<?xml version="1.0" encoding="utf-8"?>
<feed version="0.3" xmlns="http://purl.org/atom/ns#" xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/" xml:lang="en">
<title>サイバー閑話</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.cyber-literacy.com/blog/" />
<modified>2009-12-23T14:36:32Z</modified>
<tagline></tagline>
<id>tag:www.cyber-literacy.com,2010:/blog//1</id>
<generator url="http://www.movabletype.org/" version="3.33-ja">Movable Type</generator>
<copyright>Copyright (c) 2009, yano</copyright>
<entry>
<title>「不信」も「悪意」も増幅するネットの力（09/12）</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.cyber-literacy.com/blog/archives/2009/12/0912.html" />
<modified>2009-12-23T14:36:32Z</modified>
<issued>2009-12-23T14:19:45Z</issued>
<id>tag:www.cyber-literacy.com,2009:/blog//1.146</id>
<created>2009-12-23T14:19:45Z</created>
<summary type="text/plain">　前回、世界的なボランティアネットを築き上げている若者たちを紹介し、彼ら「デジタ...</summary>
<author>
<name>yano</name>
<url>http://www.cyber-literacy.com/</url>
<email>yano@cyber-literacy.com</email>
</author>
<dc:subject>雑誌『広報』バックナンバー</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://www.cyber-literacy.com/blog/">
<![CDATA[<p>　前回、世界的なボランティアネットを築き上げている若者たちを紹介し、彼ら「デジタルネイティブ」には、ネットの向こう側にいる人びとへの「信頼」と、インターネットという技術への「信仰」があると述べた。一方で、「学校裏サイト」や「プロフ」などにアクセスしている日本の子どもたちに顕著なのが「ネットの特性への無頓着」である。</p>]]>
<![CDATA[<p>　信頼する者同士の善意のむすびつきはすばらしい結果を生むし、インターネットは世界中の善意を一か所に結びつける可能性をもっている。これを過小評価するのは間違いだが、そこに「不信」や「悪意」が入り込むと、負のスパイラルが起こる。その不信や悪意が、きわめて入りやすいのもインターネットの特徴である。小さな力が大きく増幅されることに、インターネットの長所も、危うさもある。</p>

<p>学校裏サイトとプロフ</p>

<p>　学校裏サイトは2002年ころからあるようだが、そこに書きつけられる生徒同士の誹謗中傷や、わいせつ画像、いじめなどの問題が顕在化したのは2006年からである（佐世保市で小学六年生の女子生徒が級友に切りつけて殺した事件は2004年だった）。</p>

<p>　社会的関心が高まり、親や教師の監視の目が行き届くようになって、大きな話題になることは少なくなったが、一方で、情報発信手段が多様化、分散化したり、鍵（パスワード）をつけて子どもたちだけの世界に潜行したりもしている。</p>

<p>　すでに古い数字だが、文部科学省が2008年3月に発表した「<a href="http://www.mext.go.jp/b_menu/toukei/001/index48/002.htm">青少年が利用する学校非公式サイトに関する調査報告書</a>」によれば、○○中学、××高校などのように具体的な学校を名乗っているものや、「学生の性知識」、「高校生広場」などの看板を掲げ、地域を問わず多くの中高生を集めているものなど形態はさまざまだが、学校裏サイト（報告書では「学校非公式サイト」）は、全体で3万8260あった。2007年度の学校基本調査による全国の中高等学校（中高一貫校も含め）は1万6300あり、その2.3倍にあたる学校裏サイトがあることになる。</p>

<p>　もっとも、同調査で並行して行った群馬、兵庫、静岡の3県の2400の中高校を選んで行ったアンケート調査によると、回答者1522人中、学校裏サイトを知っていたのが33％、閲覧したのは23％、実際に書き込んだのはわずか3％である。学校裏サイトは全国的に多数存在しているが、それに関与している生徒はごくわずかだとも言える。しかし、その影響が無視できないわけである。</p>

<p>　また東京都教育委員会が2009年10月末で集計した結果では、具体的な学校名を名乗った、いわゆる学校裏サイトが、高校で92％、中学校で68％、小学校でも20％あったという。</p>

<p>　ちなみに、プロフというのは自分のプロフィールを書きつける掲示板で、一般に自己紹介サイトと呼ばれる。一時、話題になった「前略プロフィール」と呼ばれるプロフができたのが2004年である。自分の名前、学校名、身長、趣味や血液型などを書き込んで自己紹介し、友達や異性との交流を求めるもので、プライバシーを無防備にさらけ出して、犯罪に巻き込まれたり、人気を得るために自分のあられもない写真を掲載して、未成年者自身がわいせつ情報を提供したりする行為が頻発しているのは、すでによく知られている。</p>

<p>公開されていることに無頓着</p>

<p>　これらの学校裏サイトやプロフなどがはらむ問題点をあげておこう。</p>

<p>①関係のない第三者が見ているという意識がない。<br />
　あくまでも仲間内のおしゃべりという感覚で書き込んでいるので、それらの書き込みを学校の先生や保護者が見ているという意識が希薄である。</p>

<p>②書いたことが他人を傷つけることに鈍感である。<br />
○田花子、中川×男など、一部を伏せただけで匿名にしたと考えて、気軽に悪口を書いている。生身の相手を眼のあたりにしていないために、言葉の暴力に対して警戒感がないと言える。</p>

<p>③あっけらかんと個人情報を公開する。<br />
　ストーカーなどの犯罪に巻き込まれる例が多い。</p>

<p>④簡単にお金が入ることになれている。<br />
　サイトには出会い系サイト、消費者金融、美容整形、わいせつ画像、アダルトグッズなどの広告が自動配信され、それを訪問者がクリックすることで管理人に広告収入が入る。</p>

<p>⑤独りで書きこむのでブレーキが効かず、暴走しやすい。<br />
いつでもどこからでも、ケータイから気軽に作成・書き込みできるために、どうしても過激化する傾向がある。また、過激であればあるほどサイトはにぎわい、広告収入も増えるので、管理人も過激な情報を喜ぶ。</p>

<p>⑥外から入り込んでくる悪意の大人に無警戒である。<br />
　広告ばかりでなく、友だちのふりをして女生徒に近づき、誘い出して暴行するケースは枚挙にいとまがない。</p>

<p>若者たちが生きる社会</p>

<p>　前回、プラスに働いたインターネットの長所が、ここでは逆にマイナスに働いている。インターネットを使いこなして社会貢献に取り組んでいる若者たちにも同じような危うさはあるだろうし、逆に、学校裏サイトに接している若者たちにも、インターネットをプラスに使っている例がたくさんある。だから両者を分けて考えることはできないが、両者には社会的な分極化傾向も反映しているようにも思われる。</p>]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>若者の新しい生き方を無視できない（09/11）</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.cyber-literacy.com/blog/archives/2009/12/0911.html" />
<modified>2009-12-23T14:19:33Z</modified>
<issued>2009-12-23T14:13:19Z</issued>
<id>tag:www.cyber-literacy.com,2009:/blog//1.145</id>
<created>2009-12-23T14:13:19Z</created>
<summary type="text/plain">　 生まれながらにインターネットやゲーム、ケータイなどのITに親しんでいる世代を...</summary>
<author>
<name>yano</name>
<url>http://www.cyber-literacy.com/</url>
<email>yano@cyber-literacy.com</email>
</author>
<dc:subject>雑誌『広報』バックナンバー</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://www.cyber-literacy.com/blog/">
<![CDATA[<p>　 生まれながらにインターネットやゲーム、ケータイなどのITに親しんでいる世代を「デジタルネイティブ（デジタル原住民）」と呼び、これに対して、IT普及以前に生まれてITを身につけようとしている世代は「デジタルイミグラント（デジタル移民）」だという考え方がある。ITを境に年長者と若者がすっかり主客逆転したかのようである。</p>]]>
<![CDATA[<p>　インターネットが私たちの周辺にまで影響を及ぼし始めたインターネット元年（1995年）に生まれた子どもたちが、2009年では14歳、1995年に18歳だった若者は32歳になる。このように生まれたときから、あるいは多感な青少年時代からインターネットに接してきた若者たちが、すでに立派な大人になりつつあるわけである。</p>

<p>BC・ACという時代区分</p>

<p>　私はサイバー空間出現以前と以後をBC（Before Cyberspace）とAC（After Cyberspace）に分けていいほどに、サイバー空間登場の意味は大きいと何度も言ってきた。だからこそサイバー空間の現実世界とは異なる特徴を理解しなければならず、その能力、サイバーリテラシーが重要なのだが、すでに若者たちは、そのサイバー空間の“現実”を生きており、「デジタルネイティブ」という命名には、なるほどと思わされるところがある。<br />
　<br />
　デジタルネイティブ、デジタルイミグラントという考えを最初に提唱したアメリカの作家、コンサルタントのマーク・プレンスキーは、教育について論じながら、「今の若者たちは本を読むよりもコンピュータ・ゲームや電子メール、インターネットに親しんでおり、従来の教育方法ではもはや教えられない」、「生徒の頭は我々とは物理的に変わってしまった」、「彼らはデジタルを母国語とした新しい人種である」と言った（1）。<br />
　<br />
　さらにこうも言っている。「デジタル移民はいくらデジタル語を勉強しようと、どうしても古い習慣から来る独特の“アクセント”から抜けられない」。<br />
　<br />
　たとえば、電子メールやドキュメントをいったんハードコピーにしてからチェックする、インターネットの情報を二次的にしか参照しない、ひどい場合は、「私の電子メールを見た？」とわざわざ電話してくる、などなど。こういう強い“アクセント”をもっている人間がデジタルネイティブに教えるのは無理である、として彼は、教育手段としてゲームを利用することを勧めた（2）。<br />
　<br />
　このデジタルネイティブという言葉は、ほどなくしてIT分野の調査研究を行う国際企業、ガートナーなどによって、新しい企業戦略の対象として喧伝されるようになった。彼らは「（今後のビジネスを成功させるためには）デジタルネイティブを意識したIT戦略が急務」と説いたが（3）、たしかにこれからますますデジタルネイティブが増えてくることを考えると、ネット世代に焦点を当てた考えた方が現実的だとも言えるだろう（4）。</p>

<p>デジタルネイティブの活躍</p>

<p>　デジタルネイティブはどのような行動をとるのだろうか。NHKが2008年11月に「デジタルネイティブ　次代を変える若者たち」と題する番組を放映したとき、ウエブで行った「デジタルネイティブ度チェック」（表）を見れば、おおよその見当はつくだろう。同取材班がまとめた『デジタルネイティブ』（ＮＨＫ出版、2009）から引用したものだが、本書にはデジタルネイティブの活動ぶりの一端として、以下の話が紹介されている。<br />
　<br />
　市民運動を行う若者たちのSNS、ティグ（TIG=Taking IT Global）は、2000年に「今の世界を覆う問題を自分たちの手で解決していかなければ、自分たちの未来は暗い」と考えたカナダ・トロントの十代の若者2人が立ち上げたもので、最初は英語版だけだったが、今ではフランス語、イタリア語、中国語など12カ国版がある。世界200以上の国と地域から22万人の若者が参加しており、稼働しているプロジェクトは約2000。20名弱の若者で運営され、システムの維持改修費など年間1億5000万円ほどの経費は大手IT企業などからの資金提供だという。活動が活発化するにつれ、各種の国際会議にも積極的に参加、しかも会議をリードする場合も多いとか。</p>

<p>　設立者の1人、ジェニファー・コリエロ（28）は、2005年のダボス会議（スイスで毎年開かれる国際会議）で「新しい市民運動像を築きあげた」として、「次世代のリーダー」に選ばれた。彼は「私たちは、インターネットの力を最大限活かし、若者たちの意欲を喚起し、若者たちを巻き込んでいくことで、世界を変えていきたいと思っています。もし、大人たちが、インターネットを、単に『生活に多少役に立つツール』としてとらえているとすれば、そうした見方を覆したいのです。私たち若者は、より良い世界を築くためにインターネットが利用可能なのだ、ということを証明したいのです」と語っている。</p>

<p>不特定多数への信頼</p>

<p>　ここには、金儲けのビジネスではなく、国際的な社会貢献にインターネットを使おうとしている若者たちがいる。先進国、開発途上国一体となった、これまでにはない新しい広範な動きで、それを支えているのがインターネットである。背景には、ウエブ2.0でも話題になった「ネットの向こう側にいる不特定多数への信頼」と「技術への信仰」があるとも言えよう。これは、「デジタルネイティブ」たちのすばらしい側面、インターネットの光の部分だと言っていい。</p>

<p>（1）”<a href="http://www.marcprensky.com/wrITing/Prensky%20-%20DigITal%20Natives,%20DigITal%20Immigrants%20-%20Part1.pdf">DigITal Natives, DigITal Immigrants</a>”。2001年の発表。<br />
（2）後に『テレビゲーム教育論』（東京電機大学出版局、2007）と翻訳された著書も刊行している。<br />
（3）たとえば、「<a href="http://ITpro.nikkeibp.co.jp/article/NEWS/20061025/251769/">デジタルネイティブを意識したIT戦略が急務に</a>」参照。ここではデジタル移民に対して「デジタルイミグレイト」という表現を使っているが、原語がそうなのかどうかは不明。<br />
（４）ドン・タプスコット『デジタルネイティブが世界を変える』（原題” Grown up DigITal”、 栗原潔訳、翔泳社、2009）も同じような趣旨である。</p>

<p>＜表＞「デジタルネイティブ度チェック」<br />
（全部で20問ある。1問5点として、自分は何点とれるか、チェックしてみてください）</p>

<p>●インターネットで知り合いになって、会ったことがある人が5人以上いる<br />
●朝起きると最初にするのは、メールをチェックすることだ<br />
●出かけたり、買い物をしたり、何か行動する場合は、まずネットで検索する<br />
●デジカメなどで撮影した写真は、写真共有サイトにアツプロードしている<br />
●ネットで買い物をするときに、クレジットカード番号を入力することにまったく抵抗がない<br />
●音楽は、ネットで購入したり、入手することが当たり前になっている<br />
●定期的にチェックするブログが5つ以上ある<br />
●ブログにコメントを付けたことがある<br />
●自分のブログをもっていて、定期的に更新したり、トラックバックを張ったりしている<br />
●mixiやfacebookなどのSNSに複数参加している<br />
●SNSでは自らコミュニティーを主宰している<br />
●ウィキペディアの編集をしたことがある<br />
●インスタントメツセージで友人と日常的にチヤツトする<br />
●携帯電話は会話するよりも、メールすることのほうが圧倒的に多い<br />
●面白い動画やサイトを、すぐに友人にメールなどで知らせることが楽しい<br />
●友人、知り合いに電話番号を教えるときは、携帯電話の赤外線通信で行う<br />
●ネットでニュースをフォロ―しているので、紙の新聞は読まない<br />
●テレビはいったん、ハードディスクレコーダーに録画してから見るのが基本だ<br />
●学校（小、中、高）では、パソコンの授業があった<br />
●いまの彼女（彼氏）はネットで知り合った<br />
</p>]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>メディア激変と「総メディア社会」（情報ネットワーク法学会ML129・コラム）</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.cyber-literacy.com/blog/archives/2009/11/ml129.html" />
<modified>2009-11-19T07:10:30Z</modified>
<issued>2009-11-19T06:59:39Z</issued>
<id>tag:www.cyber-literacy.com,2009:/blog//1.144</id>
<created>2009-11-19T06:59:39Z</created>
<summary type="text/plain">  今年は作家、松本清張の生誕100年とかで、再映画化された『ゼロの焦点』（11...</summary>
<author>
<name>yano</name>
<url>http://www.cyber-literacy.com/</url>
<email>yano@cyber-literacy.com</email>
</author>
<dc:subject>スクラップ</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://www.cyber-literacy.com/blog/">
<![CDATA[<p>  今年は作家、松本清張の生誕100年とかで、再映画化された『ゼロの焦点』（11月中旬公開）の全面広告が、某新聞に4ページにわたって出ていた。そこに連携して、小学館が清張作品傑作映画ベスト10のDVD広告を出していたが、あとは映画、音楽、自然食品ばかりで、出版社による本の宣伝はなかった。これまでだと、こういう場合には必ず「松本清張全集」とか「清張作品全文庫」など本の広告があった。企画者があえて書籍を外したのか、あるいは広告が集まらなかったのか、事情はわからない。</p>]]>
<![CDATA[<p>　11月初旬にウインドウズの新しい日本語フォント「メイリオ」を開発した、ロンドン滞在30年余のデザイナー、河野英一さんの話を聞く機会があった。「メイリオ」は「明瞭」から名づけられ、河野さんは「和文英文混在の日本語を、横書き画面で美しく読むためにメイリオを開発した」と言っていた。</p>

<p>　ちょっとした話題にも、紙から電子へと移行しつつある時代を強烈に感じざるを得ない今日このごろ、である。河野さんの場合、海外、それもヨーロッパ在住の、大組織にも属さない日本人が、マイクロソフトというアメリカの（というよりグローバルな）企業に日本語フォントを依頼され、日本文化の発展に寄与するという図式もまた面白い。<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　◇<br />
　我が国情報社会論のパイオニア的存在である増田米二が1985年に出版した『原典・情報社会』（TBSブリタニカ）は、近い将来におけるマスメディアの衰退ぶりを大胆、的確に予言して、さわやか（？）なほどである。この本の先駆性は、梅棹忠夫の「情報産業論」（1963年発表）に次ぐものだと思うが、この辺はさておき、ここではマスメディアに関連する個所を抜粋して紹介しておこう。</p>

<p>「私なりの大胆な見通しをのべれば、これからの約二十年ないし五十年間が本格的な情報社会への変革期で、これはまず価値観の転換からはじまり、これに雁行する形で、社会・経済構造の変革が進み、早ければ二十一世紀初頭、遅くとも半ばごろまでには日本で名実ともの高度情報社会が実現するだろう」（p52）、「遅くも二十一世紀までには情報ユーティリティは現在の近代工場に代わって、人類社会の社会的シンボルになっていることだろう。そのころには何千、何万という多種多様な情報ユーティリティが出現しており、私たちは、現在の新聞やテレビに代わって、毎朝まず自宅の端末機を操作して、情報ユーティリティから必要な情報を入手するのが日課になっているだろう」（p54）、｢情報ユーティリティ、ソフトウエア、TSSサービス、計算センターなど、各種の情報処理サービスに関する産業も、空前の発展をとげるであろう。これに対し、現在、情報産業で主位を占めている新聞や出版などの、いわゆるマスコミ産業は、むしろこれからは停滞産業の部類に入っていくと思われる｣（p126）</p>

<p>　彼が「情報ユーティリティ」と呼んだシステム（情報インフラ）が、いまインターネットによって実現されている。1985年という時代を考えると、彼の予言は鋭い。<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　◇<br />
　私は、今年5月『総メディア社会とジャーナリズム─新聞・出版・放送・通信・インターネット』（知泉書館）を出版し、「マスメディア社会から総メディア社会への移行」を考察した。</p>

<p>　簡単に説明すると、マスメディア社会にあっては、メディア＝マスメディアで、そこではプロのメディア企業（送り手）が作り上げたコンテンツが、そのまま受け手に伝えられていた。総メディア社会では、メディア環境全体が巨大メディア企業とパーソナルメディアによって占拠され、送り手＝受け手である。通信がメディアの主役に躍り出て、従来のマスメディアはメディア地図の一角を占めるに過ぎない（サイバーリテラシー研究所のウエブの<a href="http://www.cyber-literacy.com/ja/about/index.html">「総メディア社会の構図」</a>を参照してください）。</p>

<p>　私の関心は、総メディア社会における「表現の自由」とジャーナリズムのあり方であり、2007年暮れに発表された総務省研究会（堀部政男座長）の「情報通信法」構想についても、その意義と問題点を考察している。これからのジャーナリズムのあり方として「ジャーナリズム・プラットホーム」構想も提案した。<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　◇<br />
　ところで、これからが本論だが（^o^）、本書は既存マスメディアにとっての” 苦い”事実を指摘しているためか、一部に高く評価してくれた人がいた反面、新聞、雑誌などマスメディアでの書評はまったくなかった。無視、あるいは敬遠されていたわけだろうが、このほど、はしなくも情報通信関係者の目にとまり、2009年度の<a href="http://www.okawa-foundation.or.jp/index.html">大川出版賞</a>を受賞した。</p>

<p> 　当のメディア関係者には見向きもされなかった、メディアやジャーナリズムを扱った本が、かえって勃興しつつある情報通信関係者の目に止まり、顕彰されたことをすなおに喜びながら、これもまた現代日本のメディア状況を浮き彫りにしていると、つくづく思う今日このごろ、なわけである。</p>

<p><br />
</p>]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>ケータイ語を支える日本語入力システム（09/10）</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.cyber-literacy.com/blog/archives/2009/11/0910.html" />
<modified>2009-11-19T06:59:32Z</modified>
<issued>2009-11-19T06:47:34Z</issued>
<id>tag:www.cyber-literacy.com,2009:/blog//1.143</id>
<created>2009-11-19T06:47:34Z</created>
<summary type="text/plain">　インターネットの世界は日々めまぐるしい変転を見せているが、目下の傾向は、①パソ...</summary>
<author>
<name>yano</name>
<url>http://www.cyber-literacy.com/</url>
<email>yano@cyber-literacy.com</email>
</author>
<dc:subject>雑誌『広報』バックナンバー</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://www.cyber-literacy.com/blog/">
<![CDATA[<p>　インターネットの世界は日々めまぐるしい変転を見せているが、目下の傾向は、①パソコンからネットワークへ、②パソコンからモバイル端末へ、という2つの流れに集約できるだろう。</p>]]>
<![CDATA[<p>　パソコンからネットワークへという動きは、すでに何度も触れてきたように、現実世界からサイバー空間へ、と表現することもできる。クラウド・コンピューティングがその典型で、企業レベルでは、マイクロソフトからグーグルへ、でもある。もちろん長い間、IT業界をリードしてきたマイクロソフトが手をこまねいているわけではなく、検索エンジンに関してはヤフーとの提携を深め、グーグルに対抗しようとしている。</p>

<p>　これはこれで熾烈な覇権争いが続いているわけだが、今回は第2の側面、パソコンからモバイル端末へという動きに関連して、日本のケータイが採用している日本語入力システムについて紹介する。</p>

<p>ケータイ独自の方式</p>

<p>　たとえばパソコンで「先日はわざわざご来訪いただき、どうもありがとうございました。」という文章を入力するとき、まず「せんじつは」と入力して、これを「先日は」に変換、「わざわざごらいほういただき」、「どうもありがとうございました」というふうに文節ごとに変換するのが普通である。固有名詞や自分のよく使う表現などはあらかじめ単語登録しておく人が多いと思うが、基本はあくまで文節ごとの変換である。</p>

<p>　同じ文章を手元のケータイで入力してみる。「せ」と入力すると、画面下に予測候補として、精神、静養、せよ、全身、世界、先生、ぜひ、贅沢、政界などの単語がずらりと出てくる。ここに「先日」がなければ、「せん」まで入力する。先週、全然、先生、選手、前年、センターなどの候補が、濁音とか、カタカナ、あるいは数字などの区別なく、「せん」、あるいは「ぜん」に関連する言葉がいくつも出てくる（last weekもある）。たいてい、この辺で「先日」が出てくると思うが、そこでも出てこなければ「せんじ」まで入力すれば、まず間違いなく出てくるだろう。ここで「先日」を選択する。<br />
「先日は」の次に「わ」を打つと「わざわざ」と出て、「ごらいほう」から「ご来訪」を選び、次に「あ」と打つと「ありがとう」が出てくる。これを選択すると、次の語句「ございました」、あるいは「ございます」といった句が自動的に出てきて、最後に「。」も出てくる。</p>

<p>POBoxと連想入力</p>

<p>　ケータイ・メールを利用する人にとっては、もはや当たり前の話だと思うが、この入力システムそのものが開発されたのはそれほど古くはない。「POBox」と呼ばれるこの文章入力補助機能は、現在、慶応大学環境情報学部教授の増井俊之氏が1996年から2003年にかけて在籍したソニーコンピュータサイエンス研究所時代に開発したのだという。その増井氏に最近お会いしたが、彼によれば、これは一種の連想入力で、単語の先頭部分を入力すると、その単語の使用頻度や過去の入力内容を参考にして、ユーザーが入力したい単語を予測して候補を表示するようになっている。候補表示とその順位は、当人が過去にどのような文章を書いたかの履歴によっても決まる。だから、2度目に同じ文章を入力しようとすると、「せ」を打っただけで「先日は」、「わざわざ」、「ご来訪」、「いただき」、「どうもありがとうございました」、「。」と一気に文章が完成する。</p>

<p>　パソコンでは長らく日本語変換という言葉を使ってきたが、ケータイは「変換」ではなく「選択」と呼んだ方がぴったりする。増井氏は2006年にはアップルに移り、アップルのモバイル端末、iPhone（アイホン）の入力システムも構築している。もっとも、この連想入力方式は、いまではほとんどのケータイで採用されている。</p>

<p>　たとえば若者のラブメールの場合、相手の名前も、「デート」とか「好き」とか「嬉しい」とか「ちゅ」とか「○○たん」とかいう、いつも使う言葉や言い回しはすぐ出てくるし、♡とか喜怒哀楽を示す顔文字なども、一度使えば、次から候補に出てくる。</p>

<p>　パソコンの入力ソフト（FEP）に比べるとずいぶん柔軟だが、候補一覧には自分のよく使う単語が優先的に表示され、性癖がうかがわれるところがちょっと不気味でもある。</p>

<p>ケータイ文化にも一役</p>

<p>　これが日本語入力独特の工夫だというところがおもしろい。ケータイを使ってメールを書く場合、最初は親指入力そのものに戸惑うし、コピー、ペースト、文章の移動などの操作が面倒で、パソコンになれた人にはずいぶん書きにくいが、なれてくると、なかなか捨てがたい味がわかってくる。日本語入力という点でも、ケータイは新しい文化を築き上げているといえるだろう。ケータイはケータイでパソコンとはまた違う道具であり、人びとの情報生活におよぼす影響もまた異なったものになるだろう。</p>

<p>　ケータイ・メールには、文章というよりおしゃべりに近い、大人語というより幼児語に近い、遊びの要素が強い、などいくつかの特徴がある。たとえば、三宅和子「ケータイ語―ことば遊び文化の落とし子」（『文藝春秋』季刊2008年秋号『素晴らしき日本語の世界』所収）に「代表的なケータイ・メールのことば遊び」という表が掲げられているが、こういった表現が生まれてくる背景に、定型文章を書くには便利だが、表現がどうしても画一化してしまうケータイ独自の入力方式があるとも言えるのである。<br />
</p>]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>伝統の知恵を新技術にあわせて切り刻む（2009/9）</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.cyber-literacy.com/blog/archives/2009/10/20099.html" />
<modified>2009-10-09T03:08:17Z</modified>
<issued>2009-10-09T03:05:36Z</issued>
<id>tag:www.cyber-literacy.com,2009:/blog//1.142</id>
<created>2009-10-09T03:05:36Z</created>
<summary type="text/plain">　前回に続いて、技術と社会の関係について考えてみよう。技術革新は常に既得権益をも...</summary>
<author>
<name>yano</name>
<url>http://www.cyber-literacy.com/</url>
<email>yano@cyber-literacy.com</email>
</author>
<dc:subject>雑誌『広報』バックナンバー</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://www.cyber-literacy.com/blog/">
<![CDATA[<p>　前回に続いて、技術と社会の関係について考えてみよう。技術革新は常に既得権益をもつ旧勢力から根強い抵抗を受ける一方で、新しい技術によって恩恵を得るべき新勢力からは気のない支援しか受けられない、というのはよく言われることだが、ここで問題にしたいのは、新しい技術が古い伝統や知恵を破壊しがちなことである。</p>]]>
<![CDATA[<p>　ｅラーニングとはインターネットを利用した遠隔教育、すなわちオンライン教育で、私が勤務するサイバー大学はその先駆的試みでもある。</p>

<p>ｅラーニングのメリット</p>

<p>　ｅラーニングではプレゼンテーション・ツール（たとえばマイクロソフトのパワーポイント）を使って教材をつくり、それを講師の動画に連動させて流す。教材は、いわば教室の黒板だが、黒板では教師がリアルタイムで重要箇所を書きつけるが、教材はそれをあらかじめ用意しておくところが違う。</p>

<p>　私の経験によれば、この教材づくりは実にたいへんで、準備にふつうの講義の3倍はかかる。また講義中に冗談やだじゃれ、あるいは日々の出来事をめぐる雑談などは憚られるという事情もあり、内容はおそらく通常の授業の2倍は入る。しかも双方向システムで毎回、ちょっとしたテストを行ったり、レポートを書かせたりするから、きちんと受講する学生は、知識習得という点に関して言えば、通常の授業のたぶん数倍は学べると思う。</p>

<p>　もちろん対面授業でないことのデメリットは十分認識している。このデメリットを補うメリットをいかにうまく引き出すか、あるいは対面教育との上手なすみわけがｅラーニング教育の要諦だと言ってもいい。どこからでも、自分の空き時間を利用して学べること自体、働きながら勉強しようとする人にとっては大きなメリットである（サイバー大学には社会人の学生が多く、しかも勉学への熱意は非常に強い）。もっとも、ｅラーニングそのものを論じるのは別の機会に譲り、ここで教材づくりという一つの作業を通して私が感じたことを述べておこう。</p>

<p>オンライン教材と教科書</p>

<p>　オンラインの教材は黒板代わりでもあるが、教科書に代わるものとも言える。ところが、この教材の作り方が教科書とはまるで違う。教科書を作るにはプロの編集者がいて、どちらかといえばアマの教師を補佐して、内容も、体裁もそれなりのレベルに近づけてくれる。ところがｅラーニングでは、この種の編集のプロが介在するところは少ないようで、ID（インストラクショナル・デザイナー）とかCS（コンテンツ・スペシャリスト）を名乗る担当者がいるが、彼らはアプリケーションソフトのプロかもしれないが、教育や編集に関して言えば、どちらかというと素人である。きちんとしたディレクターを配し、編集のプロも要したプロダクションもあるので一概には言えないが、安く仕上げようという傾向が露骨で、いい作品を作ろうという意識は希薄である。</p>

<p>　黒板代わりと考えれば乱雑でもいいということかもしれないが、万人が情報発信できる時代の美しい情報環境を築き上げたいと考える私から見ると、まことに残念な事態という他はない。<br />
　<br />
　プレゼンテーション・ツールを使ったページの見出しの位置、本文枠の位置なども、上下左右のバランスなど一番美しい形を追求すべきだと思うが、それを望むと「いまのソフト（プログラム）では、そのようなことはできません」という言葉が返ってくる。技術でできないものは無理だと単純に考えており、従来の編集現場で大事にされてきた作品のデザイン、見やすさなどは平気で無視される。彼らにそのような現場で働いた経験がないから、それはそれでもっともなわけである。</p>

<p>　このことを大胆に一般化すると、技術の限界がそのまま作品の限界になり、それでしょうがないという技術本位の考え方が蔓延している。技術の欠陥を手作業で補おうとする気持ちもないし、そのノウハウもない。プロの矜持がないというよりも、プロとして養成されていない。流来のメディアづくりで培われたノウハウが、新しいオンラインメディアで踏襲されていないということでもある。</p>

<p>　かつてDTPによる本の編集に立ち会ったとき、出版社における編集技術の衰退に驚いたことがあるが、ここでは編集ノウハウはもはや消滅寸前で、メディア環境は劣化するばかりである。<br />
　<br />
　ちなみに、関連イベントなどでｅラーニングを喧伝している人たちの顔ぶれを見ても、教育のプロとか編集のプロというよりも、コンピュータのプロである場合が多く、ｅラーニングソフトを売り込みたい企業の思惑が先行しているようである（最近では大学のｅラーニング研究も進んでいるので、いずれは変わってくるだろうけれど）。</p>

<p>新旧システム間の人材交流</p>

<p>　既存マスメディアの衰退ぶりは、折にふれて言及しているように、「総メディア社会の進展図」に明らかだが、既存メディアで培われてきた編集をめぐる知恵や技術もまた失われてしまうのはもったいない。<br />
　<br />
　紙のメディアの衰退で既存の編集プロダクションは青息吐息である。一方で、ｅラーニング現場に、この種の人材が吸収されているという話はあまり聞かない。これは大いなる社会的損失ではないだろうか。激しいメディア地図の変容に見合った、効果的な人材交流の体制作りが必要なように思われる。<br />
</p>]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>クラウド･コンピューティング（2009/8）</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.cyber-literacy.com/blog/archives/2009/09/20098.html" />
<modified>2009-09-02T05:58:31Z</modified>
<issued>2009-09-02T05:50:14Z</issued>
<id>tag:www.cyber-literacy.com,2009:/blog//1.141</id>
<created>2009-09-02T05:50:14Z</created>
<summary type="text/plain">　クラウド・コンピューティングといって、データやプログラムをネットワーク上に置く...</summary>
<author>
<name>yano</name>
<url>http://www.cyber-literacy.com/</url>
<email>yano@cyber-literacy.com</email>
</author>
<dc:subject>雑誌『広報』バックナンバー</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://www.cyber-literacy.com/blog/">
<![CDATA[<p>　クラウド・コンピューティングといって、データやプログラムをネットワーク上に置くことがさかんになっている。そうしておけば、自宅でも、会社でも、海外でも、どこからでもデータにアクセスでき、作業も続けられる。複数の人間で共同作業もできて便利というわけだが、ここで記憶や記録をネットワーク上に蓄えることの意味を考えておこう。</p>]]>
<![CDATA[<p>記憶・記録をネットに蓄えることの意味</p>

<p>　クラウド・コンピューティングとは、ユーザーが自分のパソコンや会社のサーバーにインストールされたプログラムを使ったり、そこにデータを保存したりするのではなく、インターネット上の汎用サービスを受け、データもネットワーク上に置いておく仕組みである。クラウドは雲（cloud）のことで、コンピュータ・ネットワークを雲の形で図示することから来ている。</p>

<p>現実世界からサイバー空間へ</p>

<p>　パソコンからネットワークへの移行は、これまでもネットワーク・コンピューティングとか、ウエブサービスなどと呼ばれてきたが、2006年にグーグルのCEO、エリック・シュミットがクラウド・コンピューティングと名付け、アマゾン・コムなどが大規模なサービスを始めて、あらためて脚光を浴びるようになった。<br />
　<br />
　個人よりも企業が主たる相手で、その典型がサーズ（SaaS＝Software as a Service）である。インターネット上で提供されている企業会計や販売管理ソフトなどを使えば、自社でこれらのシステムを開発するのに比べ経費節減になるし、大掛かりなシステムを開発できない中小企業も、同じ性能のソフトを使うことができる。これらのソフトや膨大なデータを蓄積できるインフラ（サーバー）も用意されている。<br />
　<br />
　このクラウド・コンピューティングは、個人にもどんどん広まっている。アメリカでは、街を歩いていて思いついたこと、目についた看板、風景、音声など、あらゆるデータをその場でどんどんネットワーク上に蓄積、個人データベースを築き上げる動きもあり、音声や映像の検索機能も発達しているらしい。<br />
まさにすべてのデータが、現実世界からサイバー空間へ移行しつつある。</p>

<p>記憶をどこに蓄えるか</p>

<p>　私たちはこれまで記憶をどこに蓄えてきただろうか。歴史的には、以下の変遷をたどっている。<br />
　①自分の脳、あるいは身体 <br />
　②文字で書かれた記録―日記、書物 <br />
　③自分で管理するパソコン―ハードディスク、USBメモリー <br />
　④他人が管理するネットワーク―クラウド・コンピューティング</p>

<p>　文字が発明されたころ、これに反対した人はたくさんいて、たとえば、ギリシャの哲学者、ソクラテスはこう言っている。「現実には精神のなかにしかありえないものを、精神のそとにうちたてようとする点で、書くことは非人間的である」、「書くことは記憶を破壊する。書かれたものを使う人間は、｛精神の｝内的な手段としてもっていなければならないものをもたず、そのかわりに外的な手段によるために、忘れっぽくなる。書くことは精神を弱める」（1）</p>

<p>　中国の古書、『荘子』（天道篇）には、斉の桓公の逸話としてこんなことが書いてある（2）。<br />
 <br />
　桓公が座敷で書見していると、庭で仕事をしていた車大工がそれをのぞき込んで「殿様、何を読んでおられますんで」と聞いた。「聖人の言葉を学んでいるのだ」、「聖人はまだご存命で？」、「いや、とっくにお亡くなりになった」、「ということは、あなたは聖人のカスを読んでおられるわけですね」。 むっとする桓公に、車大工はこう言ったという。<br />
 <br />
　車をつくるときの木の削り方一つとっても、コツというものがあって、それは手ごたえでとらえ、心にうなずくだけ、言葉で伝えられるようなものではない。そのコツは子どもに伝えることはできず、子どもも私から受け継ぐことができない。だから七十歳の今も私は車を作っているのです。私の小さな経験から考えても、古の聖人は、伝えることのできない体験的な真理とともに、すでに世を去っており、したがって、いま殿様の読んでおられるのも、聖人のカスでしかない、と。<br />
　<br />
　仏教、とくに禅宗には不立文字という言葉がある。文字では表現できないものがある、という意味で、知識は肉体から離れることで、かえって大事なものを失うという警告でもある。近代法においては、「内心の自由」が保証され、心に思っただけで罰せられることはない。外面的なものは法、内面的なものは倫理で規制するというふうに、一種の分化が行われたわけだが、そのために内面の倫理の重みが減じた。</p>

<p>体験の内実が衰弱する恐れ</p>

<p>　さて、コンピュータはどうか。アメリカの大学教授は「コンピュータという不思議な機械の出現によって、検索できないものは何もない、だからすべてを忘れてもかまわないことになった今日、昔からの学問の本義はその根底から揺さぶられている」（3）と嘆いた。</p>

<p>　コンピュータを使うと言っても、当初はプログラムやデータは自分で管理できるパソコンに保存したから、それらはまだ身近にあったが、クラウド・コンピューティングでは、他人が管理するネットワーク上に置かれる。</p>

<p>　セキュリティ的にはかえって安心という面もあるようだが、結局は他人任せだから、ネットワーク・トラブルにでもなればお手上げである。しかし、すべてをサイバー空間に蓄えるやり方は、もっと深いところで私たちの感性に大きな影響を与えるように思われる。</p>

<p>　ネット中傷事件などでは匿名発言の「軽さ」が特徴的だが、インターネットの普及で「内心の自由」はさらに肉体から遊離され、自由になった。その結果が「実際には思っていない（心にもない）ことまで平気で言う」風潮である。ここには自分の発言に責任をとるといった近代的な精神も、他人を攻撃する自分に対する恐れといった前近代的な感性もない。</p>

<p>　言葉が言葉単独で浮遊しており、私たちの経験、体験の内実が衰弱している。このこととクラウド・コンピューティングとは、どこかでつながっていないだろうか。</p>

<p>注<br />
（1）プラトン『パイドロス』藤沢令夫訳、岩波文庫<br />
（2）福永光司『荘子 外編･中』（朝日新聞出版）による<br />
（3）ゲーリー・ガンバート『メディアの時代』石丸正訳、新潮社、原著1987</p>]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>出版業界への大日本印刷の攻勢（2009/7）</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.cyber-literacy.com/blog/archives/2009/08/20097.html" />
<modified>2009-08-02T04:44:57Z</modified>
<issued>2009-08-02T04:35:20Z</issued>
<id>tag:www.cyber-literacy.com,2009:/blog//1.140</id>
<created>2009-08-02T04:35:20Z</created>
<summary type="text/plain">　全体システムの長年に及ぶ制度疲労に悩む出版業界は、主役である出版社、取次、書店...</summary>
<author>
<name>yano</name>
<url>http://www.cyber-literacy.com/</url>
<email>yano@cyber-literacy.com</email>
</author>
<dc:subject>雑誌『広報』バックナンバー</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://www.cyber-literacy.com/blog/">
<![CDATA[<p>　全体システムの長年に及ぶ制度疲労に悩む出版業界は、主役である出版社、取次、書店が三つ巴の危機に見舞われてすでに久しい。そこへ傍流である印刷業界から、大日本印刷が大がかりな攻勢をかけている。</p>]]>
<![CDATA[<p>出版社、取次、書店、三つ巴の制度疲労に喝？</p>

<p>　大日本印刷の動きを年代順に並べてみよう。</p>

<p>　2008年8月、大日本印刷は書店の丸善への出資比率を51パーセントに引き上げ丸善を子会社化。あわせて図書館への販売を手がける取次、図書館流通センターとも提携強化へ。<br />
　2009年3月、書店、ジュンク堂の株式51パーセントを取得し、業務提携へ。<br />
　同年5月、出版社、主婦の友社の筆頭株主に。講談社、集英社、小学館などと共同でブックオフの株を29パーセント取得（大日本グループは16パーセント）。　　　</p>

<p>　出資が取次、書店、出版社と、出版3グループのすべてに及ぶばかりか、従来の出版流通システムの鬼っ子とも呼ばれる新古書店、ブックオフも巻き込んでいることが注目される。従来、印刷会社は出版社から書籍の印刷を受注するだけで、業界全体からみればむしろ傍流的存在だった。本や雑誌は、出版社がつくり、書店が売る。その間を取次が仲立ちし、配本から金融まであらゆる業務を担ってきた。</p>

<p>　この従来の出版システムが、本が売れなくなったという大状況と情報のデジタル化で、大きく揺れているのである。</p>

<p>　従来の小規模な書店（俗に駅前書店と呼ばれる）は、1970年代後半以降、年間1000店程度のペースで閉店に追い込まれてきた。これに代って進出したのが、郊外型書店やチェーンなどの大型書店である。店頭には取次のコンピュータ配本によって、ベストセラー、ハウツーもの、文庫や新書、雑誌などが並び、書店の風景は一変した。本好きな「読書人」が姿を消し、郊外型書店には同じような本ばかりが並び、「買いたい本がない」とも言われてきた。</p>

<p>　一方で、「本が売れないのに出版点数はほとんど変わらない」、「新刊点数は逆に大幅に増える」という異常事態が恒常化し、結果として40パーセントもの書物が売れないままに出版社に返本され、あえなく断裁（廃棄処分）されるという状況も出現していたのである。</p>

<p>ブックオフは「鬼っ子」</p>

<p>　混乱の遠因は、一般商品とは違う書籍特有の販売システムにある。それは、一定期間に売れなければ返品していいという委託販売制度と、書籍（新聞も）の全国一律定価を可能にしている、独占禁止法の例外、再販売価格維持制度（再販制）である。<br />
　<br />
　本は買い切りではないので、書店は仕入れに目利きを働かせる必要がない。結局は、取次のコンピュータ配本に頼る安易な経営を生んだし、本が売れないにもかかわらず、いや、むしろ売れないからこそ出版社は、すでに代金を受け取っている本が取次経由で書店から戻ってくるときの費用を捻出するために、より多くの新刊を出して売り上げを立てるという、まさに自転車操業を繰り返してきた。</p>

<p>　ブックオフは、その間隙をぬって生まれてきた、まさに「鬼っ子」的存在である。町の書店の「読者」が郊外型書店の「消費者」に変わった時、本は読み終えたら捨てられる消耗品になった。そうして登場したのが、本のリサイクルともいうべき新形態の古書店で、その典型が「ブックオフ」である。</p>

<p>　1990年に最初の直営店が神奈川県相模原市に開店、今では全国に1000店以上のチェーン展開となっている。新古書店が従来の古書店と違うのは、価格設定がまったく本の価値とリンクしていないことである。不要になった本を定価の1割程度で買い、「新しい本」、「きれいな本」を定価の5割程度で売る。汚い本や古い本、一定期間に売れなかったものは一律、百円コーナーに。従来の古本屋では、本の内容（メッセージ）の価値が重視され、絶版本とか、貴重本は定価よりもはるかに高くなったりするが、新古書店では、本の内容への考慮はほとんどない。<br />
　<br />
　ブックオフを舞台にして、出版社→ブックオフ（出版社の中古としての直接卸し）、ブックオフ→書店→出版社（書店がブックオフで買った新品同様の本を返品扱いにして出版元に返す）、書店→ブックオフ（ブックオフに売るための書店での万引き）といった合法、非合法なアングラ・ルートが存在しており、本の流通システムは破綻寸前といっていい。</p>

<p>　そこへ出版の電子化が追い打ちをかけている。本のDTP（デスクトップパブリッシング）制作、CD-ROMなど新メディア、アマゾン・コムなどのオンライン書店、あるいはオンデマンド出版など、デジタル化の波はすでに何度もボディブローを受けてきた出版業界への最後の一撃とでもいうべきショックをもたらしている。</p>

<p>大日本印刷の野望</p>

<p>　そこに割り込んできたのが大日本印刷である。日経ビジネスオンラインに「大日本印刷がブックオフに出資した理由」と題する、大日本印刷の森野鉄治常務への興味深い<a href="http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090615/197667">インタビュー記事</a>が載っており（聞き手は井上理記者）、「僭越ながら、私たちが新しいビジネスを提案」というサブタイトルがついている。</p>

<p>　森野常務の発言から興味深いものを拾ってみると、①書籍の返品率40パーセントというのは、印刷する側から見ても、「売れても、売れなくても、印刷代をもらえればそれでいい」と、ただ放置しておくことはできない。②インターネットを中心に情報の無料化が進んでいるが、「知」はやはり商品への対価が得られる仕組みの中で再生されるべきである。③図書館流通センターのデータベースをもとに、出版業界の新しいプラットホーム（流通の仕組み）を作りたい。これを出版業界に採用してもらうことで、出版業界が活性化し、その結果として印刷の受注が増えることを願っている。④ブックオフが本の流通を乱している部分は正していきたいし、ICタグを導入することで流通正常化を図りたい。⑤電子情報端末の開発にも意欲的に取り組む。と言ったところである。</p>

<p>　出版業界を抜本的に改革しようという大日本印刷の並々ならぬ意欲が感じられる。これまでの流通の要だった取次への影響が一番大きそうだが、さて、これからどういう展開があるだろうか。「総メディア社会」の激震がいよいよ高まってきた。<br />
</p>]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>スーザン・ボイルの奇跡（2009/6）</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.cyber-literacy.com/blog/archives/2009/06/20096.html" />
<modified>2009-06-29T07:31:38Z</modified>
<issued>2009-06-29T07:23:34Z</issued>
<id>tag:www.cyber-literacy.com,2009:/blog//1.139</id>
<created>2009-06-29T07:23:34Z</created>
<summary type="text/plain">　スーザン・ボイルという女性の名をご存知の方は、どれくらいおられるだろうか。イギ...</summary>
<author>
<name>yano</name>
<url>http://www.cyber-literacy.com/</url>
<email>yano@cyber-literacy.com</email>
</author>
<dc:subject>雑誌『広報』バックナンバー</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://www.cyber-literacy.com/blog/">
<![CDATA[<p>　スーザン・ボイルという女性の名をご存知の方は、どれくらいおられるだろうか。イギリスの47歳の教会ボランティアが素人登竜門のテレビ番組で歌を披露したら、その妙なる美声とすばらしい歌唱力に、3人の審査員も、満員の聴衆も、まず唖然、ついで万雷の拍手が起こった。その一部始終を動画配信サイト、ユーチューブで見ることができる。</p>]]>
<![CDATA[<p>　この話は日本のテレビ（バラエティ番組）でも紹介されているけれど、<a href="http://www.youtube.com/watch?v=1t8m7CkpIK0">元の動画</a>をぜひご覧になることをおすすめする。</p>

<p>　中年女性の美声に酔う</p>

<p>　どちらかというと風采の上がらない、猫と暮らしているという中年の独身女性が舞台に上がったとき、聴衆はうんざりした様子だった。彼女が「エレイン・ペイジのようなプロ歌手になりたい」と答えると、審査員は「この歳までなれなかったのはなぜしょう」と冷ややかに言い、映し出された聴衆の顔にはあざけりが浮かぶ。<br />
　<br />
　しかし、いったん彼女がミュージカル「レ・ミゼラブル」の中の「夢やぶれて」を歌いだすと、会場の空気は一変。審査員も、聴衆も驚き、ついで感嘆と拍手が起こった。3人の審査員の表情の変化は、人は感動したときにはかくも美しい顔をするのかということさえ思わせる。歌い終わったとき、最初に発言した審査員は、「あなたがエレイン・ペイジが目標だと言ったとき、みんなさげすみの表情を見せましたが、いまそう思う人はいません。3年間、この審査をしているが、こんなに驚いたことはない」と述べ、途中から立ち上がって拍手を送っていた女性審査員も、最後の審査員も、異口同音に彼女をほめそやした。</p>

<p>　放映されている番組はまだ予選段階で、これから本格的なコンテストが始まるのだが、すでに彼女は全世界で話題になり、自宅前は取材陣で連日大賑わいらしい。ＣＤを出すことも決まったと言われている。ユーチューブにはその一部始終、日本語字幕をつけたもの、彼女のその後のテレビ・インタビュー、さらにはどこから探してきたのか、彼女が22歳のころ舞台で歌っている動画など、60本ちかくの作品がアップされ、それぞれが数万回から数十万回、さらには数百万回も閲覧されている。<br />
　<br />
ユーチューブの底力</p>

<p>　これは驚くべきことである。ユーチューブは世界同時公開で、気に入れば何度でも見られる。日本語字幕をつけるなどの工夫も可能だし、自分のコメントを書き込むこともできる。私がやっているように、ＵＲＬを他人に知らせて見るように薦めることもできる。</p>

<p>　テレビだとこうはいかない。放映エリアや時間は限られているし、何度も見るためには録画しなくてはいけないし、録画しようとしても間に合わないことも多い。いますぐこれを見るように、と他人に薦めることもできない。</p>

<p>　テレビはもはやインターネットに飲み込まれつつあると言えるだろう。もっとも、テレビ番組のアップは著作権上の問題をはらんでいるが、これだけ世界に配信されれば、テレビ局としても問題はないだろうと思わされる。</p>

<p>　以前、やはりユーチューブで公開されたカーネギーメロン大学のコンピュータ科学者（バーチャル・リアリティ専攻）、ランディ・パウシュ教授の「最後の授業」が評判になったことがある。がんにおかされた彼は、5歳、2歳、1歳の子どもたちのためにもと考えてこの授業を引き受けたのだが、<a href="http://www.youtube.com/watch?v=nrFMRuB2lbA">公開された授業</a>は、多くの聴衆に、そして成長した後の子どもたちに、夢を持つことの大切さを教えた。</p>

<p>総メディア社会の進展</p>

<p>　こういう番組が世界同時に配信され、何度も見られている。これこそが、総メディア社会のすばらしい一面であることは間違いない。もっとも、素人が作り上げた作品と、プロのテレビ会社が多くの人員と時間と、そして費用をかけた作品が同列に論じられないのはもちろんである。</p>

<p>　この総メディア社会が新たな問題をはらんでいることは何度もふれてきたが、今回は最近出版した『総メディア社会とジャーナリズム』（知泉書館）の表紙を飾った、<a href="http://www.cyber-literacy.com/ja/about/index.html">総メディア社会の進展図</a>を紹介しておこう。<br />
 <br />
　中央にある卵型の楕円の上は「巨大メディア企業」、下は「パーソナルメディア」と一応分けているが、この2つの楕円が全体としてインターネットを構成している。すなわち現在は、インターネット上の電子メディアが主流であり、かつてメディア地図全体を覆っていたマスメディアはもはやその一部でしかない。そのマスメディアの活動も、一部はインターネット上に乗っている。残る外に出ている部分が、従来の新聞であり、書籍であり、テレビである。</p>

<p>　また、ユーチューブ以外にも「ニコニコ動画」など、いろんな動画サイトが登場し、メディアの中心は文字から映像へと移りつつあるのも総メディア社会の一面である。<br />
</p>]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>三菱UFJ証券社員の顧客情報売却（2009/5）</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.cyber-literacy.com/blog/archives/2009/06/ufj20095.html" />
<modified>2009-06-01T09:05:49Z</modified>
<issued>2009-06-01T09:02:33Z</issued>
<id>tag:www.cyber-literacy.com,2009:/blog//1.138</id>
<created>2009-06-01T09:02:33Z</created>
<summary type="text/plain">　三菱UFJ証券の社員が自社のほぼ全顧客にあたる約150万人分の情報を不正に持ち...</summary>
<author>
<name>yano</name>
<url>http://www.cyber-literacy.com/</url>
<email>yano@cyber-literacy.com</email>
</author>
<dc:subject>雑誌『広報』バックナンバー</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://www.cyber-literacy.com/blog/">
<![CDATA[<p>　三菱UFJ証券の社員が自社のほぼ全顧客にあたる約150万人分の情報を不正に持ち出し、一部を名簿業者に売却した事件は、デジタル情報を扱うことのたやすさと難しさという、相反する現実を改めて印象づけた。</p>]]>
<![CDATA[<p>浮遊するデジタル情報の扱いにくさ</p>

<p>　この事件は4月8日に三菱UFJ証券が自ら明らかにしたもので、元部長代理は他の社員のIDとパスワードを使って顧客情報にアクセスして150万人分の情報を不正に持ち出し、これを別の社員にCDにコピーさせた。いったん自宅に持ち帰り、パソコンにコピーしたうえで、CDは翌日、会社に返した。その後、約5万人分の情報を名簿業者に計32万余円で売却した。名簿業者はその情報を他の名簿業者や企業に転売、流出先は80社近くに及ぶという。同部長代理は即刻、懲戒解雇されている。</p>

<p>　情報には名前、住所、年齢、勤務先、自宅や携帯の電話番号、7段階に区分した収入などが含まれていた。これを買った不動産会社や商品先物業者などから勧誘を受けた顧客の通報で事実が明るみに出た。</p>

<p>紙なら高さ5メートル</p>

<p>　これが紙に書かれた情報であれば、A4程度の用紙でもせいぜい1枚30人分ぐらいしかおさまらない。150万人で5万枚である。紙10枚で1ミリの厚さとして計算すると、5万枚で5メートルの高さになる。これだけの紙を、だれにも知られずに持ち出すのは難しい。コピーすること自体が一人ではほとんど不可能だろう。電子化されたデータであればこそ、あっという間に150万人分の個人情報を、だれにも知られずに持ち出せた。そのすべてがCD1枚におさまるからである。</p>

<p>　データは名簿業者3社に売られたが、すぐに他の名簿業者や不動産業者などに転売され、それがすぐ物件などの勧誘に使われた。事件発覚後10日たった4月17日現在で、顧客からの問い合わせは7000件を超えるという。</p>

<p>　同証券では、名簿業者に情報の利用や販売を中止する同意をとりつけたらしいが、いったんデジタル化された情報を完全に削除するのは不可能である。証券会社が秘密裏に買い取りを画策しても、法外な値を要求されるだろうし、すでに転売された情報はとりかえしがつかない。覆水盆にかえらず。情報はサイバー空間を浮遊しつつ、無限に広がっていく。<br />
　<br />
情報を盗むということ</p>

<p>　元社員が顧客情報を「不正に持ち出した」と書いてきたが、平たく言えば、元社員は顧客情報を「盗んだ」わけである。盗む行為にはふつう窃盗罪が適用されるが、この犯罪に窃盗罪を適用することは難しい。<br />
　<br />
　刑法第235条は「他人の財物を窃取した者は、窃盗の罪とし、十年以下の懲役に処する」と定め、245条で「この章の罪については、電気は、財物とみなす」と定めている。これは、窃盗罪に関しては、電気を特別に財物とみなしているが、財物以外の、たとえば情報を盗んでも窃盗にはならない、と解釈するのが一般的である。罪刑法定主義のもとでは、あらかじめ条文に規定されていない犯罪を罰することはできない。<br />
　<br />
　というわけで、これまでも情報の窃盗に関しては、捜査当局も頭をかかえてきた。</p>

<p>　2007年に、大日本印刷がダイレクトメール印刷用などで保険、食品、旅行、銀行、自動車販売などの企業43社から預かっていた約860万件の個人情報が、業務委託先の社員によって盗まれ、詐欺グループに売られるという事件があった。詐欺グループが信販カードを不正使用して670万円相当をだましとったのが事件の発端で、情報提供者の元社員が情報提供の対価として得たのは22万円だった。そして彼の起訴容疑は、わずか250円相当の記憶媒体（ＭＯ）1枚を、大日本印刷から盗んだことだった。<br />
670万円の被害、22万円の対価、250円の罰金。この数字はなかなかに感慨深いと言えるだろう。<br />
今回、元社員は、少し頭を使ったのか、CDをきちんと返却している。だからCDの窃盗罪も成立しない。では何で罰すべきか。そこで浮かび上がっているのが不正アクセス禁止法違反である。他人のIDやパスワードを使ってデータベースにアクセスしたからである。</p>

<p>　しかしこの法の罰則は、「一年以下の懲役または五十万円以下の罰金」である。同証券が顧客からの苦情や社会的信用の失墜などで甚大な被害を受けそうなのに対して、いかにも軽微である（もっとも被害弁償ということであれば、元社員を相手取って民事訴訟を起こす方法もあるが、逆に証券会社が、顧客から損賠賠償や慰謝料請求などで訴えられる可能性もある）。</p>

<p>「産業スパイ法」の構想</p>

<p>　このような犯罪を防ぐにはどうすればいいだろうか。そこで必ず論議になるのが「情報窃盗罪」の新設だろう。現に、頻発する「産業スパイ」を取り締まるために、経済産業省は新たな法整備を検討しているが、それは刑法では摘発できない「情報の窃盗」取り締まりをねらっているとも言える。<br />
　<br />
　経済産業省がこの構想を明らかにした2008年1月、甘利明経産相（当時）は、CDを例にとって、「日本の窃盗罪は盤にかかり、情報の中身に対してかからないという問題がある。中身自身の重要性に視点を移すべきだ」と「情報」の意味に注意を喚起した。罰則も不正競争防止法並みの「十年以下の懲役、一千万円以下の罰金」にするという。<br />
　<br />
　そうなると安心かというと、そうでもないところが情報社会のやっかいなところである。情報のような実態のないものを取り締まること自体がたいへん難しいが、だからこそ、拡張解釈されると、いつなんどき、身の覚えのない罪で摘発されるかわからないという不安が生じるからである。<br />
</p>]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>グーグルの書籍検索サービス（2009/4）</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.cyber-literacy.com/blog/archives/2009/05/20094.html" />
<modified>2009-05-10T12:49:12Z</modified>
<issued>2009-05-10T12:28:03Z</issued>
<id>tag:www.cyber-literacy.com,2009:/blog//1.137</id>
<created>2009-05-10T12:28:03Z</created>
<summary type="text/plain">　米検索大手、グーグルの書籍検索サービスをめぐる訴訟で、グーグルとアメリカ国内の...</summary>
<author>
<name>yano</name>
<url>http://www.cyber-literacy.com/</url>
<email>yano@cyber-literacy.com</email>
</author>
<dc:subject>雑誌『広報』バックナンバー</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://www.cyber-literacy.com/blog/">
<![CDATA[<p>　米検索大手、グーグルの書籍検索サービスをめぐる訴訟で、グーグルとアメリカ国内の著作者関連団体が合意した和解案が、日本の、いや世界中の著作物とその関係者(著者や出版社)にも影響を与えることがわかり、大きな話題になっている。</p>]]>
<![CDATA[<p>知らぬ間に激流に巻き込まれていく</p>

<p>　この問題が国内で一般に知られるようになったのは、雑誌『ニューズウイーク日本版』2月25日号や同月24日付けの読売新聞、朝日新聞紙上に、以下のような見出しを冠した法定公告(法定通知)が掲載されたためである。</p>

<p>　｢米国外にお住まいの方へ：本和解は、米国外で出版された書籍の米国著作権の権利も包括しているため、貴殿にも影響することがあります。書籍、または書籍中のその他の資料等の権利を有している場合には、適時に除外を行わないかぎり、本和解に拘束されることになります」、｢書籍の著者、出版者、または書籍や執筆物の著作権を有しているその他の人物である場合には、貴殿の権利に、Ｇｏｏｇｌｅの書籍および執筆物のスキャンおよびその使用に関する集団訴訟の和解案が影響することがあります」<br />
　<br />
　文字がびっしり詰まった難解な法的文書が一般向けに掲載され、それが、たとえば日本で出版された本の著者や写真が掲載されているカメラマンにも影響があるので、和解案に拘束されたくなければ、ウエブに掲載した和解案をよく読んで、除外手続きを取るように｢公告(通知)｣しているわけである。</p>

<p>　これまでなら自分の著作物を公開する場合、出版社などと出版契約を結ぶだけだったのが、ここで言われていることは、｢グーグルがそれらの著作物を勝手にデジタル化して公開し、ビジネスにする可能性がある。対価はきちんと払うが、この和解案に拘束されたくなければ除外の手続きを、すでに無断でデジタル化された場合の補償金を得る場合はその旨の申し立てを期限内にするように｣ということである。昔ふうに言えば、天から降ったか地から湧いたか、といった塩梅で、まさに現代ＩＴ社会を象徴する出来事と言えるだろう。<br />
　<br />
　グーグルは2004年から、一部の図書館などの協力を得て、書籍本文をデジタル化して、ユーザーが内容を検索できるサービス「グーグル書籍検索」を始めており、現在は書籍700万冊以上をデジタル化しているという。グーグル側は、この行為はアメリカ著作権法上の「フェアユース(fair use)」にあたり違法ではないとの見解だが、これに対して米作家協会や米出版協会などが｢著作権者に無断で著作物をデジタル化して公開するのは著作権侵害だ」と、2006年にグーグルを相手どって訴訟を起こした。その和解が昨年10月に成立、裁判所は6月11日に公聴会を開き、和解を承認するかどうかの決定をする予定で、今回の措置はその関連作業である。</p>

<p>著作権システムの転換</p>

<p>　和解案の骨子は、①グーグルは書籍をデジタル化し、それを商業的に利用できる、②グーグルは、許諾なくデジタル化した書籍について一作品に60ドル以上、総額4500万ドル以上の補償金を支払うほか、ネットで公開する書籍へのアクセス権料や広告収入など収益の63％を著作権者に支払う、③グーグルは権利者への収益配分のための新たな組織の設立・運営費用として3450万ドルを負担する、というものだ。対象書籍は｢2009年1月5日以前にハードコピーの形で出版または配布された小説、教科書、論文およびその他の執筆物など｣となっている。</p>

<p>　この和解案でグーグルは、「著作権は存在しているがすでに絶版になっている」書籍のデジタル化が進み、ネット上で購読できる書籍の新しい流通システムが築き上げられる」と言っている。「世界中の情報を整理し、世界中の人々がアクセスできて使えるようにする」ことをめざすグーグルにとっては大きな一歩であることは確かである。ユーザーにとっては、絶版本に接することができる便利なサービスだし、絶版本の著者などにとっても、出版社に紙として死蔵、あるいは断裁されるよりはありがたいし、収入も見込まれる。<br />
　<br />
　問題は、この和解案の適用範囲が広いこと(1)、潜在的該当者は和解案から除外を求めるという意思表示をしない以上、この案に拘束されることである。このサービス自体は、フェアユースが認められている米国内だけで提供されるが、訴訟が｢集団訴訟(クラス・アクション、class action)｣という日本にはない方式で行われているために、訴訟に参加していない(参加の意思を表明していない)利害関係者も結果に拘束される。</p>

<p>　日本の著作物も、著作権に関する国際条約｢ベルヌ条約｣によりアメリカの著作権が発生する関係で、それが｢米国で市販されていない絶版状態｣と判断されると、グーグルによって全文をスキャンされ、公開される可能性がある。</p>

<p>　情報のデジタル時代に対応した、それなりに合理的な新しい著作権システムだが、当事者の知らないところでそれが動き出し、そこから除外されたければ、当該者があらかじめ意思表示をしなくてはいけない、というこれまで一般に行われている制度設計とは逆転した形になっている。</p>

<p>　著作者―出版社の間にＩＴ企業が割って入って、新しい出版流通システムを作り上げようとしているともいえるが、構想が世界規模なだけに、国単位で行われてきた従来の出版流通システムを根底から変える可能性を秘めている。既存業界に与えるショックは少なくないと予想され、出版産業全体のあり方も含め大きな波紋を呼ぶだろう。</p>

<p>「ストリートビュー」と同根</p>

<p>　以前、やはりグーグルのサービス｢ストリートビュー」に関して、公開された自分の画像を削除してほしければ、その旨の旨申し入れをしなくてはならない「オプトアウト」方式はいかにも<a href="http://www.cyber-literacy.com/blog/archives/2008/11/200810.html">乱暴だということを書いたが</a>、この場合もオプトアウト方式である。</p>

<p>　こういったシステム的な大転換が、グーグルという一企業によって断行されている。かつて1960年代に斬新なメディア論で脚光を浴びたカナダの学者、マーシャル・マクルーハンは、これまで人間は数々のメディアを生み出したが、そのメディアが今度は人びとの心理や社会システムを大きく変えてきたと述べた。</p>

<p>　また「新しいメディアは古いメディアになにかをつけ加えるというものではない。また、古いメディアを平穏に放っておきもしない。それが古いメディアに代わって新しい形態と地位を見出すまで、古いメディアを圧迫することを止めない」、「いったん新しい技術が社会的環境に入ってくると、あらゆる制度がそれで飽和するまで、その環境に浸透することを止めない」とも言っている。</p>

<p>　彼の代表作『メディア論』の原題は｢メディアの理解｣だったが、いま必要なのは、このように激変する社会の駆動源、｢インターネットの理解｣である。</p>

<p>＜1＞グーグルは<a href="http://www.googlebooksettlement.com/">「ブック検索和解」に関するウエブ</a>を設置しているが、そこには30カ国版が用意されている。<br />
</p>]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>摘発されたネット中傷(2009/3)</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.cyber-literacy.com/blog/archives/2009/03/20093.html" />
<modified>2009-03-31T13:17:19Z</modified>
<issued>2009-03-31T13:14:54Z</issued>
<id>tag:www.cyber-literacy.com,2009:/blog//1.136</id>
<created>2009-03-31T13:14:54Z</created>
<summary type="text/plain">　警視庁は2月、お笑いタレント（以下、Ｋさんと表記）のブログに「殺す」などと書き...</summary>
<author>
<name>yano</name>
<url>http://www.cyber-literacy.com/</url>
<email>yano@cyber-literacy.com</email>
</author>
<dc:subject>雑誌『広報』バックナンバー</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://www.cyber-literacy.com/blog/">
<![CDATA[<p>　警視庁は2月、お笑いタレント（以下、Ｋさんと表記）のブログに「殺す」などと書き込んでいた女性会社員（29）を脅迫の疑いで書類送検した。ほかにもＫさんに関する事実無根の中傷記事を書き込んでいた18人を名誉毀損の疑いで書類送検するという。ネット上に氾濫する、匿名を隠れ蓑にした無責任な中傷記事に対して、警察が摘発に乗り出したわけである。</p>]]>
<![CDATA[<p>激しい言葉を無造作に書きつける「心の傷」</p>

<p>　新聞報道などによると、彼らは1989年(平成元年)に起きた都内の女子高生コンクリート詰め殺人事件にＫさんが関与したと決めつけて、インターネットの掲示板やＫさんのブログに「人殺し」、「犯人のくせに」などと悪質な中傷記事を書き込んでいた。</p>

<p>　コンクリート詰め殺人事件は、複数の少年が女子高生を誘拐して乱暴したうえ、仲間の1人の自宅2階に監禁、1カ月に及ぶさまざまな暴行のあげくに死なせ、ドラム缶にコンクリート詰めして捨てたきわめて残忍な犯行だった。4人の少年が逮捕され、すでに実刑判決を受けているが、その残虐な行為によって少年法のあり方があらためて議論された事件でもある。</p>

<p>　Ｋさんのブログによると、事件10年後の1999年からインターネット上に彼が犯人の1人であるといった書き込みが現れるようになった。Ｋさんは2008年に自分のブログを開設、8月に｢自分は犯人でもないし、犯人たちと面識もない。事件には何の関与もしていないし、それをお笑いのネタにしたこともない。すべて事実無根である｣と書き込んでいる。</p>

<p>　約10年にわたって、このような中傷が書き続けられており、その後も止まらず、今回の摘発に結びついた。書類送検された女性は「他の人の書き込みを信用した。反省している」と述べたらしい。</p>

<p>45歳の国立大職員も</p>

<p>　摘発されたのは札幌市の女子高校生(17)から、千葉県松戸市の会社員(35)、大阪府高槻市の国立大職員(45）まで、地域も年齢もさまざまな人びとである。たぶんお互いに面識もない彼らが、インターネット上の書き込みを安易に信じたばかりではなく、自分もいっしょになって書き込みをしていた。</p>

<p>　警察が摘発に乗り出した直後、Ｋさんはあらためてこの事件についてブログで、所属事務所のホームページなどで、書き込まれた内容を否定し、掲示板への削除依頼もしてきたが、悪意のある書き込みは無くならず、「インターネット上のみならず、所属事務所や仕事先にまで誹謗中傷のメールや電話があり、このままでは私自身の生活・仕事に影響があるのみならず、家族や友人に不安な思いをさせてしまうと考え、警察と相談の上で被害届を出させていただきました」と書いている。</p>

<p>　2008年6月の秋葉原通り魔事件の直後にも、掲示板に何らかの犯行を予告する書き込みが十数件あったが、警察の調べに対して、「実際に犯行を実行するつもりだった」と供述したケースはなかったという。また、文部科学省の調査によると、群馬、静岡、兵庫3県の「学校裏サイト」の書き込み内容を分析したところ、そのうち50パーセントに「キモイ」、「うざい」など特定個人を中傷する言葉があり、37パーセントに性器などわいせつな用語が書かれ、27パーセントに「死ね」、「殺す」など暴力を誘発する言葉が含まれていたという。</p>

<p>アップされる瞬間的な感情</p>

<p>　彼らはなぜ無造作に他人を誹謗中傷するような書き込みをするのだろうか。匿名を隠れ蓑にした卑怯な行為には違いないが、それ以前の現在ネット社会の「心の傷」といったものが感じられる。ここには「書く」という行為に対する主体的な心構えはほとんどない。</p>

<p>　かつて、信心深い人びとは他人を中傷したり、恨んだり、憤ったりする気持ちが自分の心に浮かぶことすら怖れ、自らに恥じ、それを口にすることを慎んだ。あるいは、それを口にしたとしても、周囲の人びとが聞き咎めた。文字にするようなことは、ほとんどなかった。現実世界とサイバー空間が直結し、人の心も、社会のありようも、タガが外れてしまっている。</p>

<p>　コンクリート詰め殺人事件では、女子高生が監禁されていた部屋の1階には少年の両親が住んでおり、たまには女子高生が階下に降りてきて食事をしたこともあったらしい。にもかかわらず親たちは、息子の友だちや女子高生に基本的に無関心だった。</p>

<p>　つい気軽に書き込みをしてしまうのをどう制御すべきか。Ｋさんに対する誹謗中傷は今回の摘発でたぶん一気に消えるだろうが、この問題を警察の取り締まりだけに委ねるわけにもいかない。技術の欠陥を技術で解決する戦法をとれば、投稿するまでに数度の確認をするシステムにすればいいという意見も出てこよう。だが、みずほ証券株誤発注事件に明らかなように、ひとはエラーメッセージになれてくると、それを簡単に無視してしまう。やはり、デジタルメディア(ＩＴ社会)に対するリテラシー教育を執拗に続けるしかないのではないだろうか。</p>

<p>　摘発直後にＫさんが感謝の気持ちを述べた2月5日の書き込みに対するコメントが、なんと3210通もある。今度はそのほとんどがＫさんに対する同情と激励だが、この数の多さが、また考えさせられる。瞬間的な感情をどっとアップするという点では、誹謗中傷の場合と共通しているように思われるからである。<br />
</p>]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>基本はウエブ上の「プラットホーム」(2009/2)</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.cyber-literacy.com/blog/archives/2009/03/20092.html" />
<modified>2009-03-31T13:14:46Z</modified>
<issued>2009-03-31T12:49:18Z</issued>
<id>tag:www.cyber-literacy.com,2009:/blog//1.135</id>
<created>2009-03-31T12:49:18Z</created>
<summary type="text/plain">　3回にわたってメディアの「現在」を見てきたが、年の初めにあたって、それではこれ...</summary>
<author>
<name>yano</name>
<url>http://www.cyber-literacy.com/</url>
<email>yano@cyber-literacy.com</email>
</author>
<dc:subject>雑誌『広報』バックナンバー</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://www.cyber-literacy.com/blog/">
<![CDATA[<p>　3回にわたってメディアの「現在」を見てきたが、年の初めにあたって、それではこれからのメディアはどのようなものになるのかというメディアの「未来」に思いをはせてみよう。はっきりしているのは、これからのメディアの中心がウエブであり、そこでの「プラットホーム」の重要さである。</p>]]>
<![CDATA[<p>未来のメディアの「覇者」</p>

<p>　これからは「電子メディア」の時代である。従来の「紙のメディア」たる新聞や書籍、あるいは電波メディアとしての放送がなくなるわけではないし、ある意味ではむしろ、その有用性や重要性が再認識されるだろうが、「紙」や「放送」単独でものごとを考えるわけにはいかない。各メディアを全体のメディア状況の中に位置づけ、そこでの共存を図るという意識が不可欠である。そこではパーソナルメディアやマスメディアといった区別はほとんどなくなるだろう。</p>

<p>　よく言われることだが、本というメディアがいまのような形になるのは、15世紀にグーテンベルクが発明した活版印刷術に多くを負っているが、グーテンベルクが印刷した42行聖書は、説教壇に置かれた大きな手書き聖書と同じ体裁だった。彼は手書き聖書を模倣するために活版技術を使ったわけで、この技術を使えば、持ち運びに便利な書物ができるのだと、人びとが考えつくまでには百年単位の年月を要している。</p>

<p>　Web2.0はインターネットの世界を大きく変え、それにともない、インターネットというメディアの様式もまた変貌を遂げた。ウィキペディア、ユーチューブなどの新たなメディアが次々と登場し、「ユーザーの積極的参加」、「集合知」なども話題になった。インターネットが持つ潜在的可能性をうまく引き出した者が、未来のメディアの覇者になることだけは間違いない。</p>

<p>コンテンツとプラットホーム</p>

<p>　これからは、情報流通基盤としてのインターネット、情報通信法構想の言葉を借りれば、唯一の「コンテンツ配信・商取引・公的サービス提供基盤」の上に、さまざまなコンテンツが載る。だから、そこにどのようなコンテンツを用意するかと同時に、それらをまとまった情報として編成していく「プラットホーム」の役割が重要となるだろう。情報通信基盤のあり方と同時に、その上に載るコンテンツビジネス、プラットホーム企業が今後のメディアの主役になると思われる。</p>

<p>　私の危惧は、このようなメディア大激変が、実用情報重視、ビジネス優位という考えのもとに進んでいることである。既存マスメディアは自らの既得権が失われるのを恐れ、改革に反対する保守的態度を強めているが、これもまた危うい。むしろ、プラットホーム上に新たなジャーナリズムを追求する意気込みがいま求められているのではないだろうか。</p>

<p>　これは、言うに易く、行うに難い。何よりも、新聞、出版、放送、通信――、既存ジャンルを超えたメディア企業の抜本的再編を伴う。だからこそ、そこに新たなジャーナリズムを築き上げるという強靭な意志と、それぞれのメディアが長い歴史の中で築き上げてきた知恵（ジャーナリズムの伝統）を生かすべきだろう。それこそが、「総メディア社会」のバランスある構成を可能にすると思われる。</p>

<p>　アメリカ通信品位法の例が示すように、業界再編のような大事業が展開されるとき、「表現の自由」のように、重要だけれど、守るに難しい権利は、ともすれば置き去りにされがちである。それに異を唱え、通信品位法の違憲判決を勝ち取るためには、人権団体をはじめとする多くの人びとの活動が必要だった。<br />
　<br />
　マスメディアも、オンライン・ジャーナリズムを志向する団体や個人も、いずれは新たな「プラットホーム」（この言葉を使うかどうかはともかく）を築き上げることになるだろう。ジャーナリズムに関して言えば、これからより重要になるのは、①オリジナルな情報をどう提供できるかという取材力、②世界をどのようなものとして提示するかという編集力、である。</p>

<p>　ライターとエディターの新たな集団（組織）を築き上げる必要がある。個々の記事がばら売りされる場合もあるし、価値判断を加えた紙面として提供されることもあるだろう。そのモデルを既存企業に探せば、通信社に近い。ニュースというコンテンツを製作し、それを編集する「ジャーナリズムのプラットホーム」である。</p>

<p>　そうすれば、長い年月と多数の人員をかけた調査報道のような活動もあらためて可能になるし、個々の記者が権力など外部から攻撃されることを防ぐ盾ともなり得るだろう。こういったアグレッシブな再編が既存マスメディアに求められていると言えるだろう。</p>

<p>　記事と広告の関係にしても、ウエブにおいては両者が分かちがたく結ばれ、それはそれで長所でもあるけれども、この癒着関係が公正な事実の報道をゆがめがちなこと、広告と結びつかない記事が敬遠されがちなのも事実である。新たなジャーナリズムのブランドを押し出す可能性はあるのではないだろうか。</p>

<p>見直される？パッケージメディア</p>

<p>　紙のメディアである新聞や書物は、長い歴史を経て、その様式を発達させてきた。人類は「声の文化」から「文字の文化」へ移行したとき、声を捨てたわけではない。「電子の文化」における「紙の文化」は、いよいよ重要になるかもしれない。</p>

<p>　ジャーナリズムのような地味だが重要な活動は、紙にこそふさわしいとも言える。立花隆の「田中角栄研究」は雑誌を舞台に、新聞では報じられなかった関係者周知の事実や、折々に報じられた小さな断片をオリジナル取材も加味して、ジグゾーパズルのようにつなぎあわせて、田中金脈の全貌を暴きだした。雑誌ならではの調査報道だったのである。</p>

<p>　だから従来のパッケージ系メディアは、依然として「総メディア社会」の確たる一隅を占めるけれど、必要なのは、それぞれのメディアが全盛だったころ勝ち得た圧倒的な売り上げや評判を今後は期待できないという覚悟である。メディアの世界においても、創造的破壊の時代が来ている。<br />
</p>]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>情報通信法（仮）構想と「表現の自由」（2009/1）</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.cyber-literacy.com/blog/archives/2009/01/0901.html" />
<modified>2009-03-31T13:19:50Z</modified>
<issued>2009-01-31T06:41:27Z</issued>
<id>tag:www.cyber-literacy.com,2009:/blog//1.134</id>
<created>2009-01-31T06:41:27Z</created>
<summary type="text/plain">　メディア企業から見ても、情報の受発信者であるユーザーから見ても、「表現の自由」...</summary>
<author>
<name>yano</name>
<url>http://www.cyber-literacy.com/</url>
<email>yano@cyber-literacy.com</email>
</author>
<dc:subject>雑誌『広報』バックナンバー</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://www.cyber-literacy.com/blog/">
<![CDATA[<p>　メディア企業から見ても、情報の受発信者であるユーザーから見ても、「表現の自由」や「ジャーナリズム」の影が薄くなりつつあると書いてきた。そういう状況下でメディア環境の大改革をめざして進められている「情報通信法（仮）」の構想は、いよいよ「表現の自由」を窒息させる恐れがある。<br />
</p>]]>
<![CDATA[<p>　総務省の「通信・放送の総合的な法体系に関する研究会」（座長・堀部政男一橋大学名誉教授）は、2007年12月に、今後のメディア法の骨格ともなる報告書を公表した。まずその骨子を紹介しよう。<br />
　<br />
縦割りから横割りへ</p>

<p>　報告書は、通信・放送の両サービスが「1つの情報通信ネットワーク」で提供されるようになっている状況を受けて、法体系も、テレビはテレビ、通信は通信といった従来の「縦割り型」から、コンテンツ層、伝送インフラ層、プラットホーム層という3層の「横割り型」構造へ転換しなくてはならないと提言、その上で、コンテンツを次の4つに類型化している。</p>

<p>　　①特別メディアサービス<br />
　　②一般メディアサービス<br />
　　③オープンメディアコンテンツ<br />
　　④従来の通信</p>

<p>　従来の放送的なものから通信的なものへ、上から段階的に並べたものと言っていいが、少し説明が必要だろう。コンテンツを、まず「公然性を有するもの」と「公然性を有しないもの」に二分した上で、前者を「特別な社会的影響力を有するもの」と、そうでないものに二分、さらに前者を影響力の程度に応じて二分して、4類型が導き出されている。「公然性を有しないもの」が従来の通信である。</p>

<p>　「特別メディアサービス」には従来の地上波テレビ放送を、「一般メディアサービス」にはCS放送やインターネットを利用したコンテンツ配信などを想定しており、「オープンメディアコンテンツ」はウエブやブログなど、「不特定の者によって受信されることを目的とする電気通信の送信」である。そして「特別メディアサービス」には、社会的影響力と特別な公共的役割から、現在の地上波テレビに対する規律を原則維持、「一般メディアサービス」には、原則として現行の放送規制を緩和、「オープンメディアコンテンツ」に関しては、むしろ違法な情報やいわゆる有害な情報（公序良俗に反するもの、青少年にとって有害なもの）への規制を検討すべきであるとしている。公然性を有するコンテンツには「表現の自由」を、公然性を有しないコンテンツには「通信の秘密」を保障する。　</p>

<p>　私たちが慣れ親しんできた通信と放送という言葉を捨てたところがまずわかりにくいが、さらに最初の二分法が「公然性を有するもの」、「公然性を有しないもの」というきわめて抽象的な概念によっている。ウエブやその上の掲示板は通信と言っても、公開を原則としているから「公然性がある」として、やはり堀部教授が座長となってまとめた郵政省（当時）報告書（1994年）が「公然性を有する通信」という概念を提案、その後一般にも用いられるようになったが、今回も、その考え方が踏襲されている。「公然性を有する通信」という概念は、通信内容規制を念頭に置いたものだとの批判が当時からあった。</p>

<p>2011年には法成立</p>

<p>　この報告書が、通信と放送の融合を受けて、メディア法体系を抜本的に改革しようという意欲的な提言であることはたしかである。報告書成立までにパブリックコメントを募集したり、関係者からの意見を聞いたりしているが、これらの意見については、ウエブでも公開されているから、そちらを見ていただきたい（1）。詳しい説明は省かざるを得ないが、気になる点だけ指摘しておく。<br />
　<br />
　まず、情報通信ネットワークが、通信、放送という単一のサービスインフラから、「コンテンツ配信・商取引・公的サービス提供基盤」へと機能を拡大しつつあるのを受けて、従来、放送と通信に別個に適用されてきた「表現の自由」および「通信の秘密」の適用範囲を新たに切り分けようとしているが、「オープンメディアコンテンツ」に関しては、「違法情報」、「有害情報」への対策が全面に出ており、これはむしろ「表現の自由」の制約をめざしている。</p>

<p>　次に、報告書全体の姿勢だが、情報を実用重視、効率本位で取り扱おうとしている。換言すれば、インターネットを「表現のメディア」というよりも「ビジネスのツール」として考える傾向が強い。最終報告書では「表現の自由」の保障が追記されたが、衣の裾から鎧がのぞくではないが、中間取りまとめではこの部分が手薄だったこと自体が、関係者の重点の置き所を示しているとも言えよう。</p>

<p>　既存マスメディアが曲がりなりにも果たしてきたジャーナリズム機能を、「総メディア社会」にどのように組み込んでいけるかという点に関して言えば、報告書が描く未来の青写真からは、「表現の自由」を担う主体の姿は見えてこない。IT企業の関心はおそらくそこにはないだろうし、既存マスメディアはむしろ弱体化しそうである。そして、パーソナルメディアを担う個人一人ひとりにそれを求めるのはたいへん難しい。</p>

<p>　歴史的に見れば、「表現の自由」獲得には、欧米を中心として、それを担おうとした報道機関など多くの人びとの努力があったが、新法制策定の過程でそれが骨抜きにされる恐れがある。情報通信法は2002年の成立をめざして、現在、情報通信審議会「通信・放送の総合的な法体系に関する検討委員会」（主査・長谷部恭男・東京大学法学部教授）で議論されているが、個人情報保護法成立の経緯をふり返るまでもなく、今後は官僚の意向がより強く反映されるだろう。</p>

<p>　情報通信法をめぐる問題は、放送と通信業界だけではなく、新聞、出版という既存メディアにとっても、さらには私たち一人ひとり人にとっても、きわめて重要と言えるだろう。</p>

<p>　（1）たとえば放送関係者の報告書批判としては、日本民間放送連盟（民放連）の「<a href="http://nab.or.jp/index.php?What%27s%20New">中間取りまとめに対する意見</a>」参照。<br />
</p>]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>あけましておめでとうございます</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.cyber-literacy.com/blog/archives/2009/01/post_38.html" />
<modified>2009-01-02T05:36:21Z</modified>
<issued>2009-01-02T05:31:17Z</issued>
<id>tag:www.cyber-literacy.com,2009:/blog//1.133</id>
<created>2009-01-02T05:31:17Z</created>
<summary type="text/plain"> 　激動の年明けとなりました。 　現代社会のあり方を抜本的に見直す好機でもあるで...</summary>
<author>
<name>yano</name>
<url>http://www.cyber-literacy.com/</url>
<email>yano@cyber-literacy.com</email>
</author>
<dc:subject>折々の記</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://www.cyber-literacy.com/blog/">
<![CDATA[<p><br />
　激動の年明けとなりました。<br />
　現代社会のあり方を抜本的に見直す好機でもあるでしょう。<br />
　今年を、サイバーリテラシーを国内外に広く普及する「サイバーリテラシー<br />
元年」にしたいと、決意を新たにしています。<br />
　ご理解とご支援をお願いします。</p>

<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　矢野直明<br />
</p>]]>

</content>
</entry>
<entry>
<title>メディア受容態度にも地すべり的変化（2008/12）　</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.cyber-literacy.com/blog/archives/2009/01/200812.html" />
<modified>2009-01-02T05:24:35Z</modified>
<issued>2009-01-02T04:18:11Z</issued>
<id>tag:www.cyber-literacy.com,2009:/blog//1.132</id>
<created>2009-01-02T04:18:11Z</created>
<summary type="text/plain">　アメリカの事情にふれながら、メディア企業はコングロマリット化して、そこで流され...</summary>
<author>
<name>yano</name>
<url>http://www.cyber-literacy.com/</url>
<email>yano@cyber-literacy.com</email>
</author>
<dc:subject>雑誌『広報』バックナンバー</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://www.cyber-literacy.com/blog/">
<![CDATA[<p>　アメリカの事情にふれながら、メディア企業はコングロマリット化して、そこで流される情報は、社会的関心の強いジャーナリズムより、顧客が喜ぶ「おもしろくて役に立つ」実用情報やエンターテインメントに、これまで以上に傾きがちだという話をした。そして、これは人びとのメディア受容態度の変化とも符合している。</p>]]>
<![CDATA[<p>若者はパーソナルメディアにシフト</p>

<p>　ここでもいくつかのデータを上げておこう。図１は、新聞の世帯主年代別普及率である。年齢が低くなるほど、年を追うごとに、普及率がはっきりと落ちている。24歳以下の落ち込みはすさまじい。図２では、テレビと新聞は高年齢になるほどよく利用し、逆にインターネットは若者ほどよく利用しているという対象的な傾向がよく表れている。図３は、メディア利用頻度の変化を聞いて、「増えた」との回答の割合から「減った」との回答の割合を引いた値である。全体として、テレビが5.1ポイント上がっているが、新聞は0.3ポイント、雑誌・書籍は11.2ポイント、ラジオは17.4ポイント、それぞれ減っている。変わって増えたのがパソコン（41.5ポイント）、携帯電話（21.4ポイント）である。この傾向は、若年層になるとより一層鮮明にな、ここではテレビもポイントを下げている。</p>

<center><img alt="09_1_2hou1.GIF" src="http://www.cyber-literacy.com/blog/09_1_2hou1.GIF" width="415" height="324" /></center>
<center><img alt="09_1_2hyou2.GIF" src="http://www.cyber-literacy.com/blog/09_1_2hyou2.GIF" width="420" height="240" /></center>
<center><img alt="09_1_2housi3.GIF" src="http://www.cyber-literacy.com/blog/09_1_2housi3.GIF" width="396" height="259" /></center>

<p>　若い人ほどマスメディアからパーソナルメディアへとシフトしている。それよりも、人びとの関心がマスメディアから離れ（高齢者は例外）、情報行動の中心がパーソナルメディア、電子メディアへと移行している。</p>

<p>「ジャーナリズムは不要」との意見も</p>

<p>　1日24時間という全体の時間枠は変わらず、人びとが情報活動に費やす時間が限られている以上、インターネットやケータイの普及で既存マスメディアへの接触時間が減るのは当然とも言える。メディア企業における伝統的マスメディアの比重が低くなっているばかりか、人びとの関心の面から見ても、マスメディアは影が薄い。</p>

<p>　ジャーナリズムはもともと日々の記録という意味だが、みんなが情報発信するようになれば、ジャーナリズムもまた活発化するわけではない。ウエブやブログを拠点にしたジャーナリズム活動も一部ではさかんで、それはそれで新しい可能性を秘めているが、社会全体を見ると、新しい情報ツールはおしゃべりや趣味の意見交換に使われ、社会的な言論活動としてのジャーナリズムはむしろ低調である。 </p>

<p>　若者の間には、ジャーナリズム不要論さえある。たとえば、ライブドアによる日本放送株取得などが話題になっていた2005年当時、堀江貴文・ライブドア社長は「自宅で新聞を取っていないし、取る必要もない。情報はケータイとインターネットのサイトですべて探せる。一次的な情報を競争して提供する時代はすでに終わった。（マスメディアの人たちが考える）ジャーナリズムは、インターネット以前の話で、今ではインターネット上にいろんな意見がある。それを並行して見て行けば、自分の考えを形成できる。情報の価値判断はユーザーがすればいい」と語っていた（１）。</p>

<p> 「表現の自由」を行使する手段が万人に開かれたとき、マスメディアにおいても、パーソナルメディアにおいても「表現の自由」やジャーナリズムへの関心が薄れつつあるというのが偽らざる現実だろう。</p>

<p>  そういう状況下で、通信と放送融合時代の新しい法体系（「情報通信法」の構想）を築き上げる作業が進んでいるが、この過程で「表現の自由」がいよいよ狭められる恐れも強い。このシリーズの最後として、次回はこの問題について考える。</p>

<p>＜注＞<br />
（1）毎日新聞2005年3月5日朝刊。<br />
</p>]]>
</content>
</entry>

</feed>