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<title>サイバー閑話</title>
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<title>グーグル・ストリートビュー（2008/10）</title>
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<dc:subject>雑誌『広報』バックナンバー</dc:subject>
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<![CDATA[<p>　グーグルが8月から日本でも開始した「ストリートビュー」は、従来の地図サービスに新しく追加された機能だが、道路沿いに一般家屋の玄関先や庭、止めてある車、公園で憩う人びとや通行人の姿などが見える。公道を歩けばだれもが見られる風景をウエブにアップしてもプライバシー上の問題はないというグーグルの言い分には、ひたすら技術の可能性を追求する新興技術者集団の危うさも見てとれる。</p>]]>
<![CDATA[<p>技術至上主義が拓く未来とその危うさ</p>

<p>　ストリートビューは、グーグルがアメリカで昨年5月から始めたサービスである。これまでも街路図や家並みの衛星写真は見られたが、そこに公道沿いに車を走らせて撮影した至近距離からの写真が加わった。3メートルぐらいの高さから撮っているので、垣根越しの庭の様子まで見える。日本ではまだ東京、大阪、京都、横浜など12都市に限られているが、いずれサービス地域は拡大すると思われる。</p>

<p>　アメリカでのサービス開始と同時に、プライバシーの侵害であるとの強い批判が出ているし、私道から撮影した画像が含まれていたのに対しては、訴訟も提起されている。日本でもブログなどで賛否両論が展開されている。公道上から撮影したといっても、本人にとっては見られたくない場合があるし、偶然撮られてしまった“恥ずかしい”写真もある。「不適切な画像」については、報告すれば検討して、場合によっては削除もしているようだ。</p>

<p>　たしかに撮影されたものは、そのときに公道を歩けばだれもが見ることのできた風景である。現実には、それを見られたからと言って文句をいう人は、まずいない。だが、そのことと、一定時点で切り取られ記録された光景が、だれにも、いつでも見られる形でウエブ上に提供されることとはまるで違う。</p>

<p>　一時、デジタル万引きが話題になったことがある。本屋の店頭でレストランガイドなどの1ページをデジタルカメラやケータイで撮影するのは、雑誌を実際に盗む万引きと変わらないと、書店などが「撲滅キャンペーン」をはった。そこには、本を立ち読みしてレストランの名前や電話番号をそらで暗記するのと、デジタル情報として撮影するのとはまるで違うのだという暗黙の了解があった。目で読み、それを頭で記憶するにはおのずから限界があるが、デジタルカメラは正確にデータを読み取り、量的にも制限がない。同じものを他に簡単に伝えることもできる。</p>

<p>　これと同じことがストリートビューにも言える。このサービスは、観光地をバーチャル散策できるとか、家屋を下見して不動産売買に役立てられるなどと言われているが、他方では、空き巣ねらいやストーカーに自分の家の状態を公開しているようなものである。しかも、それが撮影されていることは当の住人にはまったく知らされていない。</p>

<p>一企業が進める新しい事態</p>

<p>　問題は、このような新しい事態が、一般の人が十分認識しないままに、グーグルという1企業によって世界的に、しかも猛スピードで進められていることである。総務省主催の研究会に出席したグーグル関係者がストリートビューに触れて、「表札でわざわざ自分の名前を公道に出しているわけだから、（人びとは）プライバシーなんて気にしていないのでは。ネットの世界でだけ気にするというのはどうか」という奇妙な発言をしたことが、傍聴した<a href="http://takagi-hiromitsu.jp/diary/20080810.html#p01">高木浩光氏によって記録</a>されているが、おしなべてグーグルという会社には、技術を社会的文脈から切り離して、ただひたすら追求する技術至上主義的傾向がある（これは、キーワードをもとのテキストに埋め込まれた文脈から切り離して、単独で取り出す検索行為とよく似ている）。</p>

<p>　この種のサービスが、国民感情との適合性、プライバシーや著作権をめぐる合法性といった社会的議論が十分に行われないままに開発されている。もちろん、検索サービスを筆頭に、グーグルニュース、Ｇメール、グーグルアースなどのサービスが、若い情熱によって開発され、それらのサービスを私たちが無料で享受しているのも事実である。しかし、彼らの猪突猛進的情熱が新たな社会的脅威を生み出しているのも間違いない。</p>

<p>社会的配慮への認識が希薄　</p>

<p>　不適切な画像があれば削除するという手続きも、一般的にいう「オプトアウト（ある条件の取り扱いについて、事前に該当者の同意を必要とする仕組みがオプトイン、事前の同意を必要としないが、該当者が取り扱いに不満を表明すれば、事後的に解除できる仕組みがオプトアウト）」ではあるが、この場合、あまりに強引である。</p>

<p>　だれでも街路の写真を撮ることはよくあるし、背景として人が写っていても、とくに断ることはない。まさに公道だからである。しかし人が中心なら、盗撮は別にして、了解を得る。観光地を散策してしゃれた家屋をカメラにおさめることもあるだろうが、垣根から身を乗り出すように庭を撮ることはしない。どうしても庭を撮りたいなら、家人の了解を得るのが普通である。</p>

<p>　ストリートビューにはこのような社会的配慮がまるでない。知らないうちに撮影してウエブに公開してしまう。基本的には、切り捨て（無断撮影）御免的手法である。そして、それらのサービスがビジネスに利用され、グーグルの利益に結びつく。</p>

<p>　デジタル情報化が進めば進むほど、この種の問題は増えてくる。情報社会においてさまざまな便益を享受するためには、個人情報に対する考え方をよりオープンなものに変えざるを得ない面もある。だからこそ、この辺をめぐる社会的合意が必要なのだが、そのことに対する認識が、グーグルのみならず、社会的に希薄である。</p>

<p>　イギリスの活動家グループが、二十数社のＩＴ企業のプライバシーに対する取り組みを分析した<a href="http://www.privacyinternational.org/article.shtml?cmd[347]=x-347-553961">報告書</a>で、グーグルを「プライバシーに敵対する（hostile to privacy）」として最下位にランク付けをしたのも、その企業の影響の大きさを考えると、十分納得できると言えよう。</p>

<p><br />
</p>]]>
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<title>毎日新聞英語版サイト「WaiWai」コラム事件（2008/9）</title>
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<modified>2008-10-06T14:05:46Z</modified>
<issued>2008-10-06T13:45:03Z</issued>
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<summary type="text/plain">　毎日新聞英語版サイトのコラムをめぐって、ネット上で「低俗だ」、「海外に日本人を...</summary>
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<![CDATA[<p>　毎日新聞英語版サイトのコラムをめぐって、ネット上で「低俗だ」、「海外に日本人を誤解させる」などと批判が起こり、ネットを通じて繰り広げられた抗議行動が当のサイトの閉鎖や毎日新聞本体の「おわび」へと発展した。ここには、マスメディアとパーソナルメディアが錯綜する「総メディア社会」が直面する大きな試練が横たわっている。</p>]]>
<![CDATA[<p>マスメディアを揺るがす「総メディア社会」</p>

<p>　最初に事実関係を説明しておこう（別表「関連資料」として上げた毎日新聞やウエブ上の各種記事による）。</p>

<p>　毎日新聞社の英語版サイト「毎日デイリーニューズ」に「WaiWai」というコラムがあり、国内の週刊誌、夕刊紙、写真週刊誌などをネタ元にして、日本人のハレンチな、あるいはセックスがらみ、奇癖まがいの話題をおもしろおかしく翻訳提供していた。2001年4月から原則として毎日掲載されていたという。</p>

<p>　このコラムに対しては、編集部や毎日新聞本体に国内外から「低俗である」とか「日本人を誤解させる内容である」とかいう抗議が来ていたが、無視されたままだった。しかし今年4月にブログ「毎日新聞英語版は誰にハックされているのか」に「何の根拠もない記事を垂れ流す毎日新聞はおかしい」という批判記事が出て、ほどなく２ちゃんねる掲示板や、関連記事をまとめたウエブなどで毎日新聞への抗議行動が繰り広げられる事態に発展した。</p>

<p>　ネット上の抗議行動（「電話突撃作戦」、略して電凸などと呼ばれる）は「毎日新聞英語版を潰すため」に多くの人びとに「この事態を２ちゃんねるやブログを通じて日本国民に広く知らせる」、「毎日新聞社、毎日新聞のスポンサーに対し、メール・電話・質問状などを通じて抗議する」、「他の新聞・雑誌に記事として取り上げてもらう」などを要請したもので、とくにスポンサーへの働きかけが大きな効果を上げたらしい。 </p>

<p>　ジャーナリストで元毎日新聞記者の佐々木俊尚「毎日新聞社内で何が起きているか」によると、毎日のニュースサイト「毎日・ｊｐ」の広告は七月下旬から一時全面ストップしたほか、毎日に広告を出稿しているスポンサー企業や提携先、関連団体など、毎日社内の集計でも200社以上への働きかけが行われ、相当数のスポンサーが本紙への広告停止措置をとったという。</p>

<p>　その結果、毎日新聞は未曾有の混乱に見舞われ、6月25日朝刊本紙およびウエブにおわびを掲載、翌7月20日には「英文サイト出直します　経過を報告しおわびします」という記事を朝刊本紙およびウエブに掲載、あわせて同日紙面に2ページ見開きの特集「英文サイト問題検証」記事を掲載する事態に陥った。</p>

<p>「編集メディア」と「無編集」メディア</p>

<p>　事件を毎日新聞の側から見てみよう。マスメディアは、記事に幾重にもチェック機構が介在する「編集メディア」である。記事は掲載までにデスク段階、整理段階などで幾重にもチェックされる。だから誤報がないとは必ずしも言えないが、一応は記事の誤りや不適切な内容はチェックされて、没になったり、手を加えられたりする。そのような紙の新聞では当たり前のチェック機構が英語版サイトにはなく、記事はほとんど外国人のコラム担当者が書き、そのまま掲載されていた。</p>

<p>　だから検証記事では、ずさんな編集態勢や幹部の監督責任が問われ、社内的処分も行われた。しかし、ここには現下のメディア全体が置かれたもっと本質的な問題が露呈しているというべきだろう。</p>

<p>　マスメディアが編集メディアであれば、パーソナルメディアとしてのウエブやブログは「無編集メディア」である。記事は本人の責任で書かれ、それを信じるかどうかは、読者の自己判断に任される。もちろんウエブでは、読者からの指摘で誤りが正され、すぐ訂正されることも多いから、パーソナルメディアは「相互編集メディア」でもある。</p>

<p>　ここがマスメディアとパーソナルメディアの大きな違いと言えば違いなのだが、パーソナルメディア勃興の前に、マスメディアの従来の厳格な紙面づくりが内部的に緩みつつある。とくにオンライン発信ならパーソナルメディア並みの信頼度でいいだろうという甘えがあったというべきである。<br />
　<br />
　今年3月、ウエブでラーメン店を中傷する記事を書いたとして名誉毀損罪に問われた会社員に対して、東京地裁は「記載内容は真実とは言えないが、インターネットの個人利用者が求められる水準の調査は行っていた」として無罪を言い渡している。マスメディアとパーソナルメディアでは記事の真実性の基準は異なっていいと判断を示したわけで、これはこれで興味深いテーマだが、私が危惧するのは、マスメディアとパーソナルメディアが錯綜する「総メディア社会」で、記事の信頼性というものが、押しなべて低下している事実である。ジャーナリズム精神の衰退と言っていい（もっとも、最初のブログが「マスメディアよ、しっかりしろ」というきわめてまっとうな問題提起だったのは記憶されていい）。</p>

<p>ネットのもつ巨大な力</p>

<p>　パーソナルメディアの側から見ると、ネットのもつ巨大な力が発揮されたエポックメイキングな事件だということになる。抗議行動の結果は、「毎日新聞事件の情報集積ｗｉｋｉ」にまとめられているが、500件はあると思われるスポンサー企業、マスコミ、官公庁などへの抗議行動とその結果が詳細に報告されている。インターネット普及期の1999年に起こった家電メーカー・アフターサービス事件は、企業相手の「たった一人の反乱」だった（1）。十年を経過して、事態は大きく変わったというべきだろう。</p>

<p>　そもそもの火付け役がブログであったこと、事件報道や抗議行動がウィキ（wiki）という、誰もが書きこみできるウエブを利用して展開されたこと、さらにはいくつかの顕名サイトが問題の本質を鋭く抉るすぐれた論評を展開したことも特筆されていい。</p>

<p>　佐々木記者は、某全国紙の社会部記者の述懐として「この事件を真正面から取り上げ、新聞社へのネットの攻撃パワーの強いことを明確にすると、刃が自分たちのところに向かってきそうで恐怖感がある」という興味深い証言も紹介している。マスメディアが置かれた最大の難問が広告収入源であるという事実は、既存メディアによってはほとんど報じられていない。</p>

<p>＜注＞<br />
　1、家電メーカー・アフターサービス事件の詳細は、拙著『インターネット術語集』（岩波新書、2000）を参照してください。 <br />
　<br />
【事件をめぐる関連資料】</p>

<p>＜毎日新聞＞  <br />
　●おわび　6月25日朝刊本紙および<a href="http://www.mainichi.co.jp/20080720/0625.html">ウエブ</a>に掲載<br />
　●本社英文サイト問題の経過説明します　6月28日朝刊社会面<br />
　●英文サイト出直します　経過を報告しおわびします　7月20日朝刊本紙1面およびウエブに掲載　<br />
英文サイト問題検証記事　同日朝刊特集面2ページ　</p>

<p>＜ネットの言論および抗議活動（発表日時はURL参照）＞ </p>

<p>　●「<a href="http://rockhand.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_6f5f.html">毎日新聞英語版は誰にハックされているのか</a>」（ブログ「Mozuの囀」）<br />
　●「<a href="http://www9.atwiki.jp/mainichiwaiwai/">毎日新聞の英語版サイトがひどすぎる まとめwiki</a>」<br />
　●「<a href="http://society6.2ch.net/test/read.cgi/mass/1211846778/l50x">毎日新聞の英文サイトがひどすぎる</a>」（２ちゃんねるスレッド）<br />
　●<a href="http://www8.atwiki.jp/mainichi-matome/">まとめサイト「毎日新聞事件の情報集積wiki」</a><br />
　●「<a href="http://www.j-cast.com/2008/06/20022225.html">毎日新聞英語版サイト『変態ニュース』を世界発信</a>」（JCASTニュース）<br />
　●<a href="http://d.hatena.ne.jp/gatonews/20080707/1215364109">藤代裕之「毎日新聞『WaiWai』問題と私刑化する社会とネット時代の企業広報の視点</a>」（ガ島通信）<br />
　●<a href="http://japan.cnet.com/blog/sasaki/2008/08/05/entry_27012752/">佐々木俊尚「毎日新聞で何が起きているか㊤㊦</a>」<br />
</p>]]>
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<title>現代社会を生き抜くために不可欠な「サイバーリテラシー」（2008/8）③</title>
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<modified>2008-08-31T04:50:24Z</modified>
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<![CDATA[<p>密接に絡み合う「サイバー空間」と「現実世界」</p>

<p>　サイバーリテラシーでは、現下の社会を、現実世界とサイバー空間が、あざなえる縄のごとく複雑に入り組んでいる姿と捉えている（5）。</p>

<p>　秋葉原大量殺傷事件の背景に、現実世界とサイバー空間が絡み合う現代社会の混沌が透けて見えるが、このような激変する社会を生き抜くためには、「情報社会のリテラシー＝サイバーリテラシー」が不可欠だというのが私の主張である。</p>

<p>新しいカリキュラムが必要</p>

<p>　「サイバーリテラシー」は、ひとことで言うと、「ＩＴ社会を生きるための能力（基本素養）」であり、付言すれば、「ＩＴ社会のリテラシー」、「電子の文化のリテラシー」、「万人が情報発信するようになった時代のリテラシー」である。</p>

<p>　それは、現代社会を、私たちが現に生活している「現実世界（リアルワールド）」と、インターネット上に成立した「サイバー空間（サイバーワールド、サイバースペース）」の相互交流する姿と捉えることで、これからの社会を快適で豊かなものにするための実践的知恵を導き出すことをめざしている。</p>

<p>　リテラシー（literacy）とは、①識字能力、言語運用能力、②教養があること、③（特殊な分野・問題に関する）知識・能力」（『ランダムハウス英和大辞典第二版』）という意味だが、洋の東西を問わず、あらゆる社会（文明）は、そこに生きる人びとの基本素養を育成するカリキュラムを用意してきた。江戸時代なら「読み書きそろばん」、西欧中世なら「リベラルアーツ（liberal arts）」、中国をはじめとする儒教社会なら「四書五経」などがそれである。そして、現代IT社会のリテラシーこそ、サイバーリテラシーなのでる。<br />
　<br />
　現段階のサイバー空間は、現実世界とはまるで違う原理で成り立っており、私たちはその便益を大いに享受しているが、一方で、現実世界でこれまで当たり前だった原理や秩序が、サイバー空間の影響を受けて激しく動揺している。これは人類がかつて経験したことのない事態である。サイバー空間と現実世界のほどよい共存を図るためには、社会システム全体の再構築が必要だが、同時に私たち一人ひとりが新しい時代の本質を理解しなくてはいけない。</p>

<p>学校裏サイトの実態</p>

<p>　文部科学省の調査によると、いわゆる「学校裏サイト」は、全国の中学・高校の総数の2倍以上にあたる3万8000件余もあるという。群馬、静岡、兵庫3県の書き込み内容を分析したところ、そのうち50パーセントに「キモイ」、「うざい」など特定個人を中傷する言葉があり、37パーセントに性器などわいせつな用語が書かれ、27パーセントに「死ね」、「殺す」など暴力を誘発する言葉が含まれていた（6）。</p>

<p>　子どもたちは自分の名前、住所、血液型などを書き込んで友だちを求めているが、そこには心のふれあい、相手を思いやる気持ちなどは希薄で、ただ目立ちたい一心からポルノ写真まがいの自分の画像を張りつける少女もいる。ここでの書き込みをめぐってトラブルが発生する例も多い。</p>

<p>　かつて多くの人びとが、自分の心のうちに「死ね」、「殺す」などという言葉が浮んだだけでそれを恥じ、自ら恐れおののいたものである。このような乱暴な言葉が頻発するケータイ文化というものを考えると、情報社会のリテラシー教育がいかに欠けているかを痛感せざるを得ない。</p>

<p>青少年有害サイト規制法<br />
　<br />
　子どもたちをこれらの有害サイトに近づけるべきでないという親の意見を反映して、「青少年が安全に安心してインターネットを利用できる環境の整備等に関する法律（青少年有害サイト規制法）」が6月に成立した。青少年（18歳未満）のケータイにフィルタリングソフトを導入することを原則義務づけるものだが、コンテンツ規制に関わるものだけに、何が有害なのか、だれが有害だと判断するのかをめぐって成立までに紆余曲折があったが、当面は民間で基準作りに取り組むことになっている。</p>

<p>　私は、すでに書いてきたように、ケータイのフィルタリングそのものには賛成だが、インターネットをめぐるリテラシーをきちんと教育することを怠ってきながら、いきなりサイト規制に乗り出し、またそれでこと足れりとするようなやり方は感心しない。</p>

<p>疲弊した「現実世界」を立て直す</p>

<p>　根は、もっと深いところにある。一口にリテラシーと言っても、インターネットの歴史は新しく、しかもシンポのスピードは速い。長じて後これらの道具を利用するようになった年長者と、物心ついたときからパソコンがあった世代、ケータイが当たり前の世代では、リテラシーの内容も異ならざるを得ない。親の世代にとっては、子どもたちに何を教えなければいけないのか（子どもたちは何がわからなくなっているのか）といったことすらわからないのが現実である。きめこまかなカリキュラムが必要なのだが、教育現場をはじめ、社会全体の取り組みはきわめて鈍い。</p>

<p>　リテラシーの重要性は、もちろん子どもだけの問題ではないし、ケータイだけの問題でもない。</p>

<p>　たとえば長距離トラックにはデジタルタコグラフが搭載され、速度やエンジンの回転数ばかりでなく、いつ走っていつ休んだか、仮眠中はエンジンを切ったかなどの運転記録が細かく記録されているという（7）。しかも、国はこれを「エコドライブ管理システム」と名づけ、補助金を出して導入を進めてきた。記事には、エアコンをつけたまま仮眠し、給料から八千円を引かれた運転手の例も紹介されていた。</p>

<p>　こういうふうに運転手を徹底的に管理するためのＩＴ技術の導入は、運転手の人間性を深いところで傷つける。ＩＴ技術を、ただ便利だからとか、効率がいいとかいう理由だけで無原則に導入することが、社会を疲弊させている例は枚挙にいとまがない。これもまたリテラシーの欠如である。同時に、ＩＴ社会をいかに生きるかを「情報倫理」の問題として考え直すことが必要である（8）。</p>

<p>「サイバー元服」という考え方</p>

<p>　リテラシー教育で大切なことは、「サイバー空間」の侵食ですっかり疲弊した「現実世界」を立て直すことである。話をケータイと子どもたちに戻して一つの提案をすれば、そういう観点からは、子どもには思い切ってケータイを持たせない運動も一考に値するのではないだろうか。私はこれを「サイバー元服」と呼んでいる。</p>

<p>　そのポイントは、①青少年とインターネット対策として、18歳未満という青少年有害サイト規制法の区切りとは別に、13歳から15歳の区切りを設定する。②かつての元服のように、一定年齢に達するまではインターネットやケータイの利用を一律に制限する。③法による一律禁止、ないしは制限よりも、社会的合意の成立をめざす。運用は自治体単位に決めてもいい、の3点である。</p>

<p>　子どもが、現実世界の家族、学校、地域における肉体的コミュニケーションを通じて、社会で生きていくための基本的な行動様式（マナー）を学ぶ前に、インターネットを通じてサイバー空間に入り込むのは好ましくない。ケータイ利用を個々の家庭（親や子ども）の判断に任せておくと、横並び意識の強い日本では、どうしても他の子どもとの関係で持たせる方向に流れてしまうから、社会的合意の形成が必要なのである。<br />
　<br />
　13歳から15歳のどの辺に設定するのがいいのか、ケータイとパソコン、ケータイのメールとウエブ閲覧の区分けなどは今後の検討課題だが、同志社女子大学教授で児童文化研究家の村瀬学は、子どもと大人の境界を13歳に置き（9）、13歳は子どもたちがはじめて法や掟＝社会の仕組みに直面するときであり、自分をつくりかえていく、自分の中に自分を「産む」時期だと言っている。大いに参考になると思われる。</p>

<p>　いまの子どもたちはケータイで遊びの約束をする。ケータイを持っていないと自分の子どもがいじめられたり、仲間はずれにされたりするという恐れが、多くの親が子どもにケータイを持たせる動機ともなっている。一定年齢まではケータイ利用を制限するという社会的合意が育まれれば、事態は大きく変わるのではないだろうか。<br />
　多くの人が「情報社会のリテラシー＝サイバーリテラシー」の重要性に注意を向けていただけるとたいへん嬉しい。</p>

<p>＜注＞<br />
（5）サイバー空間と現実世界の関係史については、拙著『サイバーリテラシー概論』第Ⅳ部「現実世界の変容とサイバーリテラシー」参照。ウエブの「サイバーリテラシーとは」に掲載した<a href="http://www.cyber-literacy.com/ja/about/index.html">図3</a>がそれで、サイバー空間と現実世界がほとんど密着し、複雑に絡み合っている様子を、メビウスの環を2つ組み合わせる形で表している。地球（現実世界）の表と裏の区別もなくなり、ねじれた現実世界の上部に、ほとんど縫い込まれるように、サイバー空間が張りついている。ジャーナリスト、トーマス・フリードマンが描いた『フラット化する世界』（日本経済新聞社）の現実がそこにある。<br />
（6）http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0804/16/news082.html。<br />
（7）朝日新聞2008年7月21日付朝刊「ルポにっぽん」。<br />
（8）私は情報倫理を「情報のデジタル化が引き起こす問題に有効に対応するための倫理的課題を探る」ものと位置づけ、サイバーリテラシーとセットで考えている。<br />
（9）村瀬学『13歳論 こどもと大人の「境界」はどこにあるのか』（洋泉社）。なお、サイバー元服については、矢野直明・林紘一郎『倫理と法 情報社会のリテラシー』（産業図書）で詳しくふれている。<br />
</p>]]>
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<title>現代社会を生き抜くために不可欠な「サイバーリテラシー」（2008/8）②</title>
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<modified>2008-08-31T04:30:02Z</modified>
<issued>2008-08-31T04:22:18Z</issued>
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<![CDATA[<p>フリーターからネットカフェ難民まで</p>

<p>　秋葉原事件のもう一つの特徴は、Ｋが学業を終えた後の職業遍歴である。事件直後からＫが派遣社員で、派遣先の自動車工場（静岡県裾野市）ではいつ解雇されるかわからない不安定な環境にいたことが報じられている。</p>

<p>　Ｋは青森県の高校を出た後、岐阜県の自動車関係の短期大学を卒業、仙台市の人材派遣会社に登録することで社会生活をスタートした。その後は自動車工場のトラック組み立てライン（埼玉県）、住宅建材メーカー（茨城県）、運送会社（青森県）などを転々としている。運送会社ではいったん正社員になったが、よりよい雇用条件を求めてなのか、自ら退職、東京の大手製造派遣会社に登録、そこから静岡の自動車工場に派遣された。</p>

<p>「軋む社会」の不協和音</p>

<p>　この経歴をどう考えるべきだろうか。せっかく正社員になっても長続きしないこらえ性のなさを指摘することもできる。人材派遣会社に登録すれば、それなりの日銭を稼ぐことはできるが、契約は短期間で、景気変動の影響を受けて雇用は不安定である。残業時間が減れば収入も減る。だれにもできる単純作業が多いし、労働条件も悪い。一箇所に長く止まり、年月を積み重ねて技能を高めていくような派遣の仕事は少ない。しかもＩＴ技術の発達は、それらの仕事を全国規模で探すチャンスを提供している。だからちょっとした条件の差に反応し、容易に転職もする。こういう労働環境には、Ｋの個人的事情を上回る、いびつな社会構造があると言えるだろう。この事件が「テロ」とも「無理心中」とも言われるのは、このためである（4）。</p>

<p>　現下の社会情勢について、教育社会学者の本田由紀は『軋む社会』（双風舎）で、大略、以下のように書いている。</p>

<p>　日本社会は1990年代中ごろから大きく変わった。それまでは、教育を終えると同時に安定的な仕事につくことができ、年ととも収入も増えた。ある年齢になれば結婚し子どもを生み、次世代である子どもの教育に費用や意欲を注ぎ込むという安定的な循環関係が、かなり多くの社会成員を巻き込むかたちで成立していた。ところが90年代半ば以降、こうした循環関係にいたるところで亀裂が入りはじめる。同時に、その循環関係が当てはまる層が社会の一部に限定され、そこからこぼれ落ち、放置される層が拡大してきた。その結果、「こぼれた層はもちろんのこと、表面的にはいまだ循環の内部にある層からも、鼓膜を裂くような鋭い『軋み』の音が響いている」と。</p>

<p>若者の置かれた過酷な状況</p>

<p>　フリーター、アルバイト、パート、パラサイト・シングル、ニート、ワーキングプア、プレカリアート、若年ホームレス、ネットカフェ難民――。ちょっと思い出すだけで、「軋む社会」から搾り出されてきた、あるいは浮き出てきた目新しい横文字をいくつか思い出すことができる。ハケン（派遣）もまた、その一つと言っていい。高度経済成長下に誕生した「一億総中流」社会が、音を立てて崩れ落ちているのである。</p>

<p>　フリーターという呼称は、一九八〇年代末にリクルート社員が作り出したものらしい。当初は会社にしばられない、自由で力強い働き方として肯定的な意味で用いられたが、その量的な増大と労働条件の劣悪化が明らかになるとともに、否定的な響きをもつようになった。ニート（ＮＥＥＴ）はイギリス政府が労働政策上の分類として定義した言葉で「Not currently engaged in Employment, Education or Training」（雇用されておらず、教育を受けておらず、職業訓練もしていない）」の略。日本の労働白書では、「労働者・失業者・主婦・学生」のいずれにも該当しない「その他」の人口から「十五～三十四歳」までを抽出した人口（若年無業者）、とされている。「ニートは失業者ではない」という捉え方が一般化して、この言葉にも「働く気もない怠惰な人間」という否定的な意味合いがつきまとっている。</p>

<p>　戦前に書かれた小林多喜二のプロレタリア文学『蟹工船』があらためて脚光を浴びているのも、現在の若年労働者の過酷な状況が、かつてのタコ部屋を連想させるからだろう。しかし、新しい言葉が使われる以上、新しい意味が付加されているわけで、そこには今の状況は若者自らが選んだのだというニュアンスが込められている。実際、若者自身が自分たちの境遇を、押し付けられたというより、自分が好きで選んだと考えている、あるいは思い込もうとしている節もある。それが大人たちの「自己責任」を追求する声と奇妙に符合しているわけである。</p>

<p>流動化する社会とＩＴ</p>

<p>　現在の情勢は、社会の流動化によってもたらされたものであり、それはもちろん、ＩＴ技術の発達と無縁ではない。この点に関しては、本連載でもケータイ小説の流行、ヘッドハンティング、ローン証券化などの話題を取り上げ、現実世界の流動化がサイバー空間によって加速されていることを指摘してきた。サイバー空間の影響をもろに受けて、これまで当たり前だった、あるいは合理的であると考えられてきた現実世界の社会秩序や社会システムが音を立てて崩れつつある。「軋む社会」もその一環である。</p>

<p>　とくに日本人は、「個」と「社会」の緊張関係を通して、世界共通の普遍的な価値を築き、それに従って行動する欧米的な生き方は苦手である。日本人の多くは長い間、「世間」という独特の集団（および集団意識）の中で生活してきた。自分が所属する小さな「世間」の内では無原則的に（仲良く）、外に対しては無関心に（冷たく）行動してきたのであり、それがいま、グローバル化への不適応となって現われている。しかもその混乱のなかで、「世間」が持っていた長所を、まるで赤子をたらいの水といっしょに流すように、無造作に捨てつつある。しかも、それに代わり得る新しい生き方や倫理は確立できていない（近年の規制緩和策は、古いしがらみを解体しつつ、むきだしの弱肉強食社会を出現させた面が強い。規制緩和策を次々に断行した小泉政権を、多くの若者が支持したのも皮肉である）。</p>

<p>　ここ数年騒がれ続けている食品偽装事件の悪質さ、年金をめぐる社会保険庁の混乱、官僚の堕落を浮き彫りにした「居酒屋タクシー」、大分県の教職員採用や昇進をめぐる教育現場の腐敗など、日本社会の混乱と倫理の失墜は目を覆うばかりである。若者の世界だけではなく、社会全体が大きく軋んでいると言えよう。</p>

<p>＜注＞<br />
（4）たとえば朝日新聞紙上の東浩紀「絶望映す身勝手な『テロ』」（6月12日朝刊文化蘭）、藤原新也「映像が凶器の『無理心中』」（6月30日オピニオン欄）。藤原新也説は「Kは自分と同類の人々がいると思い込む秋葉原に行って無理心中しようとした」というもの。 <br />
</p>]]>
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<title>現代社会を生き抜くために不可欠な「サイバーリテラシー」（2008/8）①</title>
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<modified>2008-08-31T04:22:11Z</modified>
<issued>2008-08-31T03:54:23Z</issued>
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<![CDATA[<p>　この連載では、現代社会がはらむさまざまな問題を取り上げながら、そこに情報のデジタル化がどのような影響を与えているかを、「サイバーリテラシー」という考えをもとに探ってきた。今回は「夏休み拡大版」として、最近、社会に大きな衝撃を与えた秋葉原大量殺傷事件を通して、あらためて「情報社会のリテラシー＝サイバーリテラシー」の重要性について私の考えを述べたい。＜この稿は長いので、3回に分けて掲載します。順番が逆になるのが難点ですがよろしく。―矢野注＞ <br />
　<br />
</p>]]>
<![CDATA[<p>ケータイが生むディスコミュニケーション</p>

<p>　日本ばかりでなく、世界全体が、いま歴史の大きなうねりの中にある。それがグローバル化であり、それを推進する大きな要因がインターネットである。情報のデジタル化は世界同時に進んでおり、だからサイバー空間が現実世界に与える影響もグローバルなものになるが、その国、その民族、その地域による政治、経済、文化の違いにより、受ける影響も異なる。だからいま進んでいる変化は、グローバルであると同時にローカルだと言えよう。</p>

<p>　そういう観点から日本を見ると、ＩＴ技術が日本特有の影響を与えている面も無視できない。私はかつて新聞に「ＩＴは日本人にとってパンドラの箱」という投稿をしたことがある（1）。その趣旨は、コンピュータという二者択一の道具を主体的に使うことが不得手な日本人は、ともすると、それを毛嫌いして反発するか、逆に完全に屈服してしまいがちだが、インターネットという道具は、毛嫌いしている人にも襲いかかるし、屈服してしまうときわめて危険でもある。その結果、日本人はＩＴの影響を過度に受けがちだということだった。<br />
　<br />
25歳青年の残虐行為</p>

<p>　6月8日の日曜日の白昼、東京・秋葉原で、25五歳の青年（以下、Ｋと表記）がトラックを暴走させて通行人をはねたあと、手にしたナイフでさらに多くの通行人に切りつけ、7人を死亡させ、10人に重軽傷を負わせた事件は、多くの人にまだ生々しい記憶を残している。</p>

<p>　彼の残虐な行為に情状酌量の余地はほとんどないが、犯行の背景として注目されるのは、彼が事件を起こす直前までケータイ掲示板に犯行を予告する書き込みを続けていたことである。</p>

<p>　ケータイ掲示板でのやりとりを再現したウエブ（2）や新聞各紙の報道によると、犯行当日、彼は「秋葉原で人を殺します」という「スレッド」を立ち上げ、午前5時21分の「車でつっこんで、車が使えなくなったらナイフを使います　みんなさようなら」から、午後零時10分の「時間です」まで、30回にわたって短い投稿を重ねている。犯行はその直後に起こった。</p>

<p>　Ｋは、以前にも同じケータイ掲示板を使ってさかんに書き込みを行っているが、他人からの応答があっても、それらの書き込みにほとんどまともに応答せず、双方向的なコミュニケーションになっていない。むしろコミュニケーション拒否のように思われる。そのうち応答がなくなり、本人は「孤独感」を深めていったわけだが、このコミュニケーション環境に囲まれながらのディスコミュニケーションが、ケータイ時代の大きな特徴だと思われる。<br />
　<br />
　ケータイの小さな窓を通して行うメールによるコミュニケーションは、手書きの手紙とも違うし、面と向かって行う会話とも違う。大学の授業で「ケータイではなぜドタキャン（直前のキャンセル）しやすいか」というテーマでレポートを書いてもらったことがあるが、学生たちはドタキャンする場合は、ほとんど音声ではなくメールですると答えている。メールなら「ごめんね、ダメになった」と言えばすむわけで、不機嫌な返事を聞かなくてもすむ。メッセージはたしかに行き来しているが、そこにはコミュニケーションの主体同士の感情とか人格がほとんど投影されていない。</p>

<p>上滑りコミュニケーション</p>

<p>　若者たちはすでにこのような「上滑りコミュニケーション」を当たり前だと思いはじめており、それが現実世界の生き方にも大きくはね返っている。たとえば警察庁のまとめによると、秋葉原事件後、インターネットの掲示板に何らかの犯行を予告する書き込みが、犯行2週間後の23日現在、全国で17件あり、17人が摘発・補導された（3）。調べに対して、「実際に犯行を実行するつもりだった」と供述したケースはなかったという。そこでは言葉の重みが完全に消えている。</p>

<p>　ところで、親を困らせたくて突然バスジャックをした宇部市の中学2年生（7月16日）、動機がはっきりせず、発作的に父親を殺したように見える川口市の女子中学3年生（同月19日）のように、きわめて軽い動機から実際に重大犯罪に走る例も見られる。</p>

<p>　これらの行動も、ケータイの気軽なコミュニケーションと深いところでつながっているだろう。ちなみに、秋葉原事件からほどない7月22日には、東京・八王子市のショッピングセンター内の書店で、店員ら2人の女性が33歳の男性に刺され、1人が死亡した。これも通り魔的犯行で、犯人は「むしゃくしゃしていた。だれでもよかった」と供述している。また同日、群馬県桐生市で高校1年生がインターネット上の「プロフ」と呼ばれる掲示板での書き込みがもとで知り合いの少年に刺殺されている。</p>

<p>＜注＞<br />
（1）讀賣新聞2006年2月7日付夕刊、文化欄。<br />
（2）http://www8.atwiki.jp/kotono8/pages/11.html。<br />
（3）http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/080624/crm0806241211018-n1.htm。</p>]]>
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<title>国内ローンが世界金融を震撼させる（2008/7）</title>
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<modified>2008-08-11T07:18:56Z</modified>
<issued>2008-08-11T07:10:12Z</issued>
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<summary type="text/plain">　アメリカの低所得者向け住宅ローン（サブプライムローン）は、いまだに世界金融界に...</summary>
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<![CDATA[<p>　アメリカの低所得者向け住宅ローン（サブプライムローン）は、いまだに世界金融界に大きな混乱を及ぼしているが、その影にはローンの「証券化」という金融技術があった。それは、メッセージがメディアを離れて流通する「総メディア社会」の一現象と捉えることもできる。</p>]]>
<![CDATA[<p>進む資本提携と犯罪捜査</p>

<p>　最近の新聞報道によれば、三井住友銀行はイギリス大手銀行バークレイズに1000億円余を出資する資本・業務提供に向けて最終調整に入ったという。バークレイズのみならず、欧米の大手銀行、証券会社はサブプライム問題で巨額の損失を抱え、資本増強が必要になっており、比較的影響が少なかった日本の銀行や証券に出資要請が来ているらしい。1月には、みずほコーポレート銀行が米証券大手のメリルリンチに約1300億円を出資している（1）。</p>

<p>　また米司法省と米連邦捜査局は、今年3月以降の約3カ月半の間にサブプライムローンなど住宅ローンに絡んだ詐欺として144件を立件し、406人を訴追したと発表した。被害総額は1080億円。これとは別に、米連邦検察当局は大手証券、ベアー・スターンズの元幹部2人を証券詐欺の疑いで訴追した。司法当局は大手企業への捜査も視野に入れていると報じられており、市場を揺さぶったサブプライム問題は金融不祥事へと発展した（2）。</p>

<p>「ローン証券化」という金融技術</p>

<p>　アメリカ国内の住宅ローンをめぐるトラブルが、世界金融を揺るがす事態に発展した背景には、「ローンの証券化」という仕かけがあった。春山昇華『サブプライム問題とは何か』（宝島社新書）を参考に、この点に絞って考えてみよう。</p>

<p>　証券化というのは、不動産や債権などの資産が生むリスクやリターンを有価証券（社債や株式）の形で投資家に分散させる金融技術のことである。たとえばかつては不動産に投資して利益を得ようとすれば、直接不動産を取得して経営するしかなかったが、これを証券化すれば、専門家が不動産を経営し、投資家は証券を売買するだけで利潤を得られる。ローンを小口化すれば、大きな資金も必要でなくなる。こうして利益率の高い住宅ローンを証券化することがはじまった。</p>

<p>　同書の説明によると、銀行が消費者と7パーセントの利回りで住宅ローンを組んだあと手数料を引いて、6.5パーセントの利回りで証券会社に売却する。証券会社は証券化の手数料を引いて、投資家に6パーセントの利回りで販売する。投資家にとっては6パーセントの利回りでも十分に魅力的なので（米国債の金利は2004年以降ずっと4パーセント台だった）、このサブプライムローン証券は人気商品になった。</p>

<p>　もちろん背景には、アメリカにおける不動産、住宅ブーム（と言うよりバブル）があり、住宅はどんどん値上がりしていた。消費者は最初の数年は安い利息を払うだけですみ、住宅の資産価値が上がった数年後に転売すれば有利な投資になったし、売らなくても、高騰した住宅価格を担保に別の消費者ローンを組むこともできた。この辺は「少々高くても、もっと高くなる（自分より後に来るものが、より高い金で買う）」といった日本の土地バブルそっくりだが、「ローン証券化」は、より深いところでモラルの崩壊をもたらした。</p>

<p>　銀行はもともと、金を貸すに際しては、顧客の財政状況をきちんと調査し、返却できそうもないと判断すれば貸さない。しかし、いったん貸せば、銀行と顧客とのつきあいは長く続くのが普通だった。ローンを通じて、銀行と顧客は緊密につながり、そこに地域的なコミュニティが成立していた。ところがこれが証券化されると、ローン契約した段階で銀行と顧客の仲は切れる。「後は野となれ山となれ」というと言葉は悪いが、たとえローンが破綻しても銀行には何の損失も生じない。消費者にとっては、ローンのその後は市場まかせ、自分が負債を負っている真の相手もわからない。かくして銀行員が持っていた面倒見の良さや、返済能力の怪しい人には貸さないというモラルは失われた。</p>

<p>　こういった現象の典型として、「ニンジャローン」の話が紹介されている。ＮＩＮＪＡとは、「収入がなくてもＯＫ（No Income）」、「働いてなくてもＯＫ！無一文でもＯＫ！（No Job & Asset）」の頭文字から名づけられたもので、こういった摩訶不思議なローン登場の背景には、「不動産価格は上昇するから、たとえ顧客がローンを払えなくても、不動産を処分しさえすれば損しない」という考え方があったらしい。</p>

<p>　ところが、住宅価格の急上昇は2005年をピークに急速にしぼみ、2007年になると、ローンを返せない人びとが増え、全米各地で売り家があふれた。そして、全世界にばらまかれたサブプライムローン証券が金融界を混乱に陥れたのである。</p>

<p>「総メディア社会」の一現象</p>

<p>　アメリカ国内の住宅問題が世界の金融界を震撼させるという構造を考えるとき、情報のデジタル化で出現した「総メディア社会」では、メッセージはメディアを離れて、メッセージ単独で流通するという事実を思い出させられる。この際のメッセージは「ローン証券」であり、メディアは「住宅」である。一国内の具体的な住宅を離れて世界に流れたローン証券は、結局は、低所得者から住宅を剥奪し、投資家にも莫大な損失を与えたことになる。</p>

<p>　最近は、温室効果ガスの排出削減も含め、「証券化ビジネス」がもてはやされ、特許権、映画制作など、資金を投入して何かをつくり、そこから収入が入るものなら、すべて証券化可能だと言われている。これも資本の流動化現象だが、一方で、私たちはまことにあやふやな時代を生きていることになる。</p>

<p>＜注＞<br />
①朝日新聞6月20日夕刊。<br />
②日本経済新聞6月20日夕刊。<br />
</p>]]>
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<title>ケータイはパソコンとは違う影響を及ぼす（2008/6）</title>
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<modified>2008-07-13T06:19:08Z</modified>
<issued>2008-07-13T06:08:51Z</issued>
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<summary type="text/plain">　テレビも見られるし、サイフ代わりにも使えると、ケータイの機能が拡充するにつれて...</summary>
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<![CDATA[<p>　テレビも見られるし、サイフ代わりにも使えると、ケータイの機能が拡充するにつれて、インターネットにアクセスするのもケータイだけ、パソコンはほとんど使わないという若者が増えているようである。パソコンからケータイへのシフトは、サイバー空間のあり方を変え、私たちの思考、感性に及ぼす影響もまた変わってくるだろう。</p>]]>
<![CDATA[<p>パソコンからケータイへ</p>

<p>　都内の私立大学で7年間、情報社会論の講義を続けているが、最初のころは「パソコンを持っている」学生が年ごとに増加する傾向を示していた。ＡＤＳＬの普及など回線のブロードバンド化ともあいまって、若年層にもパソコンが着実に浸透してきている、と感じていたのだが、ここ数年、自分のパソコンを持っているという学生の数は急に減少してきた。「パソコンは大学にあるからとくに必要ない」と言う学生が多いのだが、彼らにとってパソコンは、すでに「無用の長物」になりかかっている。</p>

<p>　総務省が4月に発表した2007年末時点の「通信利用動向調査」によると、過去1年間にインターネットを利用したことのある人は8800万人で、人口普及率は約70パーセント。これを利用端末ごとに見ると、パソコンが7800万人（89パーセント）、ケータイが7300万人（83パーセント）。さらに細かく見ると、パソコンのみを利用している人は1500万人（17パーセント）、ケータイのみが1000万人（11パーセント）である。さすがにまだパソコンの方が多いが、ケータイのみでアクセスしている人は前年より300万人増えているのに対して、パソコンのみの利用者は160万人減っている。</p>

<p>　私は2002年以来、携帯電話を身につけて持ち運べる情報端末だと考えて、ＰＨＳも含めて「ケータイ」とカタカナ表記しているが、ここにパソコンからケータイへという情報機器の流れがはっきりと見てとれる。ＮＴＴドコモのｉモードの登場で、ケータイからインターネットにアクセスできるようになったのは1999年2月、ケータイの加入台数が、明治以来、長い年月をかけて全国津々浦々に設置されてきた固定電話を上回ったのが2000年11月である。</p>

<p>　ケータイは、あれよあれよという間に若年層ばかりでなく、女性、中高年層へと普及し、いまや中堅ビジネスマン層も含め、国民すべての人の必需品になっている。同じ総務省調査によると、情報端末の世帯保有率は、ケータイ95パーセント、パソコン85パーセントである。</p>

<p>ケータイというメディア</p>

<p>　ケータイはサイバー空間の人口を飛躍的に増大させたが、パソコンとケータイでは、サイバー空間の見え方もまた変ってくる。そのことでサイバー空間のデザインも変わるし、利用の仕方も変わる。</p>

<p>　パソコンは比較的広い画面を埋めたテキストを一望できるから、どちらかと言うと、従来の書物や新聞などの活字メディアとよく似ている。しかし、ケータイの画面は格段に狭く、その小さな窓を通して文字や写真、映像などの情報をやりとりするから、そこには自ずから一つの制約が生じる。ケータイが音声電話や電子メールを離れて、インターネット・アクセスの手段となるとき、その影響はさらに大きなものになる。</p>

<p>　以前、取り上げたケータイ小説は、まさにこの小さな画面で展開されるドラマであり、メディアの制約が作品にも大きな影響を与えている。全体の流れや文脈よりも、瞬間瞬間のおもしろさや刺激の強さが重視されざるを得ない。これを読んだ読者がすぐ感想を書いてよこすから、それを即座に話の筋に織り込むこともできる。</p>

<p>学校裏サイトをめぐる動き</p>

<p>　内閣府の2007年3月時点の調査によると、ケータイ使用は小学生31パーセント、中学生58パーセント、高校生96パーセントである。これからの子どもたちは、パソコンをパスして、いきなりケータイでサイバー空間にアクセスすることになるだろう。それはサイバー空間の持つ危険を拡大する方向で働く恐れが強い。<br />
　<br />
　いわゆる「学校裏サイト」はその代表で、やりとりされる情報は特定個人への誹謗中傷だったり、子どもたち自身が投稿するポルノ写真だったりするが、それらのサイトにも検索連動型広告が配信されているから、成人が運営するいかがわしいサイトにも簡単にジャンプできるし、援助交際の温床にもなっている。それが親たちの知らないところで蔓延し、学校当局も打つ手がない状況なのである。</p>

<p>　これらのサイトにはパソコンでもアクセスできるが、子どもたちはほとんどケータイを使っており、ケータイでしかアクセスできないサイトもある。ケータイは個人に密着したメディアで、子どもたちがどう利用しているかチェックしにくい。居間に置いておけば、家族の目が何らかの歯止めとして働き得るパソコンとは違う。サイバーリテラシー第2原則は、「サイバー空間は『個』をあぶり出す」だが、学校や家族の目から離れて、サイバー空間で結びついた生徒たちの行動に歯止めをかけるのは難しい。</p>

<p>　子ども同士の「裏」コミュニケーション自体は昔からあることだが、それがケータイというメディアを通して伝播することで、これまでとは比較にならない深刻な問題を提起している。<br />
</p>]]>
</content>
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<entry>
<title>ヘッドハンティングにみる社会の「流動性」と「断絶」（2008/5）</title>
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<modified>2008-06-02T05:22:01Z</modified>
<issued>2008-06-02T05:13:53Z</issued>
<id>tag:www.cyber-literacy.com,2008:/blog//1.123</id>
<created>2008-06-02T05:13:53Z</created>
<summary type="text/plain">　いつの間に世の中はこんなに変わってしまったのかと思うことが多い。前回取り上げた...</summary>
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<dc:subject>雑誌『広報』バックナンバー</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://www.cyber-literacy.com/blog/">
<![CDATA[<p>　いつの間に世の中はこんなに変わってしまったのかと思うことが多い。前回取り上げたケータイ小説に描かれた若者たちの生活実態もそうだが、昨今のヘッドハンティングの隆盛ぶりもその例である。つい20年ほど前まで「日本人は企業にしがみついた『社畜』である」と言われていたのがウソのような社会的流動性の高まりである。</p>]]>
<![CDATA[<p>医者・弁護士・ヘッドハンター</p>

<p>　ひと昔前には、若者は、年長者から「困ったときのために、医者と弁護士を友人に持つように」勧められたものだが、いまはそこにヘッドハンターが加わるらしい。</p>

<p>　「ヘッドハンティング」が、いわゆる「転職」と違う点は、企業の意向を受けたヘッドハンターが、本人の意思とは無関係に有為の人材を発掘し、当該者にアクセス、転職を促すことである。得がたい才能の持ち主であれば、本人がいまの会社に満足しており、転職など考えたことがなくても、ヘッドハンターの標的となる。</p>

<p>　ヘッドハンティング（head hunting）と言えば、会社経営者の一本釣りかと思いがちだが、いまでは中間管理職、あるいは専門職と、裾野は広がるばかりである。ヘッドハンティング会社は、独自の陣容と調査能力を駆使して、各種の人材発掘に乗り出している。若いヘッドハンターの話では、新聞記者のように、夜討ち朝駆けもやるらしい。約束をとりつけて会おうとすれば断られる確率が高いので、ぶっつけ本番で説得に乗り出す。ＩＴ関連、医者専門、自動車業界といった分野を特化したヘッドハンティング会社もある。</p>

<p>　私の周辺にも、会社をめまぐるしく変えて社長業を続けている人や、医者専門のヘッドハンティング業務をしている人がいる。ヘッドハンターに声をかけられたことがあるという20代の友人は「転職する意思とは関係なく、転職サイトへ登録したり、ヘッドハンターと話したりすると、自分を客観的に見られて将来のためになる」と言っていた。ある大学院大学の学生20数人に「ヘッドハンターから声をかけられた人はいるか」と聞いたら、1人が「ある」と答えたが、これからは「ヘッドハンターに声もかけられないようではダメ」と言われるようになるかもしれない。</p>

<p>90年代初頭は「社畜」の時代</p>

<p>　早くは70年代から「転職」が社会的話題になり、生活関連情報誌を次々に発行してきたリクルートは、1975年に転職情報誌『就職情報』（後の『B-ing』）を創刊している。学生援護会から発展したインテリジェンス社が同じく転職情報誌『DODA（デューダ、2007年には誌名を『デューダ』と変えている）』を創刊したのが1989年である（その間に人材派遣業の隆盛など、社会流動性を高める潮流が加速している）。</p>

<p>　これらの転職雑誌は、インターネットの発達とともに、オンラインサービスへと重点を移行、いまでは相当数の就職・転職サイトが存在する。「転職」への社会的抵抗が薄れたのを見計らったように、いかにも欧米流の、ヘッドハンティングという、より積極的な（対面交渉重視の）転職ビジネスが加わったわけである。<br />
　<br />
　ところで、まだ1990年代初頭には、経済評論家の佐高信が、会社に縛られた日本人を「社蓄」と呼んで（家畜からの連想による「社畜」という言葉は佐高の造語ではないらしいが、彼がこの言葉を普及させた）、そこからの脱却を訴えていた。転職はなお大きな社会的潮流にはなっていなかったのである。『デューダ』がオンラインでも情報発信をはじめた1995年（同年はインターネット普及元年とも呼ばれる）が、「社畜脱却」の大きな節目になったと見ていいだろう。<br />
　<br />
新たなタコツボ化の推進</p>

<p>　たしかにインターネットは、社会的流動性を著しく高める役割をした。転職するにしても、雑誌に登録するには手紙か電話をしなければならないが、オンラインなら自宅から簡単に行えるから、内密な話にはうってつけだし、心理的障壁も低い。データをさまざまに検索できるから、求職、求人のつきあわせも容易である。インターネット・ビジネスでもっとも成功したのが、出会い系サイトも含めた人と人とのマッチングだろう。日本人の会社への帰属意識が急速に低下したのは、企業の吸収合併といった社会構造の変化によるところが大きいとしても、転職サイトの隆盛とも無縁ではないだろう。</p>

<p>　その反面で注目すべきなのが、「社会的流動性」の高まりと裏腹の「社会の断絶」現象である。それは、言ってみれば、ヘッドハンティングの対象となる大手企業のビジネスマンやキャリアウーマンの世界と、前回取り上げたケータイ小説で描かれる若者たちの世界の断絶である。2つの世界は、交わることなく同居している。</p>

<p>　サイバーリテラシー3原則の一つ、「サイバー空間には制約がない」で強調したのは、現実世界では歓楽街は川、公園、道路などで文教地区や住宅街から隔てられ、それが一定の行動の歯止めにもなっているが、サイバー空間ではそれらがシームレスにつながっている、ということだった。</p>

<p>　たしかに援助交際少女とエリートビジネスマンは、サイバー空間上でシームレスにつながっており、それぞれのサイトには自由にアクセスできるが、実際には、サイバー空間上で両者が交差することはほどんどない。サイバー空間では、同種の仲間うちの交流は活発化するが、異種の仲間たちとはいよいよ隔絶してしまう。</p>

<p>　両者がさまざまに交差するはずの現実世界のコミュニティは、すでに弱体化している。どちらかと言うと社会を束ねる役割をしてきたマスメディアは、しだいに影響力を低下させ、インターネットというメディアは、新たな社会のタコツボ化を推進している、とも言えるのである。<br />
</p>]]>
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<title>「ケータイ小説」に描かれた「現実」（2008/4）</title>
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<modified>2008-05-08T02:31:33Z</modified>
<issued>2008-04-25T02:00:19Z</issued>
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<summary type="text/plain">　前回、若者のケータイに関して、年齢によってさまざまに区分けされたフィルタリング...</summary>
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<dc:subject>雑誌『広報』バックナンバー</dc:subject>
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<![CDATA[<p>　前回、若者のケータイに関して、年齢によってさまざまに区分けされたフィルタリングを導入するという考えについて述べた。一方、高校生のほぼ全員がケータイをもち、すでに不可欠な道具として活用しており、その現実の中から生まれたのが「ケータイ小説」と呼ばれる一群の創作物である。今回は、このケータイ小説について考えてみよう。</p>

<p>　ケータイ小説は、ケータイという端末で発表され、読まれている小説のことだが、若者、とくに女子中高生の間で人気になり、単行本化されてベストセラーになったり、映画化されてヒットしたりして、ケータイが生み出す一つの文化現象として話題になっている。<br />
</p>]]>
<![CDATA[<p>　読んだことのない人のために、まずその実態を紹介しよう。なかなかすさまじい内容である。</p>

<p>『ＤｅｅｐＬｏｖｅ』と『恋空』</p>

<p>　ケータイ小説の嚆矢と言われる『ＤｅｅｐＬｏｖｅ』は最初、ケータイサイトで無料公開された。高校を落ちこぼれた若い女性が、男友だちと同居しながら、街で知り合った大人と援助交際をして大金を稼いでいる。主人公はある日、傷つけられた犬を飼う老女と知り合い、今度はそこに居候する。老女の遠縁にあたる、不治の心臓病を患う少年と純情な交流がはじまり、彼の手術代を稼ぐために、いよいよ援助交際に励む。稼いだ金は、少年の父親に結局は巻き上げられ、彼から乱暴もされる。少女はエイズにかかって、あっけなく死ぬ。</p>

<p>　すさんだ生活と残虐さの一方で、飼い犬や少年に対する“無垢”な愛が、あまり必然性もなく、ただ乱暴な文章で書き続けられており、ふつうの人はちょっと読む気がしない。それが「純（ピュア）な愛」を描いたものとして、主として女子高校生の人気を呼び、2002年に横書きのまま単行本化されてベストセラーになった。</p>

<p>　映画にもなり、上下2冊本で約200万部を売り、世に「ケータイ小説」を広めるきっかけになったのが『恋空』である。描かれているのは、高校という教育現場でのセックスであり、複雑な相姦関係をめぐる暴力、集団リンチ、妊娠、流産、さらにはシンナー吸引など、これまたきわめてすさんだ生活である。物語には、親や教師など大人も登場するが、背後の点景として描かれているだけで、まったく存在感はない。</p>

<p>　主人公の女生徒は高校1年で男ともだちとつきあい妊娠するが、彼を横恋慕する女友だちに乱暴を受けて流産してしまう。彼女は恋人から突然、別離を告げられるが、がんに侵されているために交際を断ったという事実が後にわかり、彼女は新たな恋人と別れて、彼のところに戻っていく。しかし結局、彼は死んでしまう。</p>

<p>描かれた世界は、彼らの「現実」</p>

<p>　前者は、ケータイというメディアに関心をもった中年男性の手になる創作、後者は、若い女性が自分の経験を書いたと言われている。現在のケータイ小説は、後者の系列につらなるもので、若い女性が自分の経験を綴った体裁をとるものが多い。ケータイ小説投稿サイトが、ケータイ、パソコン問わず、いくつも公開され、多くの作品が発表されている。大手新聞社も主催者に連なった「日本ケータイ小説大賞」が設けられ、2008年1月には米ニューヨークタイムズ紙が紹介するなど、ケータイ小説をめぐる論評も盛んである。</p>

<p>　ケータイ小説の質的問題については、ここではふれない。私が興味深いと思うのは、現在の若者たちにとって、ここで取り上げられている出来事や心象風景が、決して他人事ではないということである。自分も同じような経験をしているか、そうでなくても、周囲によく似た状況がある（彼らがまったく勉強していないのも驚きだが、実際、そうだろう）。</p>

<p>　いち早くケータイ小説に注目し、『ＤｅｅｐＬｏｖｅ』、『恋空』の2著を刊行したスターツ出版の編集責任者の話によると、『ＤｅｅｐＬｏｖｅ』の作者は、単行本化の計画をいくつかの出版社から断られた。そこでケータイサイトを通じて販売したところ、なんと10万部の注文があった。読者からの反響メールはほとんど「共感の嵐」で、「援助交際をやめます」とか、「これを読んでリストカットをやめました」といった声も多かったらしい。筋にはたしかに抵抗があったが、これだけ読者に響くコンテンツはないというのが、同社が『ＤｅｅｐＬｏｖｅ』出版に踏み切った理由だったようだ。</p>

<p>　いま、社会の二極化が言われるけれど、ケータイ小説があぶり出しているのは、たしかに、その一方の現実だろう。彼らは自分たちのある種の叫びを、寝床の布団の中で泣きながら、親指入力で書きつけ、あるいはそれを読んでいる。多くが小説を読んだことも、ましてや書いたこともないような若者たちである。</p>

<p>　いまのケータイ小説の走りともなった『天使がくれたもの』（作者は女子高生、やはりスターツ出版刊）を同社が刊行したきっかけも、女子高校生からの編集部への電話だった。彼女は「ぜひ本にしてほしい。本にしてくれたら、私のクラス全員が買います」と涙ながらに訴えたという。<br />
　<br />
　いまのケータイ小説には、もはや初期の激しさはなくなっているようだが、ケータイ小説が鬱積した社会の叫びを示したことは間違いないし、これを無視することもできない。それは、私たちが生み出した、まさに社会の現実である。</p>

<p>フィルタリング問題の難しさ</p>

<p>　ケータイというツールの青少年への悪影響については、私は、大いに懸念する側の人間である。子どもたちはサイバー空間に入り込む以前に、現実世界のさまざまな肉体的なコミュニケーションを通じて学ぶことが、社会の健全な発達のために好ましい。一方で、すでにケータイが若者の間で、大人とは違う形で使われている事実も無視できない。それがケータイ小説という特異な表現物を生んだ。これらの作品を未成年者が見られないようにするのがいいのかどうかは、それこそ周知をあげて考えるべき問題である（1）。</p>

<p>＜注＞<br />
（1）その点でも、ケータイやパソコンのフィルタリングを未成年者として一括するのではなく、とりあえず18歳未満、15歳未満の2段階で考えることが現実的だと思われる。前回にもふれた「サイバー元服」に関しては、矢野直明・林紘一郎著<a href="http://www.the-naguri.com/nakama/nakama16.html">『倫理と法―情報社会のリテラシー』（産業図書、2008）</a>を参照してほしい。<br />
</p>]]>
</content>
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<title>恒例・源氏山大花見宴</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.cyber-literacy.com/blog/archives/2008/03/post_36.html" />
<modified>2008-03-29T07:47:31Z</modified>
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<summary type="text/plain">　突然のお知らせですが、恒例の源氏山大花見宴を、明日30日昼前から夕方まで行いま...</summary>
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<dc:subject>折々の記</dc:subject>
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<![CDATA[<p>　突然のお知らせですが、恒例の源氏山大花見宴を、明日30日昼前から夕方まで行います。以前、参加したことのある方、あるいは鎌倉近辺にお住まいで、参加してみたい方は、info@cyber-literacy.comまでご連絡ください。</p>

<p>　詳しいご案内をさし上げます。毎年100人近くが集まる、ちょっと派手なお花見です。</p>]]>

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<title>フィルタリングは、子どもを有害情報から隔離するのが先決（2008/3）</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.cyber-literacy.com/blog/archives/2008/03/20083.html" />
<modified>2008-05-08T02:35:00Z</modified>
<issued>2008-03-29T07:27:30Z</issued>
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<summary type="text/plain">　小中学生を含めた未成年者のケータイ所有が広がるにつれて、大人がつくった有害情報...</summary>
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<dc:subject>雑誌『広報』バックナンバー</dc:subject>
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<![CDATA[<p>　小中学生を含めた未成年者のケータイ所有が広がるにつれて、大人がつくった有害情報ばかりでなく、子ども同士のコミュニケーションサイトによるトラブルも増えている。これを受けて総務省はケータイ業者に対して、未成年者が利用するケータイに原則としてフィルタリングを導入するよう要請したが、そのフィルタリングの方法をめぐって議論が起こっている。</p>]]>
<![CDATA[<p>小学3年生で34％が所持</p>

<p>　子ども向けポータルサイト「キッズgoo」が2007年11月に行ったアンケート調査によると、自分専用のケータイを持っている小学生が34％いる。子どもが自分で欲しがるより、親が塾通いなどを理由に与えているケースが多く、3年生から持ち始める生徒が急増、6年生になると40％を超えている。また、2007年12月に内閣府が発表した調査結果によると、ケータイの使用率は小学生31％、中学生58％、高校生96％となっており、そのほとんどがインターネットにアクセスしている。</p>

<p>　ケータイの普及につれて、子どもが出会い系サイトに巻き込まれたり、不用意にアクセスしたサイトから法外な料金を請求されたり、また俗に「学校裏サイト」と呼ばれる、子ども同士のコミュニケーションサイトで誹謗中傷合戦が行われたりと、ケータイをめぐるトラブルはすでに社会問題化していると言っていい。</p>

<p>　このため総務省は2007年暮れ、NTTドコモ、KDDI、ソフトバンクモバイル、ウィルコム、電気通信事業者協会に対して、18歳未満のケータイ利用者に対して、新規契約と既存契約を問わず、フィルタリング導入を原則とし、これを望まない者に対しては親の意思を確認するよう要請した。</p>

<p>　フィルタリングというのは、見たくない、あるいは未成年者などに見せたくない情報を遮断するためのソフトで、子どもが個人情報を無造作に外部に漏らそうとするのを止める機能もある。また企業が仕事中の従業員のインターネット・アクセスを制限するためにも使われている。フィルタリング・ソフト（サービス）は、パソコンでは早くから導入されていたが、ケータイは言わば野放し状態だった。</p>

<p>フィルタリング方法に異議</p>

<p>　フィルタリングには2つの方式がある。見たいサイトだけリストアップして閲覧できるようにし、それ以外はシャットアウトするのがホワイト・リスト方式、逆に、見せたくないサイトを選んでこれをブロックするのがブラック・リスト方式である。ケータイ各社はそれぞれの対策を打ち出し、ホワイトの例もあるし、ブラックの例もある。</p>

<p>　ところで、総務省はこのホワイト方式に対して異議を唱えているらしい（「<a href="http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0801/29/news113.html">携帯フィルタリング、総務省が“過剰規制”に『待った』</a>」）。ケータイ会社によっては、自社の公式サイトだけを閲覧できるようにし、他の一般サイトにはアクセスさせないようにしている例があり、これは、優良な一般サイトまで排除することになり、コンテンツ市場をゆがめる恐れがあるからだという。</p>

<p>　ケータイ会社ごとにリストアップされたサイトが違えば、ユーザーはそれを自由に選べばいいわけで、有害コンテンツから青少年を隔離するためには、リストから漏れたサイトが紛れ込んでくる恐れのあるブラック方式よりも、ホワイト方式の方がより確実だと言える。もちろん、ブラック方式はダメだと言うわけでもない。</p>

<p>　ホワイト方式ではコンテンツ市場の健全な育成が阻害されるという考えの裏には、青少年向けのコンテンツ制限と、産業政策の混同がある（成人はフィルタリングを導入する必要もない）。中途半端なフィルタリングのために、有害サイトへのアクセス制限が不十分になることをこそ警戒すべきではないだろうか。<br />
　パソコンも、ケータイも、そこで流れるコンテンツは千差万別で、成人はそれを自らの判断で取捨選択できるとしても、まだ人生経験の少ない、これから社会常識を学んでいく子どもたちが、その洪水に無造作に放り込まれるのは危険である。フィルタリングがその有効な方法であることは間違いないが、日本でのフィルタリング導入の実績は低い。親の無自覚が大きな原因で、だから総務省が青少年へのフィルタリング導入を求めるのは時宜を得ていると言えよう。</p>

<p>「サイバー元服」という考え方</p>

<p>　私は、<a href="http://www.the-naguri.com/nakama/nakama16.html">『倫理と法―情報社会のリテラシー』（共著、産業図書）</a>で、子どものケータイ利用やインターネット・アクセスに関して、何らかの年齢制限をする社会的合意が必要な時期に来ているのではないかと提言、かつて子どもが大人になる過程で通過した「元服」になぞられて、これを「サイバー元服」と呼んでいる。</p>

<p>　子どもたちはこれまで、親や兄弟、親戚、地域の人びと、先生など、「現実世界」の対面コミュニケーションを通じて、社会に出て守るべきこと、やってはいけないことを学んできた。いまは家族やコミュニティの束縛は緩み、教育（ごくふつうのしつけ）も不十分で、子どもたちはいきなりインターネットを通じて「サイバー空間」と接触、自分たちだけの世界に入り込む。子どもたちは大人の常識とは掛け離れた世界を築きつつあり、それがさまざまなトラブルを招来するとともに、大袈裟に言えば、社会の仕組みそのものが壊れつつある。</p>

<p>　ウエブ上には、未成年者へのケータイ・フィルタリングという総務省の政策自体を、ケータイという「ソーシャルメディア」の重要な一角を占める中高生を締め出すことで、メディア発展を妨げ、ひいては国際競争力も低下させるといった意見も掲載されていたけれど（<a href="http://it.nikkei.co.jp/internet/column/mediabiz.aspx?n=MMIT12000025122007">岸博幸「未成年者携帯フィルタリングという『愚策』」</a>など）、子どもへのフィルタリング問題は、産業育成政策から切り離して、もっと真剣に論ずべきだろう。</p>

<p>　そうすれば、高校生にはブラックリスト方式、小中学生には、より完璧なホワイト・リスト方式といったように、年齢で切り分けるなど、きめ細かなフィルタリング対策が可能だと思われる。</p>]]>
</content>
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<title>ウエブ・リニューアルとブログ再開</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.cyber-literacy.com/blog/archives/2008/03/post_35.html" />
<modified>2008-05-08T02:36:33Z</modified>
<issued>2008-03-09T07:36:55Z</issued>
<id>tag:www.cyber-literacy.com,2008:/blog//1.119</id>
<created>2008-03-09T07:36:55Z</created>
<summary type="text/plain">　春です。 　長い間、冬眠状態にあったウエブ（ホームページ）をこのほどリニューア...</summary>
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<email>yano@cyber-literacy.com</email>
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<dc:subject>折々の記</dc:subject>
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<![CDATA[<p>　春です。<br />
　長い間、冬眠状態にあったウエブ（ホームページ）をこのほどリニューアル、あわせて1年半余も休んでいたブログも再開することにしました。<br />
</p>]]>
<![CDATA[<p>　この間の経過を少し説明しておきます。</p>

<p>　＜1＞サイバー大学</p>

<p>　2007年4月からサイバー大学でバーチャルな教壇に立っています。いまのところ講義「サイバーリテラシー概論」と演習「情報社会の生き方と情報倫理」の2科目を担当していますが、3年次からは講義「通信と放送融合時代のジャーナリズム」、演習「情報編集の技術」、講義「情報文化論」、演習「IT社会と子どもたち」も開講します。「サイバーリテラシー」をバックボーンに、IT社会が抱えるさまざまな問題を考えていきます。</p>

<p>　サイバー大学の現状は雑誌『広報』の連載でも<a href="http://www.cyber-literacy.com/blog/archives/2008/03/220081.html">紹介</a>していますが、学生に社会人が多く、学習意欲は旺盛です。私の講義にも熱心に耳を傾けてくれます。サイバーリテラシーという考え方が、徐々に世間に浸透していくさまを実感できるのは嬉しいことです。これからは、このブログを読んでくれる学生も増えるだろうと、勝手に期待しています（コメントなど歓迎します）。</p>

<p>＜2＞『サイバーリテラシー概論』</p>

<p>　2007年暮れに<a href="http://www.the-naguri.com/nakama/nakama15.html">『サイバーリテラシー概論』</a>を刊行しました。8年余の成果で、サイバー大学の授業の教科書でもあります。IT社会のあり方に関心をお持ちの多くの方に読んでいただき、感想などをいただけるとたいへん嬉しいです。<br />
 <br />
＜3＞『倫理と法―情報社会のリテラシー』</p>

<p>　情報セキュリティ大学院大学で、林紘一郎副学長（教授）のお手伝いをしている「セキュアな法制と情報倫理」が、「情報セキュリティ・スペシャリスト」養成のコア科目として文科省の大型助成を受けることになりました。その教科書、<a href="http://www.the-naguri.com/nakama/nakama16.html">矢野直明・林紘一郎『倫理と法―情報社会のリテラシー』（産業図書）</a>も4月上旬に発売されます。</p>

<p>　情報をめぐる具体的な問題をケース・メソッドの手法で解説したもので、これを通じてIT社会の生き方に対する社会的合意を築き上げられればと思っています。こちらも感想をお送りください。本にも書きましたが、いずれウエブ上に「倫理と法」をめぐる意見交換の場を作り上げたいと思っています。<br />
 <br />
</p>]]>
</content>
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<title>任天堂の新型ゲーム機「Wii」（2008/2）</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.cyber-literacy.com/blog/archives/2008/03/wii.html" />
<modified>2008-03-09T07:36:43Z</modified>
<issued>2008-03-09T07:21:21Z</issued>
<id>tag:www.cyber-literacy.com,2008:/blog//1.118</id>
<created>2008-03-09T07:21:21Z</created>
<summary type="text/plain">　正月休みに帰省した息子家族が、いま人気の任天堂の新型ゲーム機「Ｗｉｉ（ウイー）...</summary>
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<email>yano@cyber-literacy.com</email>
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<dc:subject>雑誌『広報』バックナンバー</dc:subject>
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<![CDATA[<p>　正月休みに帰省した息子家族が、いま人気の任天堂の新型ゲーム機「Ｗｉｉ（ウイー）」を持ってきた。平たいバランスボードに乗ってゲームする「ＷｉｉＦｉｔ（ウイーフィット）」も発売されたばかりで、「ついでにフィットも買おう」と、30日夜にアマゾンで注文したら、大晦日の31日夜に、予定通り配達されてきた。今年の年末年始はウイーモードの家族団欒となり、年越しそばも食べずに終わった。</p>]]>
<![CDATA[<p>テレビ画面に向かってテニス</p>

<p>　ウィーは任天堂が2006年暮れに売り出したゲーム機で、本体をテレビと接続し、テレビ画面の上にセンサーを取り付ける。手に持ったコントローラ（リモコン）を前後左右に振ったり、ねじったりすると（要は、振りまわすと）、体の動きが無線を通じて画面（コンピュータ）に伝えられる（コントローラにはボタンもついており、場合によってはそれも操作する）。</p>

<p>　テニスゲームを例にとって説明しよう。ソフトを起動させると、画面上のテニスコートにダブルスのプレイヤー4人が現れる。その中の1人を自分のアバター（あらかじめ名前や顔などを入力しておく）に変え、コントローラをラケットの柄に見立てて、上から振り下ろしてサービス、ゲーム開始である。</p>

<p>　コントローラに与えるひねりやスピード、ボールとの接触タイミングなどがコンピュータに伝えられ、ボールはそれに応じた軌跡を描くので、実際のテニスをやっている気分になる。スライスもスピンもかけられるし、ロブも上げられる。どういう仕掛けかよくわからないが、うまいタイミングでサービスすると、弾丸サーブが飛んでいき、サービスエースもとれる。</p>

<p>　プレイヤーを2人にすれば、恋人や家族といっしょにダブルスを楽しめる。あくまで擬似体験ではあるが、思わず前に駆け込んだり、しゃがんだりするから、けっこう運動になる。ゲームといえば、小さな部屋に閉じこもり、1人でただひたすら打ち込むというイメージが強かったが、こちらは大きなジェスチャーでボールを追っかけたり、「ヤッター」と叫んだりして、なかなか「健康的」である。回りで見ていてもけっこう楽しく、「今度は自分の番」だと乗り出してくるから、たしかに立派な家族団欒になる。</p>

<p>「肉体の動き」取り込みがカギ</p>

<p>　ウイーフィットの方は、タレントを使った派手な宣伝が展開中だからご存知の方も多いだろうが、体重計のような平たいボード（コントローラ）にいろんな圧力センサーがついており、その上に乗ると体重移動などの情報が画面に伝えられる。最初に体のバランスをとるテストがあり、日々の体重なども計測して記録してくれるから、これは簡易健康機器でもある（実際、「健康管理ソフト」が用意されている）。ボード上で体重操作しながらヨガやエアロビクスのこれまた疑似体験を楽しめる。</p>

<p>　コンピュータ・ゲームも、1人でやるものから複数で楽しむものに変って来ている。これまでのゲーム機は主として手による入力だったが、ウイーは体全体を使う。だから、女性や年長者などもゲームを楽しむようになり、ゲーム機人口は拡大した。</p>

<p>　ゲームという概念そのものが変ってきたと言っていい。ゲーム機は、いよいよ「サイバー空間」のプラットホームになりつつある。この点について、いくつか思いつくことを書いておこう。<br />
　<br />
　①ウイーを使えば、テレビ画面でメールのやりとりもできるし、オンラインショッピングもできる。いろんなニュースも見られる。言い方を変えると、ウイーによって、テレビはパソコンになった。しかも、操作はパソコンよりはるかに楽である。<br />
　<br />
　②コンピュータとのコミュニケーションは、これまでほとんど文字だった。パソコンやケータイを使ったメールや掲示板の書き込みがそうであり、文字だけのコミュニケーションからくる制約が、誹謗中傷やフレーム合戦などの弊害も生んできた。「なりすまし」なども容易だった。デジタルカメラなどの普及で写真が使われるようになり、ユーチューブなどの動画配信サイトの登場で、コミュニケーションの道具はどんどん多彩になっている。ウイーは体の動きそのものを、新たに取り入れたわけである。</p>

<p>　③ウイーをネットワークで結べは、画面を通して、遠く離れた友人とテニスを楽しむこともできるだろう。日米に別れて住む仲のよい夫婦同士が、週末にテニス試合を楽しむこともできる。我が家でゲーム中に、テニスに熱中した妻が、「壁かけふうの大型テレビを買おうよ」と叫んだが、テレビ画面は完全にゲームのディスプレイ化するかもしれない。</p>

<p>　④連載第4回で説明した<a href="http://www.cyber-literacy.com/ja/principle/index.html">サイバーリテラシー3原則</a>は、①サイバー空間には制約がない、②サイバー空間は忘れない、③サイバー空間は「個」をあぶりだす、だった。これは現在のサイバー空間の特質だが、ウイーの登場は、サイバー空間のあり方を大きく変える可能性がある。体の動きを取り入れことは、肉体のもつ具体的な制約がサイバー空間のコミュニケーションに反映されざるを得ないことを意味する。これは、「サイバー空間」のあり方を、いい方へ大きく変えていくかもしれない。サイバー空間と現実世界のほどよい共存をはかろうというサイバーリテラシーの考え方に、少なからぬ示唆を与えているように思われる。</p>

<p>任天堂の破竹の進撃</p>

<p>　任天堂が「ファミリーコンピュータ」の発売で、いわゆる「ファミコン」ブームを巻き起こしたが1983年である。その後、激しいゲーム機競争の中で紆余曲折はあったものの、2004年暮れにタッチスクリーン方式のゲーム機「ニンテンドーＤＳ」を発売、華麗に復活した。「脳を鍛える大人のＤＳトレーニング」、「漢字検定」といったソフトに象徴されるように、ゲーム機人口拡大作戦の始動である。ウイーの国内売り上げは、2007年末で累計460万台（ゲーム機シェアの七割近い）。全世界では1500万台も売れているらしい。</p>

<p>　「2007年の世界の時価総額ランキング」によれば（1）、任天堂の時価総額は世界88位。日本ではトヨタ自動車、三菱ＵＦＪフィナンシャル・グループという自動車、銀行という大手企業に続いて、堂々3位である。ウイーの開発コードは「レボリューション（革命）」だったらしいが、この会社がゲーム機を武器に切り拓く「サイバー空間」の今後に期待したい。　</p>

<p>注（1）日本経済新聞2008年1月13日付。<br />
</p>]]>
</content>
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<title>開校2年目を迎えるサイバー大学（2008/1） </title>
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<modified>2008-03-09T08:27:13Z</modified>
<issued>2008-03-09T07:05:11Z</issued>
<id>tag:www.cyber-literacy.com,2008:/blog//1.117</id>
<created>2008-03-09T07:05:11Z</created>
<summary type="text/plain">　2007年4月に開校したサイバー大学（吉村作治学長）は、初めての株式会社立大学...</summary>
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<name>yano</name>
<url>http://www.cyber-literacy.com/</url>
<email>yano@cyber-literacy.com</email>
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<dc:subject>雑誌『広報』バックナンバー</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://www.cyber-literacy.com/blog/">
<![CDATA[<p>　2007年4月に開校した<a href="http://www.cyber-u.ac.jp/">サイバー大学</a>（吉村作治学長）は、初めての株式会社立大学であると同時に、本格的にｅラーニングを取り入れた「キャンパスのない大学」である。実は、私もその教授陣の一人として、新しい教育実践に取り組んでいる。年の初めのくつろいだ話題として、新しい「学びのスタイル」の実態を報告しよう。</p>]]>
<![CDATA[<p>生徒の半数以上が社会人</p>

<p>　サイバー大学は、だれもが（高校卒業資格は必要）インターネットを通じて学べ、卒業すれば、ふつうの大学と同じ学士の資格を得られるが、興味のある講座だけを履修する制度もある。春秋の2学期制で、秋からでも参加できる。</p>

<p>　初年度の正科生600人強のうち半数以上が社会人で、後は高校卒業者、定年退職者、主婦といった構成になっている。年齢的には20代～30代で4分の3近くを占めるが、10代も、60代以上の人もいる。首都圏の人が3分の1強だが、事務局を福岡に置いている関係で、九州の人が4分の1いる（それぞれの構成比グラフは、サイバー大学<a href="http://www.cyber-u.ac.jp/campus/aspect/curriculum.html">ホームページ</a>から）。<br />
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世界遺産学部とＩＴ総合学部　</p>

<p>　世界遺産学部とＩＴ総合学部の2部があり、私の所属するのはＩＴ総合学部（石田晴久学部長）で、「サイバーリテラシーと情報倫理」という通しテーマの講義をもっている。「朋あり、遠方より来る、サイバー大学でサイバーリテラシーを学ぶ、また楽しからずや」というのがキャッチコピーである（笑）。ここでは、ＩＴ総合学部から見たサイバー大学の姿を報告しよう。</p>

<p>　授業は、あらかじめ作られた教材を、インターネットを通じて見る形で進められる。この点は放送大学と似ているけれど、パソコンとブロードバンドの環境さえあれば、どこからでも、いつでも（深夜でも）、授業に参加でき、重要なテキストは主としてパワーポイントファイルで提示される。対面的なコミュニケーションが不足しがちなのを補うために、教師が質問に答えるＱ＆Ａコーナー、受講生同士が議論するディベート・ルームなどインタラクティブ（双方向的）な工夫がいろいろ試みられている。コミュニケーション広場のＳＮＳ（ソーシャル・ネットワーキング・サービス）では、学生同士が講義や趣味などで楽しく話し合っている。暮れは忘年会のお誘いなどでにぎやかだった。<br />
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高い学習意欲に驚く<br />
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　ＩＴ総合学部の講義科目は、「パソコンの歴史」、「ソフトウエア概論」、「楽しい数学」、「プロジェクトマネジメント」、「情報セキュリティ」、「ＩＴビジネス経営論」、「起業」など、「最先端の情報技術を総合的にとらえ、技術の研究教育と、それをビジネスに活かせる人材の育成を目的」としたカリキュラムが組まれている。</p>

<p>　ふつうの（リアルな）大学と違って、いったん社会に出た後に、プログラムやセキュリティなどの実務知識を得てスキルアップをはかりたい人や、自分が生きているＩＴ社会について広い視野をもちたいと思う人が入ってきており、その学習意欲の高さは驚くほどである。仕事が忙しくなると、どうしても土、日の休暇を割いて授業を聞いたり、レポートを書いたりしなくてはならないけれど、目を真っ赤にして（？）取り組んでいる（ようだ）。<br />
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　たとえば私の「ＩＴ社会の生き方と情報倫理」という講義の場合、20分ほど「情報を盗むこと」、「なぜケータイではドタキャンしやすいか」、「個人情報の『過』保護について」、「企業モラルの崩壊」などの具体的テーマについて、若干の事例や考え方のヒントを講義したあと、レポートを書いてもらっているが、この提出率が、秋学期の場合で、毎回80パーセントある。ふつうの大学ではちょっと考えられないほどの高率ではないだろうか。他の人の授業でも、おしなべて出席率が高く、中には100パーセント出席という講義もあるとか。</p>

<p>　春学期の演習の最後に授業の感想を書いてもらったら、多くの人が、「社会に出てから、こんなに考える経験をしたことがなかった」、「自分の頭で考え、それを文章にすることの大切さを知った」、「最初はついていくのが大変だったが、だんだんレポートを書くのが楽しくなった」という、これも、教師冥利につきる感想を送ってくれた。</p>

<p>　年齢や職業が違う人たちがともに学ぶ、というのも、いい効果を上げているようだ。ｅラーニングは、一般の大学でも効果的な教育手段として使われているが、サイバー大学では、講座を大学外に公開したり、今年暮からはケータイでもアクセスできる「ケータイ・キャンパス」をオープンしたり、さらに新しい試みに挑戦している。</p>

<p>　インターネットの普及で、学びのスタイルもこれからだいぶ変わりそうである。<br />
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<title>日経社員のインサイダー取引と「情報倫理」</title>
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<modified>2006-10-19T17:47:29Z</modified>
<issued>2006-07-26T09:58:22Z</issued>
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<summary type="text/plain">日本経済新聞社の広告局員による株のインサイダー取引もまた、紙に書かれていた情報が...</summary>
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<name>yano</name>
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<dc:subject>サイバーリアル・イズム</dc:subject>
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<![CDATA[<p>日本経済新聞社の広告局員による株のインサイダー取引もまた、紙に書かれていた情報がデジタル化された途端にどのような結果をもたらすか、ということに対する無知に起因している。「サイバーリテラシーと情報倫理」の重要性をあらためて痛感せざるを得ない。</p>]]>
<![CDATA[<p>これまでなら、株式分割に関する「法定公告」掲載スケジュールは限られた枚数の紙に書かれ、数人の担当者だけが見る状況下で管理されていたはずである。そして担当者には、当然の結果として、仕事に対する「使命感」も「倫理」も備わっていた。そうでなくても、関係者の数が少なく、犯行は容易に突き止められるという現実的な事情が犯罪抑止力として働くこともあっただろう。職場にいながらにして株取引を行うこと自体が不可能だった。</p>

<p>アナログの時代では、情報の形態およびその環境がもつ制約（ある意味では不便さ）が自ずからなる秩序を形成し、行動の歯止めにもなっていた。紙に書かれた「法定公告」掲載スケジュールは、それほど厳重には保管されてなく、たとえ部屋に鍵がかかっていなくても、部外者が立ち入るのははばかられるといった状況が一種の鍵の役割を果たしていたわけである。</p>

<p>情報はデジタル化されると、多くの人に見られるものになるし、コピーも容易になる。その情報を管理するためのアクセス制御が、日本経済新聞社ではきわめて杜撰だったらしい。同じような仕事をする人たちが共用パスワードを利用し、しかもパスワードは変更されておらず、担当をすでに外れた人間もアクセスできたという。新聞報道によれば、アクセス可能な人は100人程度だったとか。</p>

<p>今回逮捕された社員自身、法定公告の担当ではなかった。当然、当人のモラルは低いだろうし、多人数の中では犯行が見つかる可能性が低いという事情が、会社のパソコンを使って「ゲーム感覚」で株取引をする犯罪に結びついた（社内での監視はくぐり抜けたが、証券取引等監視委員会のチェックに引っかかった）。</p>

<p>この「軽さ」の、重い意味について考えるべきである。</p>

<p>もちろんコンピュータの広告管理システムの改善は不可欠である。しかし、システムを直せばいいというだけの問題でもない。みずほ証券社員の株誤発注事件でもシステムの欠陥が指摘されたし、ほかにも同種の事例は多数存在する。</p>

<p>問題は便利なデジタル情報が反面でもつ危険性についての認識が、多くの人びとになお薄いことである。そこでは、従来の紙の世界の常識では考えられないような倫理的な空白が生じる。これを埋めるのが「情報倫理」である。すなわち私が言う情報倫理とは、情報のデジタル化が引き起こす問題に有効に対応するための課題を探ることである。</p>

<p>適正なシステムの構築（制度設計）や一定の基準としてのルールづくり、あるいは強制的な法の整備が必要なのは言うまでもないが、それらの法やルールの底に一定の倫理的な社会的合意がなければ、この種の犯行は決して防げないだろう。</p>

<p>社員による不祥事を報じる7月26日付日経新聞社説は「言論報道機関に働く者の使命感が欠落していた。極めて遺憾である。なぜこうも倫理観なき社員を生んだのか深刻に反省しなければならない」と書いているが、もちろんこれは社員だけの問題ではない。システムを構築した技術者も、その管理者も、首脳陣も含めて考えるべきことだろうが、これは何も日経新聞だけの問題でもない。</p>

<p>もちろん倫理は多様であり、個人差もあり、あいまいでもある。そのあいまいさを利用して上から一定の倫理を推しつけようとする動きもあり、扱うのはなかなか難しいが、と言って、社会全体の倫理的素養がどんどん希薄化している現状を無視することもできない。</p>

<p>この点に関して、最近の具体的な事例で考えてみよう。<br />
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＜責任をとらなくても誰にも分からない態勢＞<br />
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トーマス・フリードマンの<a href="http://www.cyber-literacy.com/blog/archives/2006/07/post_34.html#more">『フラット化する世界』</a>紹介でふれたデルコンピュータ、テクニカルサポートセンターに関する体験だが、結局、最初に応答に出た女性は名乗り出なかったらしく、あとから変わった男性が経過報告の電話をくれた。</p>

<p>先の女性は客との応答中に電話が切れたことをなぜ誰にも連絡しないのだろうか。本来なら、客との応答記録はイントラネットのメーリングリストに残るはずだが、それもないらしい。客が自分の名前を記憶していないのなら放っておこうということだったかもしれないし、面倒だからと、じつは最初から意図的に電話を切ったのかもしれない。</p>

<p>一つの部屋で仕事をしているのなら、自分の方から切れた客の問い合わせ電話をそのまま放置するようなことはまず起こらない。かつては規則があるから、あるいは法で禁じられているから「マナー」を守ったのではなく、上司の指導や仕事をめぐる仲間との話し合いなど日常的な作業やふれあいを通じて、自然に一定のルール、ある種の「倫理」が築かれていたのである。いまや客の電話に、川崎と中国・大連のコールセンターでアトランダムに対応する時代である。仲間うちの連絡をとりもつのはイントラネットだけであり、そこから何らかのモラルが立ち上がってくる余地はまったくない。上司の目が行きわたることはシステム上もはやあり得ず、無責任ですませる環境が整いすぎていると言えよう。</p>

<p>＜社会から倫理がどんどん消えていく＞ <br />
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福井俊彦日銀総裁はなぜ金融政策の要の地位に就任するとき、村上ファンドへの1000万円投資を引き上げなかったのか。それをとくだん問題だと思っていないように見受けられる、その後の本人の対応もまた奇妙である。</p>

<p>この投資は、村上世彰代表がインサイダー取引で逮捕されたから問題だというよりも、「通貨の番人」が数年で2倍超になるような投資をすることが適当かどうか、という自律的な倫理の問題である。福井総裁はこの件が明るみに出たとき、国会答弁で「世間を騒がせた」ことを陳謝したが、辞任する意思は示さなかった。同総裁は何社かの株も保有していたが、金融政策の舵取り役という公務と私的な投資が、彼の内で矛盾なく同居している（経済記者でも株取引はしないよう自粛しているのがふつうなのに、である。ちなみに、コメディアンの萩本欽一氏は監督をつとめる球団仲間の不祥事を聞いたとき、発作的に「球団をやめる」と言った。後に翻意を促す声に押されて、決定を取り消したけれど、最初の即席会見で「野球に失礼してしまった」と言ったのが印象的だった。彼は「山本のために、いっしょに謝ってやるしか何もできない」とか「茨城のみんな、ごめんなさい」とも言っていた。もはや彼だけの球団ではないという筋論はともかく、その会見はすがすがしかった。福井総裁の口から「金融政策に失礼しちゃった」とか「国民のみなさん、ごめんなさい」と言った言葉が出るとはとても思えない）。</p>

<p>事件の報道では、問題は金融政策をあずかる日銀総裁の個人金融資産について情報開示義務がない「ルール」の欠如が指摘され、だから金融市場に大きな影響力を持つ日銀総裁に関しては閣僚並みの資産公開を義務づけるべきだ、といった議論が展開された。村上ファンドの証券取引法違反にいたる一連の活動についても、法の不備が指摘されている。</p>

<p>福井総裁は「金融政策に影響すると言われても、決定は合議で行われるものだ」とか「私は若い人の見方をする気持ちを忘れないようにしたい」と、強弁ともすりかえともとれる発言をしたが、そのような態度に「ルールがなかったのだからしょうがない」、「早くルールをつくるべきだ」といった対応をすることは、敵に塩を送ることと変わらない。</p>

<p>法やルールには通奏低音としての倫理が不可欠である。倫理を捨象したルールづくりは、ルールがなければ何をしてもいいという考えに容易に結びつく。しかも法整備やルールづくりはどうしても後手に回るもので、多くの企業や個人が、その間隙をぬって巨利を得ようと手ぐすね引いているのが、むしろ現状である。いまの若者は倫理的な素地がまるでないから、ルールをつくって管理するしかないといった管理工学的な考えそのものが、人びとから倫理的な生き方を奪っていく。<br />
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