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<title>サイバー閑話</title>
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<title>主婦のけちけち作戦がデフレに拍車?!（10/6）</title>
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<dc:subject>雑誌『広報』バックナンバー</dc:subject>
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<![CDATA[<p>　スーパーなどの特売情報が一覧できるサイトがある。かつて節約をめざす主婦が頼りにしたのは新聞に折り込まれてくる商店のチラシだった。いくつかの安売り情報を眺めながら、目玉商品めがけて殺到したわけだが、今はそれらのチラシを見た主婦がデータを日々、ウエブ上のサイトに入力している。それをケータイで確認した主婦たちが、自転車や車でいくつかの店を回り、特売品を買っていく。</p>]]>
<![CDATA[<p>　インターネット第2世代としてのWeb2.0が話題になったとき、さかんに言われたのが「ユーザー参加型メディア」ということだった。特売情報サイトは、まさに主婦参加型メディアの典型だが、新聞チラシと違って、カバーする店舗が広範囲に及ぶことや、他の店との価格比較が容易にできるという便利さが、また別の問題を生んでいる。</p>

<p>７万人の主婦パワー</p>

<p>　オンラインのCNNニュースに今年4月、「日本の主婦がデフレ傾向に拍車をかけている」というタイトルの記事が出ていた。「7万人の主婦が食料雑貨品の価格を提供する<a href="http://www.navit-tokubai.jp/">『毎日特売』</a>というサイトのメンバーになっており、2万5千人の主婦が、地域特派員として、毎日の安売り情報をネットにアップしている。そのデータをケータイでチェックしながら多くの主婦が安売り商品に殺到しており、店舗側は『こういうことをされると、価格はどうしても安い方に流れざるを得ない』と困惑している」といった内容だった。</p>

<p>　記事によれば、日本が不景気になってからサイト利用者は20パーセント増えたという。また日本チェーンストア協会の話として、「スーパーの価格はこの13年間、一貫して低下し続けている」と紹介されている。取材に応じた主婦が「１日に使える予算は限られている。デフレがどうのと言われても、申し訳ないけれど、そんなこと考えている余裕はありません」という談話もあった。</p>

<p>　なかなか微妙な問題である。日本チェーンストア協会のウエブにある3月の売上高速報の前年同月比を見ると、昨今のデフレ傾向がうかがわれ、とくに食料品は前月比でも減っている。</p>

<p>　これが特売サイトの影響かどうかははっきりしないが、あるいはそうかもしれない、と思わされる点もある。</p>

<p>紙の情報と電子の情報</p>

<p>　サイトに提供されている安売り情報は、もともとは店側が宣伝しているもので、秘密でもなんでもない。これが新聞のチラシなら、見る人は近くの人に限られるから、影響を受けるのは同じ商店街の数店ぐらいのものである。いくらA市のスーパーで卵が安くても、B市の主婦がその情報を知ることはまずなく、したがってわざわざB市からやってくることもほとんどない。だからB市のスーパーがA市のスーパーの卵の安売りを気にすることもなく、それに影響されることもなかった。地域に密着した商店同士が、小さな商店街の中で、ささやかな価格競争をしていただけだった。</p>

<p>　しかし、これらのデータが電子化されて、全国どこからでも見られるようになり、しかもどこが一番安いかをすぐ調べられると、地域の殻を破った価格競争が始まる。ここが紙のメディアである新聞チラシと電子メディアであるサイトの大きな違いである。しかも、これらのデータは主婦たちがボランティアで入力している。言ってみれば相互扶助活動である。だから、この主婦パワーに文句をつける筋合いはまったくないと言っていい。しかし、「どこかひっかかる」のも事実である。</p>

<p>デパート跡にブックオフ</p>

<p>　私は神奈川県西部に住んでいるが、最近、近くの商店街にブックオフの大型店が店開きした。ブックオフは、もう20年前の1990年に神奈川県相模原市で１号店ができた新型古書店である。かつての古書店とは違って、本の価値（もともとの定価や稀少さなど）とはほとんど無関係に、新しさや保存具合で値決めしている。この本の「価格破壊」、「価値破壊」が時流に受けて、従来の本の流通システムを破壊する勢いで増え続けた。2009年3月現在で全国に917店ある。最近では本のリサイクルだけでなく、子供用品、スポーツ用品、衣料、貴金属、ホビー用品などさまざまな商品を扱うようになっていて、それら関連店も130店ほどある。</p>

<p>　近くの大型店は、かつて三越デパートが入っていた広大な１階フロア全体に本、CD、DVD、時計などの貴金属、サーフボードなどのスポーツ用品、衣料、装身具、ホビー用品などの売り場が並んで、まさに中古品のデパートである。<br />
　<br />
　入口に「なんでも買い取りコーナー」があり、多くの人がバックに詰めた中古品を売りに来る。整理券をもらって店内をぶらぶらしているうちに、「○○番さーん、買い取り価格の計算が終わりました」と知らせてくれる仕組みである。カウンターには「お家にあるモノ、お売りください」というちらしが置いてあり、そこに「うちの家族は売ったりしながらゆったり遊ぶ」というキャッチコピーがあった。</p>

<p>　リサイクルはいいことで、これも文句をつける筋合いはない。しかし、デパートの跡がブックオフであることに、いささかの感慨なしとしない（横浜の三越跡はカメラやパソコンの量販店になっている）。安いものが大量に出回ることや、不要品をリサイクルに回すというライフスタイルは、それ自体は歓迎すべきことだが、これがほんとうに豊かな生活なのか、あるいは豊かな社会を持続させていくことにつながるのかと考えると、疑問もわく。ここで取り上げたのはきわめて卑近な例だが、より大きな経済システム、もっと言えば、社会システムそのものが同じ問題を抱えているように思われる。<br />
</p>]]>
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<title>「タイガーテキスト」と情報の時効（10/5）</title>
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<modified>2010-07-15T13:23:50Z</modified>
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<![CDATA[<p>　この春、ハワイに出かけたとき、友人が「タイガーテキスト」というアイフォン（アップルのモバイル端末）のアプリケーションを教えてくれた。このソフトを使って送ったメールは、一定期間後に自分の端末からも、相手の端末からも、自動的に消える。「タイガーテキスト」という名前の由来は、プロゴルファー、タイガー･ウッズにあるらしい。</p>]]>
<![CDATA[<p>　ピンと来なかった人のために、早々と種明かしをしておくと、タイガー･ウッズは2009年秋に交通事故を起こしたのをきっかけに、次々と愛人を名乗る女性が登場して、一大スキャンダルに陥ったが、その際、彼が送ったいくつかのメールが、不倫の証拠として暴露された。「こういう場合も、タイガーテキストを使えば安全ですよ」ということである。</p>

<p>秀逸なネーミング</p>

<p>　もっとも発売元は、秀逸なネーミングにもかかわらず（？）、タイガーウッズの不倫を念頭に開発したと言っているわけではない。ビジネスや一般のメールのやり取りでも、相手の端末からすぐ削除してもらいたいと思うことは多いはずで、サイバー空間に記録をとどめたくない場合には便利ですよ、と宣伝している。</p>

<p>　ウエブからタイガーテキストをダウンロードして、メールを送ると、受け取った相手にタイガーテキストをダウンロードするようにとのメッセージが届く。タイガーテキストをインストールするとメールを読める（あらかじめ双方がタイガーウッズをダウンローとしていれば問題ない）。メールは特別のサーバーを経由してやりとりされるために、送信者が設定したメールの存続期間がたつと、自分のアイフォンからも、相手のアイフォンからも、そしてメールサーバーそのものからも、メールは完全に削除される。存続期間は送信者が設定できる。相手が読んだらすぐ消えるように設定すると、読了後１分後に削除される。</p>

<p>　メッセージを読むのは無料だが、これを使ってメールを送るときには、メッセージ量に関係なく、年間20ドル程度かかるようだ（私がデモをみせてもらったときはまだ無料だった）。<br />
　<br />
　ふだん私たちがやり取りしているメールは、送信者が削除しても、相手が保存しておけば存続するし、プロバイダーなどのメールサーバーには一定期間、保存されている。だから犯罪などにからんで捜査当局がサーバーを押収、証拠のメールのやりとりを読むことができる。</p>

<p>　タイガー･ウッズではないが、著名人と特殊な関係になって受け取ったメールを、後に対価を得て暴露することもできるわけで、タイガーテキストを使えば、相手の端末からはもとより、サーバーからも消えるのがポイントである。</p>

<p>　要は、サイバー空間から記録を完全に削除できる。いまはアイフォン（とアイタッチ）だけのサービスで、日本では使えないが、おもしろいソフトが登場したものである。</p>

<p>情報の「時効」という考え</p>

<p>　私が、このソフトのデモを見せてもらいながら思ったのは、サイバー空間における「情報の時効」ということである。<br />
　サイバーリテラシー第2原則は、すでに読者もご承知のように、「サイバー空間は忘れない」である。現実世界でおしゃべりしたことはすぐに忘れられるし、たいして遠くまで伝わらない。保存するには不便で、メモをとるとか、録音するなどの努力が必要だが、それはそれで気楽でもある。「人のうわさも七十五日」、「旅の恥はかき捨て」でもあったわけだ。</p>

<p>　その関係がサイバー空間では逆になる。何もかもが保存され、コピーされ、遠くまで運ばれる。それは大いなる利点なのだが、ある場合は欠点、あるいは難点ともなる。プライバシーが問題になったり、著作権が侵害されやすくなったりしている。<br />
　<br />
　サイバーリテラシーの課題に、「サイバー空間の再構築と現実世界の復権」を上げているが、前半の意味は、サイバー空間は技術によって作られているから、技術によってどのようにも変えられる。そのコード、あるいはアーキテクチャーを変えればよく、私たちの住みやすいようにサイバー空間を再構築すべきだということである。<br />
　<br />
　タイガーテキストはその一つの解決策ではないか、と私は思ったわけである。タイガーテキストで送られてきたメールはコピーしたり、転送したり、保存したりできない（工夫すれば、もちろん別に保存できるが、ふつうにタイガーテキストを使っていれば保存できないようになっている）</p>

<p>サイバー空間も「忘れる」</p>

<p>　たとえば、昔、大掃除をしていて、畳の下に敷いた古い新聞の記事を思わず読んでしまうことがあった。そこに時効になった犯罪記事があり、それがたまたま知り合いだった、というようなことが起こると、これは推理小説のかっこうのテーマである。古い記事をあらためて読むことが、ふつうではあり得ないからである。<br />
　<br />
　しかし、新聞記事データベースが完備すると、古い記事も検索できるから、意図的に何らかの犯罪に関係する記事を検索できるようになる。これだと個人情報保護上も問題だから、市販されたデータベースでは、そういう固有名詞を伏せ字にするなどの配慮も行われているけれど、それはアクセス権限による差別化で、もとのファイルにはもちろんデータがきちんと保存されている。そうではなく、過去の情報を完全に消し去るような方法はないものだろうか、というのが私の夢想だった。<br />
　<br />
　もちろん、サイバー大学は忘れないのが原則だからこそ便利なのは事実だが、何もかもが記録されているのは息苦しくもある。後は野となれ、山となれ、というと無責任にすぎるが、サイバー空間も忘れるような仕組みがあってもいい。だから、タイガーテキストの発想が新鮮なものに思われたのである。<br />
</p>]]>
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<title>情報の海に溺れる？「社会を束ねる力」（10/4）</title>
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<modified>2010-05-12T02:40:01Z</modified>
<issued>2010-05-12T02:37:00Z</issued>
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<![CDATA[<p>　日本経済新聞は3月23日から有料の電子版を創刊した。紙のメディアが退潮を余儀なくされるなかで、世界中の新聞や雑誌、書籍などを扱う企業が生き残りをかけてさまざまな試みを続けているが、日本経済新聞電子版もその例である。パーソナルメディアの跋扈する「総メディア社会」にあって、テレビも含むマスメディアそのものが大きな試練に立たされている。</p>]]>
<![CDATA[<p>　日本経済新聞の社告によれば、電子版は４月末まで無料で提供され、その後有料化、紙の本紙購読者は月額1000円、電子版のみの購読の場合は4000円である。アメリカのニューヨークタイムズはすでに一部記事を有料化しており、2011年からは全面的に有料化すると発表している。</p>

<p>オンライン「情報の有料化」</p>

<p>　オンライン上の情報発信は、インターネット黎明期に行われた有料化の試みが奏功せず、その後ほとんどの情報が無料化へと流れたが、ここへ来て、「情報の有料化」への試みが新たに始まったことになる。</p>

<p>　日本経済新聞が電子版を創刊した背景には、新聞産業を支える販売収入と広告収入が、ともに急速に悪化していることがある。広告代理店の電通が2月に発表した調査によると、2009年の日本の広告費は全体で5兆9000余億円で、前年比で11.5％も減った。調査をはじめた1947年以来の下げ幅で、日本経済の昨今の低迷ぶりを象徴しているが、なかでも特筆すべきなのは、新聞広告の売り上げがインターネット広告に抜かれたことである。</p>

<p>　新聞、雑誌、テレビ、ラジオのマスメディア4媒体の広告費が2004年以来減少傾向を示すなかで、ラジオは2006年にインターネット広告に抜かれ、2007年には雑誌広告が抜かれた。今回、新聞もまたインターネットの後塵を拝したことになる。</p>

<p>　新聞部数は1998年以来減少傾向にあるし、多くの新聞社は1992年初めに値上げし、97年に消費税の税率アップに連動してその分だけ値上げして以来、値上げできないでいる。そこへ広告費減が追い討ちをかけており、まさに新聞業界は存続の危機に直面していると言っていい。</p>

<p>　そういった情勢下での日本経済新聞の今回の挑戦が奏功するかどうかきわめて興味深いが、月4000円という従来の紙のメディアに引きずられた感じの高額設定が、すでにニュースも含めて無料情報に接することに慣れているユーザーにどのように受け取られるかが鍵になるだろう。</p>

<p>『ジャンジャン』も休刊</p>

<p>　一方、オンライン・ジャーナリズムを標榜して2003年に創刊した『ジャンジャン（JANJAN）』もこの３月末で休刊した。韓国で話題になった市民記者メディア『オーマイニュース』に続いて、全国各地の市民記者が「既存メディアが伝えないニュース」を伝えるというコンセプトだったが、その後のブログ、SNS、ツイッターなど、個人が情報発信できるメディアの台頭で存在感が薄まったのと、これもやはり広告減で撤退を余儀なくされた。<br />
　<br />
　ここには、社会全体の情報への嗜好が、ジャーナリズムのような硬派のものから、身近な話題をめぐるおしゃべり、ショッピングやレジャーなどのお役立ちガイド、あるいはアルバイト、就職などの実用情報へと移りつつある傾向が見られる。</p>

<p>　では、社会全体のジャーナリズムへの感心がまったく薄れたのかというと、必ずしもそうではないだろうが、いくつかの問題点が指摘できる。まずマスメディアそのもののジャーナリズム活動の水準が著しく低下している事実を無視できない。一方で、ブログなどには個別のテーマに沿ったきわめて質の高い情報が存在するが、残念ながら、それらは広大な「情報の海」に沈み、一般には見えにくい。</p>

<p>　検索サービスを使って有益な情報にアクセスできるのは確かだが、それを掘り起こすにはやはり手間とそれなりの能力が必要である。ただ漠然とインターネットを利用している限り、それらは見えてこないし、だから一般的には、ないに等しいとも言える。そう考えると、既存マスメディアの衰退は、メディアのありようが変わる中での栄枯盛衰に過ぎないと達観することもできない。</p>

<p>　それは、従来のマスメディアが持っていた「社会を束ねる力」の減衰とも関係している。本連載で、政府が進める「情報通信法」の構想について触れたとき、それらの議論では新しいメディアを「ビジネスのツール」として捉える傾向が強く、「表現のメディア」としての視点が欠如、あるいは希薄だということへの危惧を表明した（新たなメディア産業法をめぐる審議が今国会でも始まっている）。</p>

<p>増田米二の予言</p>

<p>　増田米二は1985年に書いた『原点・情報社会』という本で、マスメディアの近い将来における衰退を予言したうえで、「遅くも21世紀までには情報ユーティリティは現在の近代工場に代わって、人会の社会的シンボルになっていることだろう。そのころには何千、何万という多種多様な情報ユーティリティが出現しており、私たちは、現在の新聞やテレビに代わって、毎朝まず自宅の端末機を操作して、情報ユーティリティから必要な情報を入手するのが日課になっているだろう」と書いた。彼の言う「情報ユーティリティ」がいまインターネットによって実現されていると言っていい。その洞察力には驚くほかない。</p>

<p>　増田はそこでのジャーナリズムのありようをとくに問題にしているわけではないが、いま問われているのは、「総メディア社会」における社会全体のジャーナリズム機能をどう維持できるか、ということのように思われる。<br />
</p>]]>
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<title>ディスプレイから立体が飛び出す3D映像の世界（10/3）</title>
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<modified>2010-04-03T12:34:37Z</modified>
<issued>2010-04-03T12:31:51Z</issued>
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<summary type="text/plain">　ジェームズ･キャメロン監督のハリウッド製3D（三次元）映画「アバター（AVAT...</summary>
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<![CDATA[<p>　ジェームズ･キャメロン監督のハリウッド製3D（三次元）映画「アバター（AVATOR）」が大ヒットし、同監督が十数年前に「タイタニック」で樹立した全世界興行収入の最高記録を塗り替えたという。また2010年は「3Dテレビ元年」になるとも言われている。平面映像から立体映像へと、時代は大きく動いているようだ。</p>]]>
<![CDATA[<p>　映画「アバター」の舞台は22世紀、地球から５光年離れたアルファ･ケンタウリ系惑星･ポリフェマスの衛星、パンドラである。原住民ナヴィ族は、身長3メートル、皮膚は青く、長いしっぽを持っており、自然と一体化した牧歌的な生活を営んでいる。鉱物資源の宝庫であるこの星を支配するために、地球から人類がやってくる。人類と原住民との間で争いが起こり（人類が一方的に侵略しようとする）、そこに人類の若者と族長の娘の恋がからむという、いかにもというストーリーだが（宮崎駿のアニメファンであるキャメロン監督は、映画の一部が「もののけ姫」のオマージュであると公言しているとか）、主役の若者が原住民をモデルとした肉体、すなわちアバターに入り込んで、原住民に接近するところがSF仕立てというか、今ふうである。</p>

<p>アバター＝自分の分身</p>

<p>　アバターというのは、ゲームやインターネットの世界ではもはや周知の、「自分の分身となるキャラクター」である。男性が女性になることも、年長者が若者になることも、もちろん犬や猫になることも、机や椅子になることも自由自在、アバターという仮の姿になって、ゲームの世界に入っていくわけである。</p>

<p>　映画では、人類はパンドラの大気を吸えないので、人間とナヴィのDNAを組み合わせたナヴィそっくりの肉体をアバターにしている。人間の意識を特殊な装置を使ってアバターに連結させるわけで、ドライバーになる若者は、地球上の戦争で負傷して下半身不随になった元海兵隊員。アバターに入り込むことで再び自由な肉体を得た主人公がはしゃぎまわるところは微笑ましい。<br />
　<br />
　ナヴィに「身をやつした」主人公は、情報を収集するスパイとしてナヴィ族の生活に入っていくが、そこでさまざまなドラマに遭遇しながら族長の娘に恋し、人類の横暴な破壊活動に抵抗するようになる。これが映画のソフト面での仕掛けである。<br />
　<br />
　ハード的には、コンピュータ･グラフィックスをふんだんに使った三次元映画だということである。だから専用メガネをかけて見る。これ自体は特別新しいことではないが、キャメロン監督は全編を3Dで撮影するため、自ら開発したカメラシステムを使用、従来の3Dにはなかった自然な立体映像を作り上げている。</p>

<p>　コンピュータ･グラフィックスは「タイタニック」でも使われているし、スティーヴン･スピルバーク監督の「ジュラシック･パーク」などですでに有名だが、「アバター」ではパンドラのジャングルや山などの自然、さまざまな動物、戦闘機、鳥に乗ったナヴィ族と人類の派手な空中戦、主人公や動物たちのアクション──、それらの多くがコンピュータ･グラフィックスで作られている。宙に浮かぶ不思議な山も出てくるが、これはまさにコンピュータ･グラフィックスでしか描けないだろう。<br />
　<br />
　ちょっと余談だが、この山に良く似た風景が中国、湖南省張家界にあるらしい。地元の観光開発会社員がそのことに気づき、インターネットで宣伝したが、一方でキャメロン監督が中国メディアのインタビューで、安徽省の黄山に「インスピレーションを得た」と語ったことから、張家界と黄山でモデルの本家争いが起こり、中国メディアで盛んに報じられたという（1）。映画の宣伝臭を割り引くにしても、「ハリウッド映画、中国観光地を騒がす」の図はがなかなか興味深く、話題の多い映画であることは間違いない。</p>

<p>3Dテレビ･3Dプリンタ</p>

<p>　3Dテレビの方は、パナソニック、ソニー、東芝が2010年春から秋にかけて売り出すという。これを楽しむためには、3D映像を収録したブルーレイ･ディスクや再生機、専用メガネが必要だし、なによりも3D用の映像作品が不可欠である。地上波テレビで3D作品が放映されるようになるのはまだ先の話で、当初はゲームが中心になると思われる。テレビそのものもまだ高価で、すぐ普及するというわけではないが、白黒からカラーへ、ブラウン管から薄型へと進化してきたテレビが、いま平面から立体へと移りつつあるのは確かで、いずれはテレビと言えば、3Dの時代が来るかもしれない。<br />
　<br />
　3Dプリンタというのもある。ふつうプリンタと言えば、平面的な紙に印刷するわけで、型紙をとってそれを印刷、後から立体にすることは可能でも、プリンタそのものはあくまで平面だった。3Dプリンタは立体そのものを創り出してしまう。</p>

<p>　すでに工業部品のプロトタイプ作りなどで実用化されており、石膏とかプラスチックを材料に、コンピュータに入力されている３Ｄデータから立体を作り出して（プリント）しまう。カートリッジ化したひも状プラスチックを加熱して液状化、これを積み上げていくようにしてギアなども生成できるという。</p>

<p>　いまのところ使う素材が限られているので、オリジナルと同じものができるわけではないが（オリジナルがプラスチックなら、オリジナルと同じものができる理屈である）、3Dデータから立体を生み出すことができるわけだから、便利な素材が開発されれば、日用品なども生成可能ということになる。</p>

<p>ディスプレイからゲンコツ</p>

<p>　数年前、CGアーティストの河口洋一郎東大教授が、でこぼこして波打つような画面から突然ゲンコツが飛び出して聴衆をポカンと殴る、みたいな作品を作りたいと言っていたことがある。</p>

<p>　すでに何度も書いていることだが、これからはサイバー空間と現実世界の交流がどんどん多様化するだろう。前号で紹介したツイッターは、両者をリアルタイムでつなぐ仕掛けだったが、コンピュータの中から立体が飛び出し、サイバー空間と現実世界が立体交差する時代も、もはや夢ではなくなってきた。</p>

<p>＜注１＞朝日新聞2010年2月10日付朝刊国際面<br />
</p>]]>
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<title>「現実」と「サイバー」のリアルタイム交信（2010/2）</title>
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<modified>2010-04-03T12:21:09Z</modified>
<issued>2010-04-03T12:18:05Z</issued>
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<summary type="text/plain">　2010年元旦に鳩山由紀夫首相が「私もツイッターを始めます」と言って話題になっ...</summary>
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<![CDATA[<p>　2010年元旦に鳩山由紀夫首相が「私もツイッターを始めます」と言って話題になった。ツイッター（Twitter）というのは、2006年に始まったばかりのウエブサービスで、ミニブログなどと呼ばれている。140文字以内のメッセージを入力すると、それが全世界に公開され、メッセージへの瞬時のコメントも得られる。</p>]]>
<![CDATA[<p>　ファイル交換ソフトのナップスター、画像配信のユーチューブ、ニコニコ動画など、インターネットを使った新しいサービスが次々登場し、しかもあっという間に世界中に普及しているが、ツイッターも例外ではない。最近では、これらのサービスを「ソーシャルウエア」と呼ぶようにもなっている。まさに電子メディアの「爆発」である。</p>

<p>140文字の「つぶやき」</p>

<p>　ツイッターに書き込むメッセージは「つぶやき」と呼ばれる（twitterは鳥がさえずる、という意味の動詞）。ウエブ上のツイッターのサイトで登録するだけで（無料）、自分のIDを作ることができる。そこで入力した文章はすべてのツイッター参加者に公開されるが、実際には、自分の仲間や関心のある著名人などを選んで「フォロー」し、彼らが書く「つぶやき」を閲覧するといったように利用されている。もちろん自分の「つぶやき」も彼らに伝わるし、他人のつぶやきに返答したり、気にいった「つぶやき」を他に転送したりできる。キーワードを入力することで、関心のあるテーマで書いた見知らぬ他人の「つぶやき」も見られる。</p>

<p>　140文字のつぶやきを通して、世界中の人びとと、ほとんどリアルタイムでコミュニケーションできるわけである。メールとも、ブログとも、SNSとも違う新しい道具の誕生と言っていい。</p>

<p>　日本でのツイッター利用者はすでに500万人を超えたと推計されており、雑誌『週刊ダイヤモンド』は新年1月23日号で、「2010年ツイッターの旅」という約40ページの特集を組んだ。</p>

<p>　そこでも紹介されているアスキー総合研究所の調査（2009年暮実施）によると、ユーザーは20代がもっとも多く、ついで30代と40代が続く。平均年齢は35.7歳である。男性がやや多い。アクセスするのはパソコンが中心だが、ケータイやアップルのアイフォンを使う人も増えているようだ。パソコンからアクセスする人は1日平均4時間半も費やし、平均14.6本の「つぶやき」を書いている。</p>

<p>　内容は、まさに「いま何をしているか」とか、それに対する返信、ふと思いついた感想やアイデアなどだが、とくにケータイの場合、いまつぶやいたそのメッセージに即座に回答が帰ってくる。「渋谷なう（いま渋谷なんだ）」というと、「私も渋谷にいる」、「お茶でも飲もうか」というふうに話は進むわけである。</p>

<p>　もちろん旧知の仲で、お互いにフォローしている友だちばかりでなく、「渋谷なう」を検索している、まるで知らない他人がそこに割り込んでくることもある。アンケート調査では、「つぶやき」の対象として、「特定のユーザーに向けてはいないが、誰かの反応を期待して」、「誰に聞いてもらうつもりもなく、純粋に独り言として」、「リアルでは面識はないが、SNSやブログ、ツイッター上で知り合った人へ」などと答えた人が多かった。</p>

<p>オバマ大統領も利用</p>

<p>　雑誌『ダイヤモンド』の特集によれば、世界のツイッター人口は1億人を超えたらしい。著名人もどんどん参加しているのが興味深いが、こういう人たちの発言を「フォロー」している人の数がまた桁違いに多い。</p>

<p>　たとえば歌手のプリトニー・スピアーズ（フォロアー数400万人以上）、オバマ大統領（同300万人以上）となっており、日本でも元ライブドア社長、堀江貴文（同30万人以上）、経済評論家、勝間和代（25万人以上）という具合である。もちろん個人でも20万人以上のフォロアーを誇る人もいる。</p>

<p>　勝間和代は2009年7月ごろから本格的に利用しはじめたという。短いメッセージながら、彼女の発言を25万人以上の人が見ているわけである。雑誌で25万部以上は大部数だから、まさに恐るべきメディアの登場と言えよう。このようなメディアは、かつて存在しなかった。</p>

<p>　だからCNNとか朝日新聞のようなマスメディアがツイッターを利用して情報を流したりしている。また企業も宣伝に使う工夫を始めている。たとえば同誌ではグリコ乳業のデザート飲料「ドロリッチ」に関する話を紹介している。昨年5月ごろ、ドロリッチが突然ネット上で人気を集めたが、それはだれかがツイッター上で「ドロリッチなう」（今、ドロリッチを飲んでいます）とつぶやいたことから、「ドロリッチなう」という「つぶやき（フレーズ）」が人気になり、多くの人が同じ「つぶやき」を投稿、結局、メーカーの知らないところで、製品の口コミとして大いに効果を上げたという。</p>

<p>ツイッターの威力</p>

<p>　ツイッターをより便利に使ういろんな仕掛けが用意されているが、利用者が考え出したものも結構あるようだ。メディアジャーナリストを名乗る津田大介は早くからツイッターを利用し、2009年11月に『Twitter社会論』（洋泉社）を出版しているが、ツイッターを使ってイベントの実況中継をやっているらしい。<br />
　<br />
　普及スピードの速さも驚異的だが、ツイッターの新しいところはそのリアルタイム性である。前回の拡大版で紹介した、サイバー空間と現実世界の関係図を思い出していただければよくわかると思うが、ツイッターによって、サイバー空間と現実世界はリアルタイムで結びついたとも言える。「総メディア社会」の新たな主役の登場でもある。</p>

<p>　私自身は、このような激しい動きにはつきあいかねるところがあるが、このリアルタイム性が今後のIT社会にどのような影響を与えるかは、きわめて興味深いと言えよう。</p>]]>
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<title>サイバー空間が「環境」になった世代は、それを使いこなし、それに流される？（2010/1）</title>
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<modified>2010-04-03T12:17:59Z</modified>
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<dc:subject>雑誌『広報』バックナンバー</dc:subject>
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<![CDATA[<p>「デジタルネイティブ（digital natives、デジタル原住民、生まれながらにITに親しんでいる世代）」と呼ばれる若者たちが、これからどんどん社会に進出してくる。彼らはインターネットを上手に使いこなし、あるいはその罠にはまっているが、サイバー空間を所与の「環境」と認識している点で共通している。その環境が技術で人工的に作られているという意識が希薄なために、技術の仕組みに振り回される恐れも強い。今回は拡大版でもあり、前2回の話題を追いながら、現代社会と若者の問題をあらためて考えてみたい。</p>]]>
<![CDATA[<p>　<a href="http://www.cyber-literacy.com/ja/about/index.html">サイバー空間と現実世界の交流史</a>を、もう少し段階的に見ておこう。図を見ていただければ一目瞭然だが、</p>

<p>　①は1970年代以降のインターネット黎明期で、サイバー空間と現実世界は牧歌的な共存関係にある。</p>

<p>　②は1990年代以降のインターネット普及期で、サイバー空間が地球を覆う薄い雲のように現実世界を覆っている。</p>

<p>　③はウエブ2.0が普及した2000年代以降で、サイバー空間と現実世界は、あざなえる縄の如く絡みあっている。<br />
　<br />
　そして現在もまた③の段階にあるが、この図は下半分がサイバー空間、上半分が現実世界の楕円形のように描くこともできる。現実世界がサイバー空間の上にそっくり乗った形で、政治、経済、文化などすべての社会システムがサイバー空間上で動いている。パソコンに例えれば、サイバー空間が基本ソフト（OS）で、現実世界のさまざまなアプリケーションがその上で動いている。インターネットがいよいよ社会の隅々まで浸透している現在、むしろこの図の方が分かりやすいかもしれない。サイバー空間と現実世界は、まさに分かちがたく結ばれ、デジタルネイティブの若者たちにとっては、両者の融合した世界こそ「現実」である。</p>

<p>　サイバーリテラシーは、何度も書いてきたように、サイバー空間が現実世界とはまるで違う原理で出来上がっていることを理解することで、現代IT社会を豊かで快適なものにするための知恵を生み出すことを目指している。<br />
　<br />
　当初の目的は、「デジタルイミグラント（digital immigrants、デジタル移民、IT普及以前に生まれてＩＴに無関心か、あるいはそれを身につけようとしている世代）」に、サイバー空間の特性を理解する大切さを訴えることだったが、そして、それは今も変わらないけれど、これからは、サイバー空間の住人になりきっている、デジタル語を母国語とする若者たちに、自分たちの環境を相対的に見る目を養ってもらうことも重要になってきた。</p>

<p>社会的包摂・社会的再帰性・リスク社会</p>

<p>　現代社会の諸問題はもちろんITによってのみ引き起こされたものではなく、そこには政治的、経済的、社会的な要因が絡んでいるが、ITがその動きを加速し、また変形しているのは間違いない。</p>

<p>　一般に「ポストモダン（後期近代）」と呼ばれる現代社会に関しては、アンソニー・ギデンズ、ウルリッヒ・ベックなど、多くの学者、主にヨーロッパの社会学者が、さまざまに洞察している。それはどういう考え方なのか、いくつかのキーワードを紹介しておこう。</p>

<p>＜社会の包摂性（ふところの深さ）＞近代化以前の社会では、すべてが家庭や地域などまわりの環境に埋め込まれていた。家事と職業の区別もなく、教育もまた家庭や地域で行うものだった。近代化によって職業の分化が行われ、教育も家庭から離れて学校へと移る。私たちの周辺にあったものごとが外部の社会システムへと移されていくが、そのシステムが肥大化すると、社会は硬直したものになり、一方で、私たちのまわりの生活はすっかり空洞化してしまった。</p>

<p>　この点を我が国の社会学者、宮台真司は「ポストモダン時代の＜システム＞の全域化と＜生活世界＞の空洞化」と呼んでいる（1）。平たく言うと、駅前商店街がさびれ、郊外にコンビニが出現したわけである。彼は、こう言っている。「＜生活世界＞が空洞化すれば、個人は全くの剥き出しで＜システム＞に晒されるようになります。『善意＆自発性』優位のコミュニケーション領域から『役割＆マニュアル』優位のコミュニケーション領域へと、すっかり押し出されてしまうことになります」。</p>

<p>　彼は「社会の底が抜けた」という表現を使っているが、社会の柔軟性、伸縮性、融通無碍さが失われるわけだから、「社会の底が打った」と言った方がわかりやすいだろう。たとえば以前なら不況時に人びとは田舎（故郷）に帰って農業を手伝うなど、なんとか生き延びることができた。農村のふところが深く、都会に出て行った身内が戻ってきても、受け止められたのである。いまはすべてがシステム化してしまったために、農村にそのような余裕はない。「社会の包摂性（ふところの深さ）」が失われたわけである。</p>

<p>＜再帰的社会＞もはや私たちは、家庭や地域、企業や国家といった外部システムに身を委ねてのんびり生きていくことはできない。私たちの行動がそのまま社会やシステムに跳ね返ってしまうからである。イギリス・ブレア政権のブレーンも務め、「第三の道」を提唱した社会民主主義者、アンソニー・ギデンズは、これを「社会的再帰性（reflexivity）」と呼び、大著『社会学』の中でこう書いている。</p>

<p>「社会がもっと慣習や伝統と連動していた時代には、人びとは、非再帰的な仕方で既成の行動様式を踏襲することができた。以前の世代にとって簡単に当然視できた生活の多くの側面は、私たちにとってはむき出しの意思決定の問題になっている。たとえば、何百年ものあいだ、人びとは家族の規模を制限する有効な手段を何も持っていなかった。現代の避妊方法や他の生殖技術によって、親たちは、たんに産む子どもの数を選択できるだけではなく、生まれてくる子どもの性別を決めることさえできる。もちろん、これらの新たな可能性は、新たな倫理上のディレンマをともなう」（2）。</p>

<p>　すべてがコントロールできるようになったために、以前のように伝統や運命に任せることができず、個々の問題について、いちいち決断せざるを得なくなった。医療におけるインフォームドコンセントがその例で、専門家の医師に任せたり、運命に委ねたりしていたことを、今では、私たちが決断しなくてはらない。</p>

<p>＜リスク社会（risk society）＞リスク社会の理論はウルリッヒ・ベックやアンソニー・ギデンズによって提起、発展させられたが、これも私たちの選択・決断と大きくかかわっている。</p>

<p>　リスクは危険とは違う。地震や台風などの天変地異は、私たちの決断とは（いまのところ）関係がなく、これは危険だが、地球温暖化になると、私たちのエネルギー消費と密接に関係してきて、リスクと認識される。再帰的近代において、私たちはこのようなリスクを常に感じて生きていかなくてはいけない、というのがリスク理論のエキスである。リスクは、たとえばチェルノブイリ原発事故のように、ひとたび間違えば、人類に大きな影響を与えるし、一国内にとどまらず、グローバルな広がりを持つ。被害をあらかじめ正確に測ることもできないにもかかわらず、私たちは原子力発電、遺伝子組み換え作物、金融危機、頻発するテロなど、多くの決断を迫られている。</p>

<p>デジタルネイティブとイミグラント</p>

<p>　サイバーリテラシーもまた、このような歴史的文脈のもとで考えなくてはいけないが、この問題をデジタルネイティブとイミグラントの関係で見ておこう。</p>

<p>　たとえばインターネットやケータイと子どもたちの問題を考えるとき、子どもはすぐケータイ操作になれて、その結果として危険に遭遇したりするのだが、それに対して親が十分監視しないことが問題になる。ケータイでは何ができるのか、どういう危険があるのか、といったことをよく考えずに子どもにケータイを与えたり、インターネットにアクセスさせたりしている親がなお多い。</p>

<p>　なぜなのか。ここでデジタルイミグラントという言葉を思い出すと、思わず納得するのではないだろうか。明確には意識されていないけれども、子どものほうが原住民で、親は移民、という引け目がどうしてもあるために、なかばお手上げ状態で、子どものインターネット･アクセスやケータイ所持を放任してしまう。</p>

<p>　私がデジタルイミグラントにとっても、デジタルネイティブにとっても、サイバーリテラシーはいよいよ不可欠だというのはこのことである。サイバー空間は現実世界を激しく変えつつあるが、一方で、サイバー空間をより快適なものへと作り変え、同時に、このサイバー空間の影響でたじたじとなっている現実世界の復権を目指さなくてはならない。</p>

<p>　新しいサイバー空間を開拓するのはデジタルネイティブだろうが、ここでデジタルイミグラントが手を拱いているのではなく、新しい動きを好奇心をもって見守りながら、相携えてより豊かなIT社会の実現をめざすことが、デジタル移民である大人たちの責務だと言えよう。デジタル移民の踏ん張りが要請されているのであり、デジタルネイティブとの共存を図らなくてはならない。</p>

<p>　そのためには、デジタル移民のサイバーリテラシーを高め、親が、大人が、インターネットやケータイに対する理解を深めるべきだろう。個人一人ひとりの選択がそのまま社会に跳ね返る、これからのＩＴ社会を生きていくためには、個人の自律と社会秩序のバランスを、改めて考え直す必要もある。</p>

<p>アーキテクチャによる管理</p>

<p>　個人の自律と社会秩序のバランスと書いたけれども、こういった社会の捉え方そのものが、若い人にはすでに古いと受け止められるかもしれない。たとえば濱野智史『アーキテクチャの生態系』（3）という本は、インターネット上に次々に成立するブログ、SNS、２ちゃんねる、トゥイッター、ニコニコ動画などのサービスを「メディア」とは呼ばずに、「ソーシャルウエア」と捉え、そのアーキテクチャー（建築学でいう建築様式）に注目する。濱野は1980年生まれ、まさにデジタルネイティブに属する世代の論客である。</p>

<p>　彼がソーシャルウエアの内容分析より、アーキテクチャーに注目するねらいは、アーキテクチャーの社会的効果にある。アメリカの憲法学者、ローレンス・レッシグがその著『コード』（4）で上げた、私たちの行動を規制する4つの要因、「法、規範、アーキテクチャー、市場」の一つであるコード＝アーキテクチャーについて、レッシグはこう言っている。｢法や規範、市場は、人間の判断によってチェックされる制約で、だれか人間やグループがそうしようと決めたときにだけ効力を持つ。でもアーキテクチャーの制約は、いったん動き出したら、だれかがそれを止めるまで効力を持ち続ける｣、｢つまりアーキテクチャーの制約は、その対象者がその存在を知ろうと知るまいと機能する」。</p>

<p>　お分かりだろうか。著者は、すっかりばらばらになっている個人をソーシャルウエアのアーキテクチャーが管理することに、むしろ積極的な意義を認めている。管理されていることを自覚させないで管理し、それで社会がうまく回るならそれでいいじゃないか、というわけである。この本では、「世間」をめぐる日本の特殊性もアーキテクチャーの日本的ズレとして捉えられており、これはこれでたいへん興味深い分析だが、ここでー詳しく触れる余裕はない。</p>

<p>　アーキテクチャーによる管理という発想について付言しておこう。哲学者の東浩紀によれば、共通の価値観がなくなった現代社会では、かつてのような「ひとりひとりの内面に規範＝規律を植えつける」形で管理するやり方（規律訓練型権力）は有効に働かない。だから「人の行動を物理的に制限する」（環境管理型権力）しかない。濱野はこの考えのもとに、環境管理型権力としてのアーキテクチャーの効果を肯定的に捉えている。</p>

<p>　現代社会の断面を鋭く抉っていると言えるけれど、このような社会の現状、あるいは将来は、たしかに快適かもしれないが、そして、ある程度不可避かもしれないが、決して豊かなものではないと私には思われる。サイバーリテラシーにとって考えなくてはならない問題は多い。</p>

<p>（1）宮台真司『日本の難点』（幻冬舎新書、2009）<br />
（2）アンソニー・ギデンズ『社会学第5版』（松尾精文他訳、而立書房、原著2006）<br />
（3）濱野智史『アーキテクチャの生態系』（NTT出版、2008）<br />
（4）ローレンス・レッシグ『コード』（山形浩生他訳、翔泳社、原著1999）<br />
</p>]]>
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<title>「不信」も「悪意」も増幅するネットの力（09/12）</title>
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<![CDATA[<p>　前回、世界的なボランティアネットを築き上げている若者たちを紹介し、彼ら「デジタルネイティブ」には、ネットの向こう側にいる人びとへの「信頼」と、インターネットという技術への「信仰」があると述べた。一方で、「学校裏サイト」や「プロフ」などにアクセスしている日本の子どもたちに顕著なのが「ネットの特性への無頓着」である。</p>]]>
<![CDATA[<p>　信頼する者同士の善意のむすびつきはすばらしい結果を生むし、インターネットは世界中の善意を一か所に結びつける可能性をもっている。これを過小評価するのは間違いだが、そこに「不信」や「悪意」が入り込むと、負のスパイラルが起こる。その不信や悪意が、きわめて入りやすいのもインターネットの特徴である。小さな力が大きく増幅されることに、インターネットの長所も、危うさもある。</p>

<p>学校裏サイトとプロフ</p>

<p>　学校裏サイトは2002年ころからあるようだが、そこに書きつけられる生徒同士の誹謗中傷や、わいせつ画像、いじめなどの問題が顕在化したのは2006年からである（佐世保市で小学六年生の女子生徒が級友に切りつけて殺した事件は2004年だった）。</p>

<p>　社会的関心が高まり、親や教師の監視の目が行き届くようになって、大きな話題になることは少なくなったが、一方で、情報発信手段が多様化、分散化したり、鍵（パスワード）をつけて子どもたちだけの世界に潜行したりもしている。</p>

<p>　すでに古い数字だが、文部科学省が2008年3月に発表した「<a href="http://www.mext.go.jp/b_menu/toukei/001/index48/002.htm">青少年が利用する学校非公式サイトに関する調査報告書</a>」によれば、○○中学、××高校などのように具体的な学校を名乗っているものや、「学生の性知識」、「高校生広場」などの看板を掲げ、地域を問わず多くの中高生を集めているものなど形態はさまざまだが、学校裏サイト（報告書では「学校非公式サイト」）は、全体で3万8260あった。2007年度の学校基本調査による全国の中高等学校（中高一貫校も含め）は1万6300あり、その2.3倍にあたる学校裏サイトがあることになる。</p>

<p>　もっとも、同調査で並行して行った群馬、兵庫、静岡の3県の2400の中高校を選んで行ったアンケート調査によると、回答者1522人中、学校裏サイトを知っていたのが33％、閲覧したのは23％、実際に書き込んだのはわずか3％である。学校裏サイトは全国的に多数存在しているが、それに関与している生徒はごくわずかだとも言える。しかし、その影響が無視できないわけである。</p>

<p>　また東京都教育委員会が2009年10月末で集計した結果では、具体的な学校名を名乗った、いわゆる学校裏サイトが、高校で92％、中学校で68％、小学校でも20％あったという。</p>

<p>　ちなみに、プロフというのは自分のプロフィールを書きつける掲示板で、一般に自己紹介サイトと呼ばれる。一時、話題になった「前略プロフィール」と呼ばれるプロフができたのが2004年である。自分の名前、学校名、身長、趣味や血液型などを書き込んで自己紹介し、友達や異性との交流を求めるもので、プライバシーを無防備にさらけ出して、犯罪に巻き込まれたり、人気を得るために自分のあられもない写真を掲載して、未成年者自身がわいせつ情報を提供したりする行為が頻発しているのは、すでによく知られている。</p>

<p>公開されていることに無頓着</p>

<p>　これらの学校裏サイトやプロフなどがはらむ問題点をあげておこう。</p>

<p>①関係のない第三者が見ているという意識がない。<br />
　あくまでも仲間内のおしゃべりという感覚で書き込んでいるので、それらの書き込みを学校の先生や保護者が見ているという意識が希薄である。</p>

<p>②書いたことが他人を傷つけることに鈍感である。<br />
○田花子、中川×男など、一部を伏せただけで匿名にしたと考えて、気軽に悪口を書いている。生身の相手を眼のあたりにしていないために、言葉の暴力に対して警戒感がないと言える。</p>

<p>③あっけらかんと個人情報を公開する。<br />
　ストーカーなどの犯罪に巻き込まれる例が多い。</p>

<p>④簡単にお金が入ることになれている。<br />
　サイトには出会い系サイト、消費者金融、美容整形、わいせつ画像、アダルトグッズなどの広告が自動配信され、それを訪問者がクリックすることで管理人に広告収入が入る。</p>

<p>⑤独りで書きこむのでブレーキが効かず、暴走しやすい。<br />
いつでもどこからでも、ケータイから気軽に作成・書き込みできるために、どうしても過激化する傾向がある。また、過激であればあるほどサイトはにぎわい、広告収入も増えるので、管理人も過激な情報を喜ぶ。</p>

<p>⑥外から入り込んでくる悪意の大人に無警戒である。<br />
　広告ばかりでなく、友だちのふりをして女生徒に近づき、誘い出して暴行するケースは枚挙にいとまがない。</p>

<p>若者たちが生きる社会</p>

<p>　前回、プラスに働いたインターネットの長所が、ここでは逆にマイナスに働いている。インターネットを使いこなして社会貢献に取り組んでいる若者たちにも同じような危うさはあるだろうし、逆に、学校裏サイトに接している若者たちにも、インターネットをプラスに使っている例がたくさんある。だから両者を分けて考えることはできないが、両者には社会的な分極化傾向も反映しているようにも思われる。</p>]]>
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<title>若者の新しい生き方を無視できない（09/11）</title>
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<modified>2009-12-23T14:19:33Z</modified>
<issued>2009-12-23T14:13:19Z</issued>
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<![CDATA[<p>　 生まれながらにインターネットやゲーム、ケータイなどのITに親しんでいる世代を「デジタルネイティブ（デジタル原住民）」と呼び、これに対して、IT普及以前に生まれてITを身につけようとしている世代は「デジタルイミグラント（デジタル移民）」だという考え方がある。ITを境に年長者と若者がすっかり主客逆転したかのようである。</p>]]>
<![CDATA[<p>　インターネットが私たちの周辺にまで影響を及ぼし始めたインターネット元年（1995年）に生まれた子どもたちが、2009年では14歳、1995年に18歳だった若者は32歳になる。このように生まれたときから、あるいは多感な青少年時代からインターネットに接してきた若者たちが、すでに立派な大人になりつつあるわけである。</p>

<p>BC・ACという時代区分</p>

<p>　私はサイバー空間出現以前と以後をBC（Before Cyberspace）とAC（After Cyberspace）に分けていいほどに、サイバー空間登場の意味は大きいと何度も言ってきた。だからこそサイバー空間の現実世界とは異なる特徴を理解しなければならず、その能力、サイバーリテラシーが重要なのだが、すでに若者たちは、そのサイバー空間の“現実”を生きており、「デジタルネイティブ」という命名には、なるほどと思わされるところがある。<br />
　<br />
　デジタルネイティブ、デジタルイミグラントという考えを最初に提唱したアメリカの作家、コンサルタントのマーク・プレンスキーは、教育について論じながら、「今の若者たちは本を読むよりもコンピュータ・ゲームや電子メール、インターネットに親しんでおり、従来の教育方法ではもはや教えられない」、「生徒の頭は我々とは物理的に変わってしまった」、「彼らはデジタルを母国語とした新しい人種である」と言った（1）。<br />
　<br />
　さらにこうも言っている。「デジタル移民はいくらデジタル語を勉強しようと、どうしても古い習慣から来る独特の“アクセント”から抜けられない」。<br />
　<br />
　たとえば、電子メールやドキュメントをいったんハードコピーにしてからチェックする、インターネットの情報を二次的にしか参照しない、ひどい場合は、「私の電子メールを見た？」とわざわざ電話してくる、などなど。こういう強い“アクセント”をもっている人間がデジタルネイティブに教えるのは無理である、として彼は、教育手段としてゲームを利用することを勧めた（2）。<br />
　<br />
　このデジタルネイティブという言葉は、ほどなくしてIT分野の調査研究を行う国際企業、ガートナーなどによって、新しい企業戦略の対象として喧伝されるようになった。彼らは「（今後のビジネスを成功させるためには）デジタルネイティブを意識したIT戦略が急務」と説いたが（3）、たしかにこれからますますデジタルネイティブが増えてくることを考えると、ネット世代に焦点を当てた考えた方が現実的だとも言えるだろう（4）。</p>

<p>デジタルネイティブの活躍</p>

<p>　デジタルネイティブはどのような行動をとるのだろうか。NHKが2008年11月に「デジタルネイティブ　次代を変える若者たち」と題する番組を放映したとき、ウエブで行った「デジタルネイティブ度チェック」（表）を見れば、おおよその見当はつくだろう。同取材班がまとめた『デジタルネイティブ』（ＮＨＫ出版、2009）から引用したものだが、本書にはデジタルネイティブの活動ぶりの一端として、以下の話が紹介されている。<br />
　<br />
　市民運動を行う若者たちのSNS、ティグ（TIG=Taking IT Global）は、2000年に「今の世界を覆う問題を自分たちの手で解決していかなければ、自分たちの未来は暗い」と考えたカナダ・トロントの十代の若者2人が立ち上げたもので、最初は英語版だけだったが、今ではフランス語、イタリア語、中国語など12カ国版がある。世界200以上の国と地域から22万人の若者が参加しており、稼働しているプロジェクトは約2000。20名弱の若者で運営され、システムの維持改修費など年間1億5000万円ほどの経費は大手IT企業などからの資金提供だという。活動が活発化するにつれ、各種の国際会議にも積極的に参加、しかも会議をリードする場合も多いとか。</p>

<p>　設立者の1人、ジェニファー・コリエロ（28）は、2005年のダボス会議（スイスで毎年開かれる国際会議）で「新しい市民運動像を築きあげた」として、「次世代のリーダー」に選ばれた。彼は「私たちは、インターネットの力を最大限活かし、若者たちの意欲を喚起し、若者たちを巻き込んでいくことで、世界を変えていきたいと思っています。もし、大人たちが、インターネットを、単に『生活に多少役に立つツール』としてとらえているとすれば、そうした見方を覆したいのです。私たち若者は、より良い世界を築くためにインターネットが利用可能なのだ、ということを証明したいのです」と語っている。</p>

<p>不特定多数への信頼</p>

<p>　ここには、金儲けのビジネスではなく、国際的な社会貢献にインターネットを使おうとしている若者たちがいる。先進国、開発途上国一体となった、これまでにはない新しい広範な動きで、それを支えているのがインターネットである。背景には、ウエブ2.0でも話題になった「ネットの向こう側にいる不特定多数への信頼」と「技術への信仰」があるとも言えよう。これは、「デジタルネイティブ」たちのすばらしい側面、インターネットの光の部分だと言っていい。</p>

<p>（1）”<a href="http://www.marcprensky.com/wrITing/Prensky%20-%20DigITal%20Natives,%20DigITal%20Immigrants%20-%20Part1.pdf">DigITal Natives, DigITal Immigrants</a>”。2001年の発表。<br />
（2）後に『テレビゲーム教育論』（東京電機大学出版局、2007）と翻訳された著書も刊行している。<br />
（3）たとえば、「<a href="http://ITpro.nikkeibp.co.jp/article/NEWS/20061025/251769/">デジタルネイティブを意識したIT戦略が急務に</a>」参照。ここではデジタル移民に対して「デジタルイミグレイト」という表現を使っているが、原語がそうなのかどうかは不明。<br />
（４）ドン・タプスコット『デジタルネイティブが世界を変える』（原題” Grown up DigITal”、 栗原潔訳、翔泳社、2009）も同じような趣旨である。</p>

<p>＜表＞「デジタルネイティブ度チェック」<br />
（全部で20問ある。1問5点として、自分は何点とれるか、チェックしてみてください）</p>

<p>●インターネットで知り合いになって、会ったことがある人が5人以上いる<br />
●朝起きると最初にするのは、メールをチェックすることだ<br />
●出かけたり、買い物をしたり、何か行動する場合は、まずネットで検索する<br />
●デジカメなどで撮影した写真は、写真共有サイトにアツプロードしている<br />
●ネットで買い物をするときに、クレジットカード番号を入力することにまったく抵抗がない<br />
●音楽は、ネットで購入したり、入手することが当たり前になっている<br />
●定期的にチェックするブログが5つ以上ある<br />
●ブログにコメントを付けたことがある<br />
●自分のブログをもっていて、定期的に更新したり、トラックバックを張ったりしている<br />
●mixiやfacebookなどのSNSに複数参加している<br />
●SNSでは自らコミュニティーを主宰している<br />
●ウィキペディアの編集をしたことがある<br />
●インスタントメツセージで友人と日常的にチヤツトする<br />
●携帯電話は会話するよりも、メールすることのほうが圧倒的に多い<br />
●面白い動画やサイトを、すぐに友人にメールなどで知らせることが楽しい<br />
●友人、知り合いに電話番号を教えるときは、携帯電話の赤外線通信で行う<br />
●ネットでニュースをフォロ―しているので、紙の新聞は読まない<br />
●テレビはいったん、ハードディスクレコーダーに録画してから見るのが基本だ<br />
●学校（小、中、高）では、パソコンの授業があった<br />
●いまの彼女（彼氏）はネットで知り合った<br />
</p>]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>メディア激変と「総メディア社会」（情報ネットワーク法学会ML129・コラム）</title>
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<modified>2009-11-19T07:10:30Z</modified>
<issued>2009-11-19T06:59:39Z</issued>
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<summary type="text/plain">  今年は作家、松本清張の生誕100年とかで、再映画化された『ゼロの焦点』（11...</summary>
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<dc:subject>スクラップ</dc:subject>
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<![CDATA[<p>  今年は作家、松本清張の生誕100年とかで、再映画化された『ゼロの焦点』（11月中旬公開）の全面広告が、某新聞に4ページにわたって出ていた。そこに連携して、小学館が清張作品傑作映画ベスト10のDVD広告を出していたが、あとは映画、音楽、自然食品ばかりで、出版社による本の宣伝はなかった。これまでだと、こういう場合には必ず「松本清張全集」とか「清張作品全文庫」など本の広告があった。企画者があえて書籍を外したのか、あるいは広告が集まらなかったのか、事情はわからない。</p>]]>
<![CDATA[<p>　11月初旬にウインドウズの新しい日本語フォント「メイリオ」を開発した、ロンドン滞在30年余のデザイナー、河野英一さんの話を聞く機会があった。「メイリオ」は「明瞭」から名づけられ、河野さんは「和文英文混在の日本語を、横書き画面で美しく読むためにメイリオを開発した」と言っていた。</p>

<p>　ちょっとした話題にも、紙から電子へと移行しつつある時代を強烈に感じざるを得ない今日このごろ、である。河野さんの場合、海外、それもヨーロッパ在住の、大組織にも属さない日本人が、マイクロソフトというアメリカの（というよりグローバルな）企業に日本語フォントを依頼され、日本文化の発展に寄与するという図式もまた面白い。<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　◇<br />
　我が国情報社会論のパイオニア的存在である増田米二が1985年に出版した『原典・情報社会』（TBSブリタニカ）は、近い将来におけるマスメディアの衰退ぶりを大胆、的確に予言して、さわやか（？）なほどである。この本の先駆性は、梅棹忠夫の「情報産業論」（1963年発表）に次ぐものだと思うが、この辺はさておき、ここではマスメディアに関連する個所を抜粋して紹介しておこう。</p>

<p>「私なりの大胆な見通しをのべれば、これからの約二十年ないし五十年間が本格的な情報社会への変革期で、これはまず価値観の転換からはじまり、これに雁行する形で、社会・経済構造の変革が進み、早ければ二十一世紀初頭、遅くとも半ばごろまでには日本で名実ともの高度情報社会が実現するだろう」（p52）、「遅くも二十一世紀までには情報ユーティリティは現在の近代工場に代わって、人類社会の社会的シンボルになっていることだろう。そのころには何千、何万という多種多様な情報ユーティリティが出現しており、私たちは、現在の新聞やテレビに代わって、毎朝まず自宅の端末機を操作して、情報ユーティリティから必要な情報を入手するのが日課になっているだろう」（p54）、｢情報ユーティリティ、ソフトウエア、TSSサービス、計算センターなど、各種の情報処理サービスに関する産業も、空前の発展をとげるであろう。これに対し、現在、情報産業で主位を占めている新聞や出版などの、いわゆるマスコミ産業は、むしろこれからは停滞産業の部類に入っていくと思われる｣（p126）</p>

<p>　彼が「情報ユーティリティ」と呼んだシステム（情報インフラ）が、いまインターネットによって実現されている。1985年という時代を考えると、彼の予言は鋭い。<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　◇<br />
　私は、今年5月『総メディア社会とジャーナリズム─新聞・出版・放送・通信・インターネット』（知泉書館）を出版し、「マスメディア社会から総メディア社会への移行」を考察した。</p>

<p>　簡単に説明すると、マスメディア社会にあっては、メディア＝マスメディアで、そこではプロのメディア企業（送り手）が作り上げたコンテンツが、そのまま受け手に伝えられていた。総メディア社会では、メディア環境全体が巨大メディア企業とパーソナルメディアによって占拠され、送り手＝受け手である。通信がメディアの主役に躍り出て、従来のマスメディアはメディア地図の一角を占めるに過ぎない（サイバーリテラシー研究所のウエブの<a href="http://www.cyber-literacy.com/ja/about/index.html">「総メディア社会の構図」</a>を参照してください）。</p>

<p>　私の関心は、総メディア社会における「表現の自由」とジャーナリズムのあり方であり、2007年暮れに発表された総務省研究会（堀部政男座長）の「情報通信法」構想についても、その意義と問題点を考察している。これからのジャーナリズムのあり方として「ジャーナリズム・プラットホーム」構想も提案した。<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　◇<br />
　ところで、これからが本論だが（^o^）、本書は既存マスメディアにとっての” 苦い”事実を指摘しているためか、一部に高く評価してくれた人がいた反面、新聞、雑誌などマスメディアでの書評はまったくなかった。無視、あるいは敬遠されていたわけだろうが、このほど、はしなくも情報通信関係者の目にとまり、2009年度の<a href="http://www.okawa-foundation.or.jp/index.html">大川出版賞</a>を受賞した。</p>

<p> 　当のメディア関係者には見向きもされなかった、メディアやジャーナリズムを扱った本が、かえって勃興しつつある情報通信関係者の目に止まり、顕彰されたことをすなおに喜びながら、これもまた現代日本のメディア状況を浮き彫りにしていると、つくづく思う今日このごろ、なわけである。</p>

<p><br />
</p>]]>
</content>
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<title>ケータイ語を支える日本語入力システム（09/10）</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.cyber-literacy.com/blog/archives/2009/11/0910.html" />
<modified>2009-11-19T06:59:32Z</modified>
<issued>2009-11-19T06:47:34Z</issued>
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<summary type="text/plain">　インターネットの世界は日々めまぐるしい変転を見せているが、目下の傾向は、①パソ...</summary>
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<dc:subject>雑誌『広報』バックナンバー</dc:subject>
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<![CDATA[<p>　インターネットの世界は日々めまぐるしい変転を見せているが、目下の傾向は、①パソコンからネットワークへ、②パソコンからモバイル端末へ、という2つの流れに集約できるだろう。</p>]]>
<![CDATA[<p>　パソコンからネットワークへという動きは、すでに何度も触れてきたように、現実世界からサイバー空間へ、と表現することもできる。クラウド・コンピューティングがその典型で、企業レベルでは、マイクロソフトからグーグルへ、でもある。もちろん長い間、IT業界をリードしてきたマイクロソフトが手をこまねいているわけではなく、検索エンジンに関してはヤフーとの提携を深め、グーグルに対抗しようとしている。</p>

<p>　これはこれで熾烈な覇権争いが続いているわけだが、今回は第2の側面、パソコンからモバイル端末へという動きに関連して、日本のケータイが採用している日本語入力システムについて紹介する。</p>

<p>ケータイ独自の方式</p>

<p>　たとえばパソコンで「先日はわざわざご来訪いただき、どうもありがとうございました。」という文章を入力するとき、まず「せんじつは」と入力して、これを「先日は」に変換、「わざわざごらいほういただき」、「どうもありがとうございました」というふうに文節ごとに変換するのが普通である。固有名詞や自分のよく使う表現などはあらかじめ単語登録しておく人が多いと思うが、基本はあくまで文節ごとの変換である。</p>

<p>　同じ文章を手元のケータイで入力してみる。「せ」と入力すると、画面下に予測候補として、精神、静養、せよ、全身、世界、先生、ぜひ、贅沢、政界などの単語がずらりと出てくる。ここに「先日」がなければ、「せん」まで入力する。先週、全然、先生、選手、前年、センターなどの候補が、濁音とか、カタカナ、あるいは数字などの区別なく、「せん」、あるいは「ぜん」に関連する言葉がいくつも出てくる（last weekもある）。たいてい、この辺で「先日」が出てくると思うが、そこでも出てこなければ「せんじ」まで入力すれば、まず間違いなく出てくるだろう。ここで「先日」を選択する。<br />
「先日は」の次に「わ」を打つと「わざわざ」と出て、「ごらいほう」から「ご来訪」を選び、次に「あ」と打つと「ありがとう」が出てくる。これを選択すると、次の語句「ございました」、あるいは「ございます」といった句が自動的に出てきて、最後に「。」も出てくる。</p>

<p>POBoxと連想入力</p>

<p>　ケータイ・メールを利用する人にとっては、もはや当たり前の話だと思うが、この入力システムそのものが開発されたのはそれほど古くはない。「POBox」と呼ばれるこの文章入力補助機能は、現在、慶応大学環境情報学部教授の増井俊之氏が1996年から2003年にかけて在籍したソニーコンピュータサイエンス研究所時代に開発したのだという。その増井氏に最近お会いしたが、彼によれば、これは一種の連想入力で、単語の先頭部分を入力すると、その単語の使用頻度や過去の入力内容を参考にして、ユーザーが入力したい単語を予測して候補を表示するようになっている。候補表示とその順位は、当人が過去にどのような文章を書いたかの履歴によっても決まる。だから、2度目に同じ文章を入力しようとすると、「せ」を打っただけで「先日は」、「わざわざ」、「ご来訪」、「いただき」、「どうもありがとうございました」、「。」と一気に文章が完成する。</p>

<p>　パソコンでは長らく日本語変換という言葉を使ってきたが、ケータイは「変換」ではなく「選択」と呼んだ方がぴったりする。増井氏は2006年にはアップルに移り、アップルのモバイル端末、iPhone（アイホン）の入力システムも構築している。もっとも、この連想入力方式は、いまではほとんどのケータイで採用されている。</p>

<p>　たとえば若者のラブメールの場合、相手の名前も、「デート」とか「好き」とか「嬉しい」とか「ちゅ」とか「○○たん」とかいう、いつも使う言葉や言い回しはすぐ出てくるし、♡とか喜怒哀楽を示す顔文字なども、一度使えば、次から候補に出てくる。</p>

<p>　パソコンの入力ソフト（FEP）に比べるとずいぶん柔軟だが、候補一覧には自分のよく使う単語が優先的に表示され、性癖がうかがわれるところがちょっと不気味でもある。</p>

<p>ケータイ文化にも一役</p>

<p>　これが日本語入力独特の工夫だというところがおもしろい。ケータイを使ってメールを書く場合、最初は親指入力そのものに戸惑うし、コピー、ペースト、文章の移動などの操作が面倒で、パソコンになれた人にはずいぶん書きにくいが、なれてくると、なかなか捨てがたい味がわかってくる。日本語入力という点でも、ケータイは新しい文化を築き上げているといえるだろう。ケータイはケータイでパソコンとはまた違う道具であり、人びとの情報生活におよぼす影響もまた異なったものになるだろう。</p>

<p>　ケータイ・メールには、文章というよりおしゃべりに近い、大人語というより幼児語に近い、遊びの要素が強い、などいくつかの特徴がある。たとえば、三宅和子「ケータイ語―ことば遊び文化の落とし子」（『文藝春秋』季刊2008年秋号『素晴らしき日本語の世界』所収）に「代表的なケータイ・メールのことば遊び」という表が掲げられているが、こういった表現が生まれてくる背景に、定型文章を書くには便利だが、表現がどうしても画一化してしまうケータイ独自の入力方式があるとも言えるのである。<br />
</p>]]>
</content>
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<title>伝統の知恵を新技術にあわせて切り刻む（2009/9）</title>
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<modified>2009-10-09T03:08:17Z</modified>
<issued>2009-10-09T03:05:36Z</issued>
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<summary type="text/plain">　前回に続いて、技術と社会の関係について考えてみよう。技術革新は常に既得権益をも...</summary>
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<dc:subject>雑誌『広報』バックナンバー</dc:subject>
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<![CDATA[<p>　前回に続いて、技術と社会の関係について考えてみよう。技術革新は常に既得権益をもつ旧勢力から根強い抵抗を受ける一方で、新しい技術によって恩恵を得るべき新勢力からは気のない支援しか受けられない、というのはよく言われることだが、ここで問題にしたいのは、新しい技術が古い伝統や知恵を破壊しがちなことである。</p>]]>
<![CDATA[<p>　ｅラーニングとはインターネットを利用した遠隔教育、すなわちオンライン教育で、私が勤務するサイバー大学はその先駆的試みでもある。</p>

<p>ｅラーニングのメリット</p>

<p>　ｅラーニングではプレゼンテーション・ツール（たとえばマイクロソフトのパワーポイント）を使って教材をつくり、それを講師の動画に連動させて流す。教材は、いわば教室の黒板だが、黒板では教師がリアルタイムで重要箇所を書きつけるが、教材はそれをあらかじめ用意しておくところが違う。</p>

<p>　私の経験によれば、この教材づくりは実にたいへんで、準備にふつうの講義の3倍はかかる。また講義中に冗談やだじゃれ、あるいは日々の出来事をめぐる雑談などは憚られるという事情もあり、内容はおそらく通常の授業の2倍は入る。しかも双方向システムで毎回、ちょっとしたテストを行ったり、レポートを書かせたりするから、きちんと受講する学生は、知識習得という点に関して言えば、通常の授業のたぶん数倍は学べると思う。</p>

<p>　もちろん対面授業でないことのデメリットは十分認識している。このデメリットを補うメリットをいかにうまく引き出すか、あるいは対面教育との上手なすみわけがｅラーニング教育の要諦だと言ってもいい。どこからでも、自分の空き時間を利用して学べること自体、働きながら勉強しようとする人にとっては大きなメリットである（サイバー大学には社会人の学生が多く、しかも勉学への熱意は非常に強い）。もっとも、ｅラーニングそのものを論じるのは別の機会に譲り、ここで教材づくりという一つの作業を通して私が感じたことを述べておこう。</p>

<p>オンライン教材と教科書</p>

<p>　オンラインの教材は黒板代わりでもあるが、教科書に代わるものとも言える。ところが、この教材の作り方が教科書とはまるで違う。教科書を作るにはプロの編集者がいて、どちらかといえばアマの教師を補佐して、内容も、体裁もそれなりのレベルに近づけてくれる。ところがｅラーニングでは、この種の編集のプロが介在するところは少ないようで、ID（インストラクショナル・デザイナー）とかCS（コンテンツ・スペシャリスト）を名乗る担当者がいるが、彼らはアプリケーションソフトのプロかもしれないが、教育や編集に関して言えば、どちらかというと素人である。きちんとしたディレクターを配し、編集のプロも要したプロダクションもあるので一概には言えないが、安く仕上げようという傾向が露骨で、いい作品を作ろうという意識は希薄である。</p>

<p>　黒板代わりと考えれば乱雑でもいいということかもしれないが、万人が情報発信できる時代の美しい情報環境を築き上げたいと考える私から見ると、まことに残念な事態という他はない。<br />
　<br />
　プレゼンテーション・ツールを使ったページの見出しの位置、本文枠の位置なども、上下左右のバランスなど一番美しい形を追求すべきだと思うが、それを望むと「いまのソフト（プログラム）では、そのようなことはできません」という言葉が返ってくる。技術でできないものは無理だと単純に考えており、従来の編集現場で大事にされてきた作品のデザイン、見やすさなどは平気で無視される。彼らにそのような現場で働いた経験がないから、それはそれでもっともなわけである。</p>

<p>　このことを大胆に一般化すると、技術の限界がそのまま作品の限界になり、それでしょうがないという技術本位の考え方が蔓延している。技術の欠陥を手作業で補おうとする気持ちもないし、そのノウハウもない。プロの矜持がないというよりも、プロとして養成されていない。流来のメディアづくりで培われたノウハウが、新しいオンラインメディアで踏襲されていないということでもある。</p>

<p>　かつてDTPによる本の編集に立ち会ったとき、出版社における編集技術の衰退に驚いたことがあるが、ここでは編集ノウハウはもはや消滅寸前で、メディア環境は劣化するばかりである。<br />
　<br />
　ちなみに、関連イベントなどでｅラーニングを喧伝している人たちの顔ぶれを見ても、教育のプロとか編集のプロというよりも、コンピュータのプロである場合が多く、ｅラーニングソフトを売り込みたい企業の思惑が先行しているようである（最近では大学のｅラーニング研究も進んでいるので、いずれは変わってくるだろうけれど）。</p>

<p>新旧システム間の人材交流</p>

<p>　既存マスメディアの衰退ぶりは、折にふれて言及しているように、「総メディア社会の進展図」に明らかだが、既存メディアで培われてきた編集をめぐる知恵や技術もまた失われてしまうのはもったいない。<br />
　<br />
　紙のメディアの衰退で既存の編集プロダクションは青息吐息である。一方で、ｅラーニング現場に、この種の人材が吸収されているという話はあまり聞かない。これは大いなる社会的損失ではないだろうか。激しいメディア地図の変容に見合った、効果的な人材交流の体制作りが必要なように思われる。<br />
</p>]]>
</content>
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<title>クラウド･コンピューティング（2009/8）</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.cyber-literacy.com/blog/archives/2009/09/20098.html" />
<modified>2009-09-02T05:58:31Z</modified>
<issued>2009-09-02T05:50:14Z</issued>
<id>tag:www.cyber-literacy.com,2009:/blog//1.141</id>
<created>2009-09-02T05:50:14Z</created>
<summary type="text/plain">　クラウド・コンピューティングといって、データやプログラムをネットワーク上に置く...</summary>
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<dc:subject>雑誌『広報』バックナンバー</dc:subject>
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<![CDATA[<p>　クラウド・コンピューティングといって、データやプログラムをネットワーク上に置くことがさかんになっている。そうしておけば、自宅でも、会社でも、海外でも、どこからでもデータにアクセスでき、作業も続けられる。複数の人間で共同作業もできて便利というわけだが、ここで記憶や記録をネットワーク上に蓄えることの意味を考えておこう。</p>]]>
<![CDATA[<p>記憶・記録をネットに蓄えることの意味</p>

<p>　クラウド・コンピューティングとは、ユーザーが自分のパソコンや会社のサーバーにインストールされたプログラムを使ったり、そこにデータを保存したりするのではなく、インターネット上の汎用サービスを受け、データもネットワーク上に置いておく仕組みである。クラウドは雲（cloud）のことで、コンピュータ・ネットワークを雲の形で図示することから来ている。</p>

<p>現実世界からサイバー空間へ</p>

<p>　パソコンからネットワークへの移行は、これまでもネットワーク・コンピューティングとか、ウエブサービスなどと呼ばれてきたが、2006年にグーグルのCEO、エリック・シュミットがクラウド・コンピューティングと名付け、アマゾン・コムなどが大規模なサービスを始めて、あらためて脚光を浴びるようになった。<br />
　<br />
　個人よりも企業が主たる相手で、その典型がサーズ（SaaS＝Software as a Service）である。インターネット上で提供されている企業会計や販売管理ソフトなどを使えば、自社でこれらのシステムを開発するのに比べ経費節減になるし、大掛かりなシステムを開発できない中小企業も、同じ性能のソフトを使うことができる。これらのソフトや膨大なデータを蓄積できるインフラ（サーバー）も用意されている。<br />
　<br />
　このクラウド・コンピューティングは、個人にもどんどん広まっている。アメリカでは、街を歩いていて思いついたこと、目についた看板、風景、音声など、あらゆるデータをその場でどんどんネットワーク上に蓄積、個人データベースを築き上げる動きもあり、音声や映像の検索機能も発達しているらしい。<br />
まさにすべてのデータが、現実世界からサイバー空間へ移行しつつある。</p>

<p>記憶をどこに蓄えるか</p>

<p>　私たちはこれまで記憶をどこに蓄えてきただろうか。歴史的には、以下の変遷をたどっている。<br />
　①自分の脳、あるいは身体 <br />
　②文字で書かれた記録―日記、書物 <br />
　③自分で管理するパソコン―ハードディスク、USBメモリー <br />
　④他人が管理するネットワーク―クラウド・コンピューティング</p>

<p>　文字が発明されたころ、これに反対した人はたくさんいて、たとえば、ギリシャの哲学者、ソクラテスはこう言っている。「現実には精神のなかにしかありえないものを、精神のそとにうちたてようとする点で、書くことは非人間的である」、「書くことは記憶を破壊する。書かれたものを使う人間は、｛精神の｝内的な手段としてもっていなければならないものをもたず、そのかわりに外的な手段によるために、忘れっぽくなる。書くことは精神を弱める」（1）</p>

<p>　中国の古書、『荘子』（天道篇）には、斉の桓公の逸話としてこんなことが書いてある（2）。<br />
 <br />
　桓公が座敷で書見していると、庭で仕事をしていた車大工がそれをのぞき込んで「殿様、何を読んでおられますんで」と聞いた。「聖人の言葉を学んでいるのだ」、「聖人はまだご存命で？」、「いや、とっくにお亡くなりになった」、「ということは、あなたは聖人のカスを読んでおられるわけですね」。 むっとする桓公に、車大工はこう言ったという。<br />
 <br />
　車をつくるときの木の削り方一つとっても、コツというものがあって、それは手ごたえでとらえ、心にうなずくだけ、言葉で伝えられるようなものではない。そのコツは子どもに伝えることはできず、子どもも私から受け継ぐことができない。だから七十歳の今も私は車を作っているのです。私の小さな経験から考えても、古の聖人は、伝えることのできない体験的な真理とともに、すでに世を去っており、したがって、いま殿様の読んでおられるのも、聖人のカスでしかない、と。<br />
　<br />
　仏教、とくに禅宗には不立文字という言葉がある。文字では表現できないものがある、という意味で、知識は肉体から離れることで、かえって大事なものを失うという警告でもある。近代法においては、「内心の自由」が保証され、心に思っただけで罰せられることはない。外面的なものは法、内面的なものは倫理で規制するというふうに、一種の分化が行われたわけだが、そのために内面の倫理の重みが減じた。</p>

<p>体験の内実が衰弱する恐れ</p>

<p>　さて、コンピュータはどうか。アメリカの大学教授は「コンピュータという不思議な機械の出現によって、検索できないものは何もない、だからすべてを忘れてもかまわないことになった今日、昔からの学問の本義はその根底から揺さぶられている」（3）と嘆いた。</p>

<p>　コンピュータを使うと言っても、当初はプログラムやデータは自分で管理できるパソコンに保存したから、それらはまだ身近にあったが、クラウド・コンピューティングでは、他人が管理するネットワーク上に置かれる。</p>

<p>　セキュリティ的にはかえって安心という面もあるようだが、結局は他人任せだから、ネットワーク・トラブルにでもなればお手上げである。しかし、すべてをサイバー空間に蓄えるやり方は、もっと深いところで私たちの感性に大きな影響を与えるように思われる。</p>

<p>　ネット中傷事件などでは匿名発言の「軽さ」が特徴的だが、インターネットの普及で「内心の自由」はさらに肉体から遊離され、自由になった。その結果が「実際には思っていない（心にもない）ことまで平気で言う」風潮である。ここには自分の発言に責任をとるといった近代的な精神も、他人を攻撃する自分に対する恐れといった前近代的な感性もない。</p>

<p>　言葉が言葉単独で浮遊しており、私たちの経験、体験の内実が衰弱している。このこととクラウド・コンピューティングとは、どこかでつながっていないだろうか。</p>

<p>注<br />
（1）プラトン『パイドロス』藤沢令夫訳、岩波文庫<br />
（2）福永光司『荘子 外編･中』（朝日新聞出版）による<br />
（3）ゲーリー・ガンバート『メディアの時代』石丸正訳、新潮社、原著1987</p>]]>
</content>
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<title>出版業界への大日本印刷の攻勢（2009/7）</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.cyber-literacy.com/blog/archives/2009/08/20097.html" />
<modified>2009-08-02T04:44:57Z</modified>
<issued>2009-08-02T04:35:20Z</issued>
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<created>2009-08-02T04:35:20Z</created>
<summary type="text/plain">　全体システムの長年に及ぶ制度疲労に悩む出版業界は、主役である出版社、取次、書店...</summary>
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<email>yano@cyber-literacy.com</email>
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<dc:subject>雑誌『広報』バックナンバー</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://www.cyber-literacy.com/blog/">
<![CDATA[<p>　全体システムの長年に及ぶ制度疲労に悩む出版業界は、主役である出版社、取次、書店が三つ巴の危機に見舞われてすでに久しい。そこへ傍流である印刷業界から、大日本印刷が大がかりな攻勢をかけている。</p>]]>
<![CDATA[<p>出版社、取次、書店、三つ巴の制度疲労に喝？</p>

<p>　大日本印刷の動きを年代順に並べてみよう。</p>

<p>　2008年8月、大日本印刷は書店の丸善への出資比率を51パーセントに引き上げ丸善を子会社化。あわせて図書館への販売を手がける取次、図書館流通センターとも提携強化へ。<br />
　2009年3月、書店、ジュンク堂の株式51パーセントを取得し、業務提携へ。<br />
　同年5月、出版社、主婦の友社の筆頭株主に。講談社、集英社、小学館などと共同でブックオフの株を29パーセント取得（大日本グループは16パーセント）。　　　</p>

<p>　出資が取次、書店、出版社と、出版3グループのすべてに及ぶばかりか、従来の出版流通システムの鬼っ子とも呼ばれる新古書店、ブックオフも巻き込んでいることが注目される。従来、印刷会社は出版社から書籍の印刷を受注するだけで、業界全体からみればむしろ傍流的存在だった。本や雑誌は、出版社がつくり、書店が売る。その間を取次が仲立ちし、配本から金融まであらゆる業務を担ってきた。</p>

<p>　この従来の出版システムが、本が売れなくなったという大状況と情報のデジタル化で、大きく揺れているのである。</p>

<p>　従来の小規模な書店（俗に駅前書店と呼ばれる）は、1970年代後半以降、年間1000店程度のペースで閉店に追い込まれてきた。これに代って進出したのが、郊外型書店やチェーンなどの大型書店である。店頭には取次のコンピュータ配本によって、ベストセラー、ハウツーもの、文庫や新書、雑誌などが並び、書店の風景は一変した。本好きな「読書人」が姿を消し、郊外型書店には同じような本ばかりが並び、「買いたい本がない」とも言われてきた。</p>

<p>　一方で、「本が売れないのに出版点数はほとんど変わらない」、「新刊点数は逆に大幅に増える」という異常事態が恒常化し、結果として40パーセントもの書物が売れないままに出版社に返本され、あえなく断裁（廃棄処分）されるという状況も出現していたのである。</p>

<p>ブックオフは「鬼っ子」</p>

<p>　混乱の遠因は、一般商品とは違う書籍特有の販売システムにある。それは、一定期間に売れなければ返品していいという委託販売制度と、書籍（新聞も）の全国一律定価を可能にしている、独占禁止法の例外、再販売価格維持制度（再販制）である。<br />
　<br />
　本は買い切りではないので、書店は仕入れに目利きを働かせる必要がない。結局は、取次のコンピュータ配本に頼る安易な経営を生んだし、本が売れないにもかかわらず、いや、むしろ売れないからこそ出版社は、すでに代金を受け取っている本が取次経由で書店から戻ってくるときの費用を捻出するために、より多くの新刊を出して売り上げを立てるという、まさに自転車操業を繰り返してきた。</p>

<p>　ブックオフは、その間隙をぬって生まれてきた、まさに「鬼っ子」的存在である。町の書店の「読者」が郊外型書店の「消費者」に変わった時、本は読み終えたら捨てられる消耗品になった。そうして登場したのが、本のリサイクルともいうべき新形態の古書店で、その典型が「ブックオフ」である。</p>

<p>　1990年に最初の直営店が神奈川県相模原市に開店、今では全国に1000店以上のチェーン展開となっている。新古書店が従来の古書店と違うのは、価格設定がまったく本の価値とリンクしていないことである。不要になった本を定価の1割程度で買い、「新しい本」、「きれいな本」を定価の5割程度で売る。汚い本や古い本、一定期間に売れなかったものは一律、百円コーナーに。従来の古本屋では、本の内容（メッセージ）の価値が重視され、絶版本とか、貴重本は定価よりもはるかに高くなったりするが、新古書店では、本の内容への考慮はほとんどない。<br />
　<br />
　ブックオフを舞台にして、出版社→ブックオフ（出版社の中古としての直接卸し）、ブックオフ→書店→出版社（書店がブックオフで買った新品同様の本を返品扱いにして出版元に返す）、書店→ブックオフ（ブックオフに売るための書店での万引き）といった合法、非合法なアングラ・ルートが存在しており、本の流通システムは破綻寸前といっていい。</p>

<p>　そこへ出版の電子化が追い打ちをかけている。本のDTP（デスクトップパブリッシング）制作、CD-ROMなど新メディア、アマゾン・コムなどのオンライン書店、あるいはオンデマンド出版など、デジタル化の波はすでに何度もボディブローを受けてきた出版業界への最後の一撃とでもいうべきショックをもたらしている。</p>

<p>大日本印刷の野望</p>

<p>　そこに割り込んできたのが大日本印刷である。日経ビジネスオンラインに「大日本印刷がブックオフに出資した理由」と題する、大日本印刷の森野鉄治常務への興味深い<a href="http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090615/197667">インタビュー記事</a>が載っており（聞き手は井上理記者）、「僭越ながら、私たちが新しいビジネスを提案」というサブタイトルがついている。</p>

<p>　森野常務の発言から興味深いものを拾ってみると、①書籍の返品率40パーセントというのは、印刷する側から見ても、「売れても、売れなくても、印刷代をもらえればそれでいい」と、ただ放置しておくことはできない。②インターネットを中心に情報の無料化が進んでいるが、「知」はやはり商品への対価が得られる仕組みの中で再生されるべきである。③図書館流通センターのデータベースをもとに、出版業界の新しいプラットホーム（流通の仕組み）を作りたい。これを出版業界に採用してもらうことで、出版業界が活性化し、その結果として印刷の受注が増えることを願っている。④ブックオフが本の流通を乱している部分は正していきたいし、ICタグを導入することで流通正常化を図りたい。⑤電子情報端末の開発にも意欲的に取り組む。と言ったところである。</p>

<p>　出版業界を抜本的に改革しようという大日本印刷の並々ならぬ意欲が感じられる。これまでの流通の要だった取次への影響が一番大きそうだが、さて、これからどういう展開があるだろうか。「総メディア社会」の激震がいよいよ高まってきた。<br />
</p>]]>
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<title>スーザン・ボイルの奇跡（2009/6）</title>
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<dc:subject>雑誌『広報』バックナンバー</dc:subject>
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<![CDATA[<p>　スーザン・ボイルという女性の名をご存知の方は、どれくらいおられるだろうか。イギリスの47歳の教会ボランティアが素人登竜門のテレビ番組で歌を披露したら、その妙なる美声とすばらしい歌唱力に、3人の審査員も、満員の聴衆も、まず唖然、ついで万雷の拍手が起こった。その一部始終を動画配信サイト、ユーチューブで見ることができる。</p>]]>
<![CDATA[<p>　この話は日本のテレビ（バラエティ番組）でも紹介されているけれど、<a href="http://www.youtube.com/watch?v=1t8m7CkpIK0">元の動画</a>をぜひご覧になることをおすすめする。</p>

<p>　中年女性の美声に酔う</p>

<p>　どちらかというと風采の上がらない、猫と暮らしているという中年の独身女性が舞台に上がったとき、聴衆はうんざりした様子だった。彼女が「エレイン・ペイジのようなプロ歌手になりたい」と答えると、審査員は「この歳までなれなかったのはなぜしょう」と冷ややかに言い、映し出された聴衆の顔にはあざけりが浮かぶ。<br />
　<br />
　しかし、いったん彼女がミュージカル「レ・ミゼラブル」の中の「夢やぶれて」を歌いだすと、会場の空気は一変。審査員も、聴衆も驚き、ついで感嘆と拍手が起こった。3人の審査員の表情の変化は、人は感動したときにはかくも美しい顔をするのかということさえ思わせる。歌い終わったとき、最初に発言した審査員は、「あなたがエレイン・ペイジが目標だと言ったとき、みんなさげすみの表情を見せましたが、いまそう思う人はいません。3年間、この審査をしているが、こんなに驚いたことはない」と述べ、途中から立ち上がって拍手を送っていた女性審査員も、最後の審査員も、異口同音に彼女をほめそやした。</p>

<p>　放映されている番組はまだ予選段階で、これから本格的なコンテストが始まるのだが、すでに彼女は全世界で話題になり、自宅前は取材陣で連日大賑わいらしい。ＣＤを出すことも決まったと言われている。ユーチューブにはその一部始終、日本語字幕をつけたもの、彼女のその後のテレビ・インタビュー、さらにはどこから探してきたのか、彼女が22歳のころ舞台で歌っている動画など、60本ちかくの作品がアップされ、それぞれが数万回から数十万回、さらには数百万回も閲覧されている。<br />
　<br />
ユーチューブの底力</p>

<p>　これは驚くべきことである。ユーチューブは世界同時公開で、気に入れば何度でも見られる。日本語字幕をつけるなどの工夫も可能だし、自分のコメントを書き込むこともできる。私がやっているように、ＵＲＬを他人に知らせて見るように薦めることもできる。</p>

<p>　テレビだとこうはいかない。放映エリアや時間は限られているし、何度も見るためには録画しなくてはいけないし、録画しようとしても間に合わないことも多い。いますぐこれを見るように、と他人に薦めることもできない。</p>

<p>　テレビはもはやインターネットに飲み込まれつつあると言えるだろう。もっとも、テレビ番組のアップは著作権上の問題をはらんでいるが、これだけ世界に配信されれば、テレビ局としても問題はないだろうと思わされる。</p>

<p>　以前、やはりユーチューブで公開されたカーネギーメロン大学のコンピュータ科学者（バーチャル・リアリティ専攻）、ランディ・パウシュ教授の「最後の授業」が評判になったことがある。がんにおかされた彼は、5歳、2歳、1歳の子どもたちのためにもと考えてこの授業を引き受けたのだが、<a href="http://www.youtube.com/watch?v=nrFMRuB2lbA">公開された授業</a>は、多くの聴衆に、そして成長した後の子どもたちに、夢を持つことの大切さを教えた。</p>

<p>総メディア社会の進展</p>

<p>　こういう番組が世界同時に配信され、何度も見られている。これこそが、総メディア社会のすばらしい一面であることは間違いない。もっとも、素人が作り上げた作品と、プロのテレビ会社が多くの人員と時間と、そして費用をかけた作品が同列に論じられないのはもちろんである。</p>

<p>　この総メディア社会が新たな問題をはらんでいることは何度もふれてきたが、今回は最近出版した『総メディア社会とジャーナリズム』（知泉書館）の表紙を飾った、<a href="http://www.cyber-literacy.com/ja/about/index.html">総メディア社会の進展図</a>を紹介しておこう。<br />
 <br />
　中央にある卵型の楕円の上は「巨大メディア企業」、下は「パーソナルメディア」と一応分けているが、この2つの楕円が全体としてインターネットを構成している。すなわち現在は、インターネット上の電子メディアが主流であり、かつてメディア地図全体を覆っていたマスメディアはもはやその一部でしかない。そのマスメディアの活動も、一部はインターネット上に乗っている。残る外に出ている部分が、従来の新聞であり、書籍であり、テレビである。</p>

<p>　また、ユーチューブ以外にも「ニコニコ動画」など、いろんな動画サイトが登場し、メディアの中心は文字から映像へと移りつつあるのも総メディア社会の一面である。<br />
</p>]]>
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<title>三菱UFJ証券社員の顧客情報売却（2009/5）</title>
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<modified>2009-06-01T09:05:49Z</modified>
<issued>2009-06-01T09:02:33Z</issued>
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<summary type="text/plain">　三菱UFJ証券の社員が自社のほぼ全顧客にあたる約150万人分の情報を不正に持ち...</summary>
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<dc:subject>雑誌『広報』バックナンバー</dc:subject>
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<![CDATA[<p>　三菱UFJ証券の社員が自社のほぼ全顧客にあたる約150万人分の情報を不正に持ち出し、一部を名簿業者に売却した事件は、デジタル情報を扱うことのたやすさと難しさという、相反する現実を改めて印象づけた。</p>]]>
<![CDATA[<p>浮遊するデジタル情報の扱いにくさ</p>

<p>　この事件は4月8日に三菱UFJ証券が自ら明らかにしたもので、元部長代理は他の社員のIDとパスワードを使って顧客情報にアクセスして150万人分の情報を不正に持ち出し、これを別の社員にCDにコピーさせた。いったん自宅に持ち帰り、パソコンにコピーしたうえで、CDは翌日、会社に返した。その後、約5万人分の情報を名簿業者に計32万余円で売却した。名簿業者はその情報を他の名簿業者や企業に転売、流出先は80社近くに及ぶという。同部長代理は即刻、懲戒解雇されている。</p>

<p>　情報には名前、住所、年齢、勤務先、自宅や携帯の電話番号、7段階に区分した収入などが含まれていた。これを買った不動産会社や商品先物業者などから勧誘を受けた顧客の通報で事実が明るみに出た。</p>

<p>紙なら高さ5メートル</p>

<p>　これが紙に書かれた情報であれば、A4程度の用紙でもせいぜい1枚30人分ぐらいしかおさまらない。150万人で5万枚である。紙10枚で1ミリの厚さとして計算すると、5万枚で5メートルの高さになる。これだけの紙を、だれにも知られずに持ち出すのは難しい。コピーすること自体が一人ではほとんど不可能だろう。電子化されたデータであればこそ、あっという間に150万人分の個人情報を、だれにも知られずに持ち出せた。そのすべてがCD1枚におさまるからである。</p>

<p>　データは名簿業者3社に売られたが、すぐに他の名簿業者や不動産業者などに転売され、それがすぐ物件などの勧誘に使われた。事件発覚後10日たった4月17日現在で、顧客からの問い合わせは7000件を超えるという。</p>

<p>　同証券では、名簿業者に情報の利用や販売を中止する同意をとりつけたらしいが、いったんデジタル化された情報を完全に削除するのは不可能である。証券会社が秘密裏に買い取りを画策しても、法外な値を要求されるだろうし、すでに転売された情報はとりかえしがつかない。覆水盆にかえらず。情報はサイバー空間を浮遊しつつ、無限に広がっていく。<br />
　<br />
情報を盗むということ</p>

<p>　元社員が顧客情報を「不正に持ち出した」と書いてきたが、平たく言えば、元社員は顧客情報を「盗んだ」わけである。盗む行為にはふつう窃盗罪が適用されるが、この犯罪に窃盗罪を適用することは難しい。<br />
　<br />
　刑法第235条は「他人の財物を窃取した者は、窃盗の罪とし、十年以下の懲役に処する」と定め、245条で「この章の罪については、電気は、財物とみなす」と定めている。これは、窃盗罪に関しては、電気を特別に財物とみなしているが、財物以外の、たとえば情報を盗んでも窃盗にはならない、と解釈するのが一般的である。罪刑法定主義のもとでは、あらかじめ条文に規定されていない犯罪を罰することはできない。<br />
　<br />
　というわけで、これまでも情報の窃盗に関しては、捜査当局も頭をかかえてきた。</p>

<p>　2007年に、大日本印刷がダイレクトメール印刷用などで保険、食品、旅行、銀行、自動車販売などの企業43社から預かっていた約860万件の個人情報が、業務委託先の社員によって盗まれ、詐欺グループに売られるという事件があった。詐欺グループが信販カードを不正使用して670万円相当をだましとったのが事件の発端で、情報提供者の元社員が情報提供の対価として得たのは22万円だった。そして彼の起訴容疑は、わずか250円相当の記憶媒体（ＭＯ）1枚を、大日本印刷から盗んだことだった。<br />
670万円の被害、22万円の対価、250円の罰金。この数字はなかなかに感慨深いと言えるだろう。<br />
今回、元社員は、少し頭を使ったのか、CDをきちんと返却している。だからCDの窃盗罪も成立しない。では何で罰すべきか。そこで浮かび上がっているのが不正アクセス禁止法違反である。他人のIDやパスワードを使ってデータベースにアクセスしたからである。</p>

<p>　しかしこの法の罰則は、「一年以下の懲役または五十万円以下の罰金」である。同証券が顧客からの苦情や社会的信用の失墜などで甚大な被害を受けそうなのに対して、いかにも軽微である（もっとも被害弁償ということであれば、元社員を相手取って民事訴訟を起こす方法もあるが、逆に証券会社が、顧客から損賠賠償や慰謝料請求などで訴えられる可能性もある）。</p>

<p>「産業スパイ法」の構想</p>

<p>　このような犯罪を防ぐにはどうすればいいだろうか。そこで必ず論議になるのが「情報窃盗罪」の新設だろう。現に、頻発する「産業スパイ」を取り締まるために、経済産業省は新たな法整備を検討しているが、それは刑法では摘発できない「情報の窃盗」取り締まりをねらっているとも言える。<br />
　<br />
　経済産業省がこの構想を明らかにした2008年1月、甘利明経産相（当時）は、CDを例にとって、「日本の窃盗罪は盤にかかり、情報の中身に対してかからないという問題がある。中身自身の重要性に視点を移すべきだ」と「情報」の意味に注意を喚起した。罰則も不正競争防止法並みの「十年以下の懲役、一千万円以下の罰金」にするという。<br />
　<br />
　そうなると安心かというと、そうでもないところが情報社会のやっかいなところである。情報のような実態のないものを取り締まること自体がたいへん難しいが、だからこそ、拡張解釈されると、いつなんどき、身の覚えのない罪で摘発されるかわからないという不安が生じるからである。<br />
</p>]]>
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