない(いろんな分野で起こっているシステムの変化を全体として見ている人はいない)、仮にだれかがブレーキを踏むことに成功したら、経済は崩壊し、社会も運命を共にするだろうと。

 しかし、手をこまねいているしかないと、言っているわけではない。ポーの「メルシュトリームの大渦」の話で言えば、渦に翻弄されながらも周囲を冷静に観察し、自らの生き方を決断すべきなのである。ハラリによれば、それこそが「歴史」を研究する意味である。

「歴史の研究は、私たちが通常なら考えない可能性に気づくように仕向けることを何にもまして目指している。歴史学者が過去を研究するのは、過去を繰り返すためではなく、過去から解放されるためなのだ」、「新しいテクノロジーの使用に関してある程度の選択肢があるからこそ、今何が起こっているのかを理解して、自ら決断を下し、今後の展開のなすがままになることを避けるべきなのだ」。

 彼の意図は以下に明確に示されている。

「本書で概説した筋書きはみな、予言ではなく可能性として捉えるべきだ。こうした可能性のなかに気に入らないものがあるなら、その可能性を実現させないように、ぜひ従来とは違う形で考えて行動してほしい」、「データ至上主義の教義を批判的に考察することは、21世紀最大の科学的課題であるだけでなく、最も火急の政治的・経済的プロジェクトになりそうだ。生命をデータ処理と意思決定として理解してしまうと、何かを見落とすことになるのではないか、と生命科学者や社会科学者は自問するべきだ。この世界にはデータに還元できないものがあるのではないだろうか?意識を持たないアルゴリズムが、既知のデータ処理課題のすべてにおいて、意識を持つ知能をいずれ凌ぐことができるとしよう。その場合、意識を持つ知能を、意識を持たない優れたアルゴリズムに取り替えることによって、失われるものがあるとしたらそれは何だろうか?」

 未来に、人種差別や性差別から解放され、動物をはじめとする自然と共生する、それこそ人間らしい生活を築き上げるためには、まさに待ったなしで英知を結集すべき時だということだろう。

オルダス・ハックスリイ『すばらしい新世界』(早川書房、原著1934)
すばらしい新世界〔新訳版〕 (ハヤカワepi文庫)

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