IT技術は日本人にとって「パンドラの箱」?

 私はときどき、日本人にとってIT技術は「パンドラの箱」ではないかと思うことがある。

 たとえば、シェイクスピアの「リア王」で、登場人物の一人が父を裏切り、王侯に忠義だてするとき、
「忠義の道を一と筋に進む覚悟でございます。たとい忠と孝の争いが苦しゅうございましても(斎藤勇訳)」
 というセリフをはくが、これが日本人だと、
「忠ならんとすれば孝ならず、孝ならんとすれば忠ならず。進退これ窮まれり」(平家物語)
 といった具合になる。
 乱暴に言ってしまえば、二者択一の事態に直面したとき、欧米人は自分の責任でそのどちらかを選択し、いったん決めた道は無理でも突き抜け、結果には自らの命も含めて責任をとる。

 この白か黒かの決着のつけ方は、1か0かのデジタル思考ときわめて相性がいい。だからこそ彼らはコンピュータを発明したのだろうし、その使い方もうまい。対立する考え方を暴力的に排除もするが、対立する意見、あるいは世界があること自体はつねに意識している。カウンターカルチャーが一方で大きな力をもつし、道具を手段として相対化して使おうともする。
 日本人の場合は、二者択一の場面で判断停止することが多く、その場の「空気」とか、状況に埋没し、流されてしまう。何らかの行動に出ることをやめて、自らの命を絶つことも多い。
 コンピュータは白か黒かの二者択一の世界である。「ほどほど」、「灰色」といった処理をさせるのはむつかしい。日本人は、なれない思考方法にいやおうなく直面させられ、コンピュータに親しむ若者たちも、それを毛嫌いする年長者も、ともにコンピュータに全面降伏しがちである。デジタル技術を対象化し、コントロールして使うことができないために、かつての日本社会の長所は失われ、欠点は拡張されている。
 マンション耐震強度偽装事件で建築士が構造計算書にちょっとした細工をしたら、それが検査機関の目をすり抜けてしまった。みずほ証券では、社員がコンピュータ入力を間違えたために、あっという間に四百億円の負債を抱え込んだ。

 私は、これからのIT社会を快適で豊かなものにするための知恵として「サイバーリテラシー」を提唱している。その課題は、インターネット上に成立したデジタル情報環境、サイバー空間の特質を理解すると同時に、サイバー空間が現実世界をどう変容させるかを探ることである。
 デジタル情報革命は世界同時に進んでいるから、「サイバーリテラシー」の対象はまさにグローバルだが、一方で「日本人とIT」というローカルな問題を無視することはできない。いや、これこそが喫緊の課題と言えよう。

 「サイバー空間は『個』をあぶりだす」というのが「サイバーリテラシー三原則」の一つだが、社会システム全体が「組織」から「個」へと大きくシフトするとき、この新しい道具は日本人の「個」を育てないのみならず、かえって全体の「空気」を一方的に拡大する奇妙な装置として働きかねない。ITを金儲けの道具や便利さ追求の観点のみで使っていると、そこに出現するのは、「オープンな道具を使った不寛容な日本」という悪夢である。

(讀賣新聞2006年2月7日夕刊文化欄)