名和「後期高齢者」(17)

専門家との相性

 レイパーソン(すなわち患者)であっても専門家との付き合いはある。たとえば「先生」(すなわち医師)と。ここでは双方の相性というものが介在する。前回はここまで触れた。患者からみても先生は多忙。世迷言を並べ立てて先生の貴重な時間を奪うことは失礼という分別くらいはある。だから私は、診察をうける場合には、メモを持参し、余計なことは喋らないようにしている。メモを作るのは、当方の呆けで話がそれてしまうことを恐れるから、そして肝心の診断結果を生呑み込みしたまま帰ってくることがないようにしたいから。

 とはいいながらも、ついつい、先生に余計なご負担をかけてしまうことがある。いつのまにか先生に生半可な問い掛けをしている。先生は面白がってそれを受けてくれる。こんなとき、先生との相性がよい、ということになるのだろう。以下は、その例。

 ケースA:話題は、鎮痛剤の処方についてであった。私は、T剤が自分には効くと思い込んでいた。先生は教えてくれた。どんな薬でも副作用がある。いっぽう、T剤の効果はじつはあいまいである。その効用対非効用の比はきわめて大きい。だから、その服用を止めたほうがよい、と。私がつい反論した。プラシーボ(偽薬)というものもあるでしょう。本人にとっては効くのだから、ぜひ処方をお願いしたい。

 さらにお尋ねした。もし効用がなければ、薬局法では認められていないでしょう、と。先生は応えた。この画面を見てごらん、と。そして欧米諸国における、T剤の評価をつぎつぎと検索してみせた。私は外国語には、とくに専門用語には疎かったので、脱帽するだけだった。だが、先生のひたむきな姿勢に打たれた。

 ケースB:漢方の先生が語ってくれたことがある。漢方の歴史2000年というが、その成果の大部分は寿命が50歳だった時代の経験を集約したものだ。だから、老齢者にも効果をもつのかどうか、疑わしい、と。先生がなぜ問わず語りにこんなことをおっしゃったのか不明。これぞ相性のなせるわざか。

 ケースC:痛みの強さが問題となったことがある。胴回りの筋肉の痛みを訴えた私に、先生は問診票に10段階のどのへんになるか、それを記入せよと、ただし痛み「10」とは耐えられない痛みとして、と示した。これは私にとっては難問だった。現に私は先生と話をしている。とすれば「10」という答えはないだろう。

 私は先生に言った。体温計のような体調を指数化する装置はないのでしょうか。たとえば、「痛み計」というような。先生は苦笑いしながら、だから触診がある、と応じた。そして、私を横臥させ、全身にわたり、筋肉の反射を確かめ、くわえて刷毛で触覚の有無を調べた。

 痛みの指標化にもどる。じつは私は米国の法廷で、fMRIの画像が痛みをもつ証拠になるかどうかという論争があったことを知っていた。とすれば、fMRIの画像を痛み計の替わりに使うことはできないのか。たまたま「痛みの機能的脳画像診断」という論文を見つけたので読んでみた。

 この論文はレイパーソンには難解ではあるが、「痛み計」の実現可能性については肯定的であるかにみえる。くわえてfMRIによる画像診断も提案されている。ただし、その厄介さも紹介されている。

 まず、痛みの定義だが、それにはその部位や強度を弁別する感覚的な要素、不快感をもたらす情動的な要素、注意や予知とかかわる認知的な要素などと関係し、それも活発化であったり、抑制的であったりするという。痛がる写真を見せられただけで痛みを感じたり、注射のときに「チョットチクットシマス」と言われると痛みを抑制されるのも、その例であるという。

 話はさらにそれるが、プラシーボがどんな形で痛みの伝達を変えるのかという点で、論争が存在するらしい。 この解明のためにfMRIによる実験が役立ったという論文をみつけた。レイパーソンの私にその当否を判断する能力はないが、すくなくともこの論文をたどっているあいだ、私は自分の痛みを忘れることができた。私をこんなところまで誘導してくれた先生に敬意を表したい。

【参考資料】
Tor D. Wager  et  al.‘Placebo-Induced Changes in fMRI in the Anticipation and Experience of Pain‘, “Science”, v. 303,  pp. 1162-1167  (20  Feb. 2004)
名和小太郎「脳fMRIはハイテク水晶体か」『情報管理』, v.52, n.1, p.55-56 (2009)
福井弥己郎・岩下成人「痛みの機能的脳画像診断」、『日本ペインクリニック学会誌』、v.17,  n.4 , p.469-477  (2010)

 

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